パウロ・畑中 栄松師

1940(昭和15)年〜1944(昭和19)年


 大水教会信徒の信仰生活

(1)、日曜日のミサ

 では畑中師から誉められていた大水の信徒はどのように日曜日のミサの務めを果たしていたのだろうか。ここでは大水出身で今は江袋にお住まいの宮脇ヤエノ(65)さんと今も大水で元気に老後をお過ごしの大水ミエ(77)さんに聞いてみた。
 
江袋教会 十字架の道行きの信心業
昭和60年
この信心業は今日も毎週金曜日、明治15年教会創設以来先祖代々からの信心業として継承されている。
ロザリオ信心業風景 江袋教会

 宮脇ヤエノさんの場合

 畑中師が仲知に滞在されていた頃の彼女はまだ北魚目尋常小学生の時で師から初聖体をさせていただいたが、堅信を受ける前に師は転任された。

 畑中師の頃は大水でのごミサはほとんどなく、たいてい日曜日になると、大人も子供もみんな江袋教会か仲知教会での朝8時30分に行われていたごミサに参加していた。海上が凪の時は大水の村船で、海上が時化ているときは山道を歩いて参加していた。

 大水の子供たちは親の持ち船より大きかった村舟で行きたがっていたが、全員が乗船できなかったので、乗せてもらえるように早めに家を出発して船着場まで急いで降りて行き大人に加勢して舟を引き揚げたり、引き降ろしたりしていた。というのは大水の港は船着場としては不適当であるからである。5丁櫓の5ヒロの大きさの村船にはたいてい定員いっぱいの信徒を乗せて出発していたが、子供たちも、海を怖がる一部の子供を除けば櫓を漕ぐ大人と一緒に櫓を漕いでお手伝いすることがあった。

 海上が時化ているときは、親とは別に友達の大水道子や大水妙子たち を誘い合わせて一緒に山道を2時間ばかり歩いて参加していたが、ミサが済んで帰るときにはよく道草を食っていた。

 そして、帰る頃になると朝ご飯を抜いてミサに参加し腹が空いていたので、しばしば、道の途中で木の実を採っておやつ代わりにしていた。イタブ、野イチゴ、ゴロベの実、グミ、桑の実、山カキ、クロンジュウ、ヤマモモ、ヤマブドウ、コッポ、グベ、しいの木の実 、アクチの実などなど季節季節で異なるいろいろな木の実が子供たちの空腹を満たしてくれた。

 男の子の中には他人の畑の芋を勝手に掘り起こして生のまま食べて空腹を満たすという悪い子もいた。
弁当は持っていかず家で昼食を摂っていたが、道草して帰りが遅い時には親から叱られることもあった。
 
 
 

江袋教会でのミサ風景写真
この写真は平成9年4月、江袋の子供たちを集めて撮ったもの

大水ミエさんの場合

 大水ミエさんは大正13年2月10日、大水金助・ウキの次女として大水に生まれる。昭和17年12月28日、大水要助と結婚し男の子5人、女の子1人授かる。

 彼女には平成13年2月28日、大水の隠居宅で長男が生まれる昭和19年頃から昭和30年頃のミサ拝み風景を語ってもらった。

 「この頃は大水教会での日曜日のミサは月に一回程度のものであったので、大水の信徒は歩けない障害者やお年よりを除けば全員毎日曜日ごとに仲知か江袋教会まで出かけて日曜日の務めを果たしていた。夏は海上が凪になることが多かったので、村船か個人の舟で参加し、しけの時が多い冬場には山道を歩いて参加していたが、このミサ拝みは信者として大切な務めとして思っていたので、みんが頑張って出席し、仲知か江袋でミサがない時には青砂ヶ浦教会まで行ってミサの務めを果たしていた。しかし、何の苦労もなかったわけではない。

 仲知でも江袋でもその頃の日曜日のミサは朝の8時であったからそれに間に合うために早朝暗いうちに出発していたが、強風で雪のちらつくような真冬には、大瀬良峠に来ると冷たい北西と北東の突風にあおられいつも困っていた。

