パウロ・畑中 栄松師

1940(昭和15)年〜1944(昭和19)年


 
トラピスト修道院
天使の聖母 トラピスト修道院

 

修道者の召命(しょうめい)

(1)、 トラピスト修道院

 畑中師は修道者の召し出しにも力を入れ、戦時中女子青年を指導し、師の導きによりトラピストに入会した方が何人もいる。

 師の影響と感化を受けてトラピスト修道会へ入会した方は昭和22年は仲知から真浦カオルと真浦ユキコ、野首から白濱シズの3人、昭和24年は野首から白濱チマ、仲知から山添ハルエの2人、昭和25年は大瀬良から大瀬良アヤノ、大水から大水チマ、赤波江から赤波江文子の3人で合計すると8人である。

 8人のトラピスト修道会入会年は畑田師と西田師の時代となっているが、入会前に畑中師から直接間接に影響を受けて入会している。
 
 
天使の聖母トラピスチヌ修道院 写真は同修道院100周年記念誌より引用

 具体的にどのような影響をうけたのかについては本人たち一人ひとりに聞くことが一番良いことであるが、当人たちは沈黙を厳守する観想修道会修道女であることを考慮するとおのずと調査することにも制約がある。

 このような事情により当人たちの召し出しについての正確な情報は伝えることは出来ない。残念である。
 しかし、諦めているわけでもない。というのは彼女たちがそれぞれの故郷で過ごしたときの事を知っている信徒が数人おられるからである。
 そこで、地元信徒からの情報を参照し知りえた事柄を私なりに整理してみた。

 戦後トラピストに入会した8人の女性は昭和一ケタ時代にそれぞれの出身集落で幼児洗礼を受け歴代の主任司祭古川師、岩永師、畑中師、畑田師、西田師をはじめ地元の男女の教え方により厳しい宗教教育を受け、戦前、戦中、戦後の社会の混乱と極度の貧しさ、それにキリスト教への偏見と弾圧の中にあって信仰こそ滅びぬものであること、死を超えて人間を高め成長させてくれるものであることを叩き込まれて育った。

 この世の人間の幸いは一般的に考えられているように必ずしもたくさんの財産を持ち贅沢で安楽な生活を営むことではない。あるいは良い職業と高い社会的な地位を得、立派な業績をあげて大勢の人から賞賛を受けることでもない。

 これらのことは確かに人間的に幸せに生きていくのに大切なことであるが、必ずやいつか滅びていくもので人間の幸せを死を超えて保証してくれるものではない。

 従って、人間がこの地上で獲得できる幸せは実にはかなく、もろく、空しいものであることを決して忘れてはならない。

 人生とはこのようにはかないものであるゆえにこそ私たちはそれらを超える神を捜し求め、揺るぎない幸せを求めて行く。
 そして、このような人々の永遠の救いと幸せのために働く人になることこそ、人生のすばらしい選択であり、神からのお恵みである。

 彼女たちが特にこのような教育を受けたのは畑中師からである。師は仲知での司牧の後その教育熱心さが評価されて長崎の神学校へ教師として迎えられることになるが、仲知の若き乙女たちはちょうど畑中師のときに青春期を迎え、また、戦中・戦後の社会不安のドサクサの状況の中で人間とはどういう存在なのか、人は何によって生きるべきかを熟考し、これからの人生の進路を決めなければならない時期であった。

 このような時期に彼女たちの多くは教え方として畑中師の指導を受け、それが彼女らのトラピスト修道院召し出しへの温床になったと言えるのではないでしょうか。
 
天使の聖母トラピスチヌ修道院 
同上

 現在、江袋に在住の尾上フサさん(64)は昭和25年に仲知伝道学校卒業後5年間出身教会の教え方をしていたが、前任者はトラピスト修道院へ入会された赤波江文子さんである。

彼女は同修道会の院長様が快く提供してくださった資料によると、昭和25年7月18日西宮聖母修道院に、小瀬良教会出身の大瀬良アヤノ、大水教会出身の大水チマ、仲知教会出身の竹谷マチの3人と一緒に入会された。これらの4人のことを知っている尾上さんは次ぎのように語った。

 「赤波江文子、大瀬良アヤノ、大水チマの3人は仲知伝道学校卒業後それぞれの出身教会で義務年限の3年間教え方をして教会に奉仕していた。その時私は同じ仲知伝道学校の生徒で西田師と真浦キク先生から要理の指導を受けていた。先輩の3人も芋や麦の収穫時の忙しい時になると仲知伝道学校を訪問して芋掘りや麦つきの手伝いをしてくれた。