 ある時には小雪交じりの北西の強風で前になかなか進むことが出来ず背中におぶっている子供が冷たくて泣くので、止むを得ず近くの家に寄って暖を取らせてもらったことがあった。

 ミサ拝みから帰ると、昼食をとってやっと一息つき日曜日の休日を過ごしていたが、午後4時半になるとまた地元の大水教会に出かけてみんなと一緒にロザリオ信心と夕の祈りとをしていた。さらに、第一日曜日は先祖からの習慣として司祭・修道者の召し出しのための意向で午後1時半にロザリオをしてから教会墓地と教会の掃除をしていた。

 それから、毎金曜日朝の6時には全信徒が教会に集まり、十字架の道行きの信心業をしていた。今は午後になり、あずかる信徒も少なくなっているが、この信心業は昔から行われ続けている信心業で大水教会の伝統として大切にしている。

 さらに、大水教会の守護の天使聖ミカエルの祝日には日曜日に準じて仕事を休み、処女会会員が思い思いに教会内の飾り付けをして祝っていた。この祝いも先祖から継承されていたよき習慣であった。

祈りの実践
 
  (上)聖体訪問を趣味にしておられた尾上ミキさん。平成10年、100歳で他界された。
 (下)祈りの友達 聖体訪問後の楽しい語らいのひととき
  これら二枚の写真はたまたま巡礼に来た方が撮ってくれた写真です。

 今日、朝の祈り、夕の祈りをしなくなった家庭が多くなりつつありさびしく思っているが、彼女の少女時代(昭和10年代)にはこの祈りを神を敬う大切な務めとして家族ぐるみで熱心に実践していた。夕刻それぞれの家庭で行われていたロザリオと夕の祈りの先唱は子供たちの役割で子供たちは交代でしていたが、途中で眠ったり、うつむいたりしていると父の大水金助からよく大声で「立て」と怒られていた。

 母ウキからはラテン語の短い祈り「benedikamus domino deo guratias」(主を称えよう、神に感謝)を起床した時に唱えると朝から晩まで神さまを愛することになる」、と教えられて育ったので、今でも朝起きると手元に置いている十字架を接吻しながらこの祈りを唱えて一日をはじめることを習慣にしている。

 両親(父・大水庄作、母・大水フミ)の思い出
 大水教会信徒大水ヒデ子(71歳)さん

 平成13年3月1日、大水ミエさんに続き仲知から大水にある彼女の家を訪問し先祖について伺った。

 彼女の実家は大水の「ワラジバタケ」という所にあった。その地区は集落の端のほうに位置し、当時は5、6軒あった。両親は信仰のことにはざま(たいへん)に厳しかった。朝晩には何処の家でもそうであったがコンタツ(ロザリオ)の信心業を必ずしていた。私の家でも毎日朝夕コンタツをさせられてたが、そのようなとき、眠ったりしていたら当時大水教会の教え方をしていた父から「立て」と言われた。そのとおりしてもなお眠っていると「外に出て顔を洗って来い」とおごられた。一度は、「涼しかところでなっと、祈りばしなさい」と言われたので縁側に行って祈っていると、そこでも眠り込み知らぬまに縁下に落下したことがあった。

 また、大水では5月、10月の聖母月信心業、6月のみこころ信心業は今でも実践されているが、彼女の少女時代にはこれらの信心業に参加すること自体が大水の子供たちにとって楽しいことであった。彼女の家は村はずれにあったので、教会までの細い登り道を独りで歩くのは辛い時もあったが、帰るときには友達と一緒に世間話をしたりして楽しく、5月になると蛙がギャギャとなっている声を聞きながら帰ることもまたロマンチックで楽しいことであった。

 生活面でも母の躾は厳しく学校に登校する前に子供達に代わりばんこで朝飯を炊かせていた。
その頃の主食は麦、カンコロ、サツマイモであったが、朝食の材料である芋の芋洗い、皮むき作業、芋を蒸かす薪は前の晩から準備していた。

 
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