 また、時には机を並べて西田師の講話を聴講し要理の理解を深めていた。一緒に机を並べて勉強する機会は少なかったけれども、そのわりには3人の先輩の印象は強く脳裏に焼き付いている。

 3人とも自分の妹に教えるように優しく接してくれると共に、先輩後輩の区別なく同じ教会に奉仕する信仰の仲間として親しく接してくださった。3人とも信心深く、礼儀正しく、成績も優秀であったからこそ将来の人生の設計図を自分でよく考えたうえ厳格な観想修道会を選んでお国と人々の救いと平和のための奉仕者となる決意が出来たのであろう。

 その先輩たちがかなり高齢になってもなお健在で観想修道女として祈りにより神を愛し、人類平和の恒久平和のために献身していることを下口主任司祭より聞き、自分のことのように懐かしく思うとともに誇らしく思っている。
 
 
 
布教報告書
畑中師が教区事務所に提出した仲知教会布教報告書

 
 

思い出
  艱難辛苦に耐え
  西宮トラピチヌ聖母修道院
  シスター 赤波江文子

 仲知小教区キリシタン200年祭のお祝辞を申し上げます。仲知教会出身の姉妹一同と共に心からお祝申し上げます。 仲知教会は、私の思い出の中で一番初めに出てくることです。ミサに行ったこと、皆で遊んだこと、木の枝に登って公教要理を暗記したことなどなど。

 少女の頃は、立串まで行くために大瀬良、小瀬良を通りながら、信者でない人々は浜辺の町に住んでいるのに、なんで信者たちの家は山や深い森の中に人目を避けるように、あちこちぽつんぽつんと一軒ずつ建っているのか知らん。なんで、じいちゃん・ばあちゃんその上のじいちゃん、ばあちゃんたちは、こんな山奥に生まれたんだろうか、と不思議に思ったことを思い出します。

 それが、200年前、西彼杵の外海地方から来て隠れ住んだ潜伏キリシタンたちの子孫であり、誇らしく思うことができるようになるには、時間がかかりました。

 仲知小教区において、キリシタン史200年記念として、仲知小教区の発刊に至り、その意義の深さに感銘を覚えております。神の計り知れぬご慈愛のもと艱難辛苦に堪え、信仰を守り通された先祖方のおかげで、今、私共一人一人が生かされていることを思う時、この、またと得難い信仰の遺産を子孫にお伝え頂きますことを切願致しております。

 幼い頃、お祈りを怠ると「ゼンチョのごとある」と父母に言われ、私自身も未だ神様のことを知らない人々のことをおこがましくも「ゼンチョ」と言って、心の中であなどっていたことが記憶に蘇って参ります。

 私が西宮の修道院に入会のお恵みを頂きましたのは、1950年7月18日で故畑中栄松神父様の御助言と西田神父様のお世話によるものでございました。トラピスト会の修道生活について私は何も知りませんでした。ただ神様と親密に生きる人生でありたいとの望みに導かれてのことで、今思えば曖昧でした。神様御自らお呼び寄せてくださったとしか言いようがありません。

 第2バチカン公会議以前ではあり、入会当初は随分びっくりすること、戸惑ったことも多くありました。例えば、起床にしても祭日は午前1時、主日は1時半、週日は2時、就寝はいつも午後7時、日に7回のラテン語の長い聖務、沈黙のきまり、仕事の時どうしても必要な時でも話はせず手話で用を足す、手話を学ぶのも一苦労。しかし沈黙の厳しい貧しい生活のうちにも、姉妹には何とも言えぬほほえみですべてを包む愛情を感じ、まことに幸福な日々でした。

 第2バチカン公会議後は、どの修道会でもいろいろの刷新が行われたように、私共でも、聖ベネディクトの戒律にしたがって修道院の閉域の中で神に聞きながら、祈りと働きによる隠世共修生活は変わりませんが常に神の超越性と人間への愛の証人としての使命を果たせるように刷新は続けられております。

 シトー会トラピストは、今年創立900年祭を祝いました。私たちが今日までこのように、修道生活をさせて頂いておりますのは、ひとえに限り無き慈愛そのものの神の御憐れみと皆々様方のお祈りに負うものです。心からの感謝と共に続いてのお支えをお願い申し上げます。
 
シトー会トラピスヌ西宮修道院外観
同修道院内部 祈るシスターたち

(2)、お告げのマリア仲知修道院

 真浦タシシスターの場合

 マルチナ真浦(井手渕)タシは昭和5年22日、北魚村仲知で井手渕茂一・フイの3女として生まれる。尋常小学校5年生のとき早くも仲知修道院の真浦ソノ院長が畑中師からの使いと言って彼女の実家に来られて「彼女を修道院に志願者としてお迎えしたい」との呼びかけがあった。その時彼女は「行きたい、シスターになりたい」と心では思っていたが、その頃の井手渕家はとてもとてもそんなことを口にできる家庭環境ではなかった。

 というのは、その頃叔母に当たる井手渕ルシアの仲知修道院退会をめぐって井手渕家は郷民よりかなりきつい目に見えない批判を受けていたからである。
 
 表向きには誰も批判の言葉を口にする人はいなかったけれども、叔母の修道院退会は井手淵家にとって大きな痛手であり郷民にも申しわけの立たないことだと深刻に受け止めていた。

 叔母は昭和4年仲知修道院に期待されて入会後、長崎で4年間高等教育を受け、その後地元の仲知小学校の職員となって活躍していたが、事情があって退会し別の道を選んだ。

 この叔母の退会の件で井手渕家が批判を受けていたことは次の出来事が如実に物語っている。

 昭和19年11月のある日曜日のこと、14歳で修道院に入会したばかりのタシは米山教会でのミサに与るために1人道を歩いていた。すると直ぐ前を歩いていた数人の大人が「よう、修道院にやるもんもやるもん。行くもんも行くもん」と話していたのを聞いてしまった。そのときは強いショックを受けたけれども、強い決心をして入会していたから修道院を止めようとは思わなかった。

 昭和19年8月、仲知国民学校高等科を卒業して間もなくのこと、また真浦ソノ院長が畑中師より派遣されて来たと言って「娘タシを是非とも修道院に入会させて欲しい」と頭をたれ懇願した。
 
 すると父の茂一はこう言った。「私の家庭は神父様からやあなた方から期待されるほどの信仰深い家庭ではない。けれども本人が何よりも行きたがっていることであるからそれを親として無理やりに止めることも出来ない。是非ともというのであれば親としても娘をお捧げ してもよい。」
 
 この頃の主任司祭は修道院の院長よりも姉妹たちに対してすべての点で権限があった。
 とくに信仰教育熱心であった畑中師は人選だけでなく、入会先の修道院も本人の適性 、家庭環境、信仰状態などを考慮して決めることがあった。

 井手淵タシの場合も仲知修道院に昭和19年10月3日の聖テレジアの日に入会させたのは畑中師であった。
 このように師が彼女の入会先の修道院を仲知修道院に決めたのには師の保育事業計画とかかわりがある。

 師が国策に基づき昭和17年に仲知に設立した託児所では午前中だけ青空の下で園児を遊ばせるくらいの簡単な保育であり、園児を収容する建物も施設もまだ整っていなかったし、園児を保育する保母も保育のための専門の教育も経験もなかった。

 そこで、師は園児の健全な発育と教育のために仲知に保育園舎の新築工事と開設を計画し、保母には師が長崎の純心高校で学ばせた瀬戸ユクエと真浦タシとを当てることにしていた。

 この計画は師の転任により実現しなかったが、タシは先輩姉妹より師がこのような計画を立てておられたことを後で知らされた、という。

 このような事情で入会したとはいえ14歳の彼女にとって修道院での生活は辛いなかにも毎日が喜びで満たされていた。入会日の10月3日には特別な歓迎会はなかったけれども、修道院の日課に従い、信心業、山や畑仕事に打ち込み、先輩姉妹たちから使いを命じられればそれに従うという生活が何となく楽しかった。

 その頃の修道院の姉妹たちの共同生活は質素で貧しい生活ながらもみんな和やかな明るい雰囲気があった。何時も一緒に祈り、働き快活であった。タシはそんな姉妹たちの生き様にあこがれていた。郷民のなかにも何となく修道院に入会する人は特別に選ばれた人であるとの信仰と意識とがただよっていた。
だから、祈りの方法も教会の教えも共同生活の会則も分からないまま入会しても、選ばれたものとしてしっかりしなければと自分自身に言い聞かせながら生活していた。

 話は前後するが、彼女の頃の入会者は真浦スイ、真浦ミツのように地元で6年間の教え方を勤め上げた教え方がトラピストや仲知の修道院に入会していた。地元の信徒はこのような入会者のことを「さん、さん組」と呼んで神学生や司祭に準じて特別な尊敬を表していた。

 
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