パウロ・畑中 栄松師

1940(昭和15)年〜1944(昭和19)年
 
島本大司教様も召命の恩人。
 「仲知小教区史」の中では私は省略していましたが、現在長崎教区長・島本要大司教様も畑中師から推薦されて神学校へ派遣された神学生の一人でした。
仲知小教区史」でぜひこのことを載せるべきでしたが、十分に調査していなかったので気になりながらもその時には余裕がなく省略していました。

 私の思い込みで大司教様の召し出しの恩人は仲知教会を代表する熱心なカトリック信徒で仲知尋常小学校の教師をしていた濱口種蔵先生と、お告げのマリア仲知修道院の修道女で何十年と長い間仲知教会の大人と子供の教え方をしていた真浦スイシスターであり、畑中師については召し出しを受けた時の主任司祭であったことくらいに軽く受けとめていました。

 ところが、ごく最近になって、畑中師について再調査しているうちに、生前の畑中師自身在任中から主任司祭として島本要少年のことを喜びとしておられました。さらに、仲知転任後もご自分が神学校に入学させたことをしばしば信徒にも同僚司祭にも話し、司祭としての人生の歩みの支えとし、誇りとしておられたことが分かりました。
 
 「仲知尋常小学校100年の歩み」によると、島本大司教様の同級生は29人、その内まだ多くの同級生が仲知におられるので大司教様の少年時代のことならばその情報は容易に得ることが出来る状況にある。

 同級生の皆さんの評価は高く、「要少年は学校でも教会でも成績優秀であった。とくに作文を得意にしていた。」と話して下さる。
 
平成2年、長崎教区長就任歓迎会 同級生とスナップ写真
浦和司教の頃帰郷した時に同窓生の記念写真
撮影場所は仲知教会玄関

 しかし、召命というのはあくまでも内面的でかつ個人的な事柄であり、その召命の影響を誰から受けたかを知っているのは本人である。同級生であるからということだけですべてを知っていることでもないでしょう。

 ここでは同級生ではないが、米山教会の山田常喜・エス子夫妻に聞いてみた。

 山田常喜氏は仲知小教区信徒を代表して平成元年4月、浦上教会で行われた島本大司教様の第8代長崎教区長着座式とその後、長崎市茂里町にある厚生福祉会館で行われた祝賀会に与った。それは司教様が仲知小教区出身であったからである。

 立食形式でのパーテ ィで行われた祝賀会会場には教区司祭、男女修道会の司祭や修道女、多数の信徒、それに同じ仲知小教区出身のカトリック信徒で当時長崎市長をしていた本島等氏も、さらに司教様の恩人である畑中師も喜びを分かち合うため出席していた。
 
仲知小教区出身の本島前長崎市長

 会食が一段落ついたころである。
畑中師を囲むように4、 5人の司祭たちが談判をしておられたが、その中のある司祭が畑中師にこう言った。

 「先輩、大司教様はあなたの教え子でしょう。だったら、あなた自身ここに黙っていないで杯をもってお祝いの一言でも言ったらどうですか」
 畑中師は大勢の司祭の前で恥ずかしかったのか、笑いながら椅子に座り込んだままじっとしておられた、ということである。

 山田(旧姓・道下)エスさんは大司教様と同級生ではないが、大司教様たちと一緒に堅信式を受けたときのことをいくつか覚えておられる。

 堅信台帳によると、彼女の堅信は仲知教会で日本の敗戦が色濃くなっていた昭和19年3月26日、カロロ・梅木兵蔵師から授かっている。この堅信式の後、間もなく畑中師は神学校へ転任となっていることから、このときの堅信が畑中師にとっては仲知小教区での最後の仕事となったといえる。
 
 彼女が堅信を受けたのはもう57年前のこととあって具体的なことについてはほとんど忘れてしまっているようであるが、二つのことだけは今でも懐かしく思い出されるという。

 一つは
 仲知での堅信式後のことであったろう。
受堅者はみんな教会のすぐ隣にあった司祭館前に集合させられたときがあった。その時、堅信の成績が良かった受堅生に神父様から褒美があった。1等賞はロザリオで島本要少年が受けた。そのときに神父様は「要君は母がいないのに良く頑張った。みんなもやれば出来るんだから頑張りなさい」と。 

 2等賞にはなんと彼女が選ばれた。2等賞を受賞するなんて思ってもいなかったのでびっくりした。
賞品は「天国と地獄」という大学ノート程度の絵本であった。当時は戦時中ということで国民は生きる希望も自信をも失っていた。生活することが精一杯の毎日で本なんて学校の教科書以外には持たなかったし、読んだこともなかった。だから、この絵本は何度も繰り返し読み、結婚しても大事に保管していた。子供が就職する時になって、就職の記念にと思ってプレゼン トした。確かめてはいないが大事にして持っているものと思う。

 3等賞には誰が選ばれたのか、どんな賞品だったのか思い出すことが出来ない。
 
 二つ目の思い出は悲しい思い出である。堅信前にはよく公教要理のテストが米山教会でも仲知教会でもあっていたが、私の一つ先輩の米山教会の受堅生が3人も不合格になり堅信が一緒に受けられなかったのは悲しかった。
落第になった先輩が肩を落として教会から帰って行く様子が今でも瞼に焼き付いているという。

畑中師の頃の宿老と信徒数
 これまで歴代の教え方については堅信台帳によってある程度把握できたが、江袋教会の宿老を除けばそれぞれの教会の宿老と信徒数についての資料は乏しくそれを知る手がかりはただそれぞれの集落の長老に聞く以外には方法がなかった。長老たちの情報は確かに貴重ではあるが、いつ頃の宿老職についていたかとなると曖昧模糊としている。記憶に依存していることからやむを得ないことである。
 
ラテン語ミサを執行中の畑中師 場所は旧仲知教

 しかし、畑中師の時代になると宗教団体法施行第36条による布教状況の報告書が資料として保存されているので、当時の宿老、信徒数、活動予算、決算について知ることが出来る。ここでは各集落の宿老名と信徒数を紹介しておくことにしたい。
 これまで教え方の件についてやや詳しく説明してきたが、宿老は教え方以上に教会にとっても教会の司牧の責任者である主任司祭にとっても教会の運営には欠かすことの出来ない教会役職者であり、かつては信徒総代ともまたは顧問とも呼ばれていたが、今日ではその呼び名がさらに変わり「経済評議員」と言われるようになった。

 その宿老は聖堂その他の付属建物の建築及び修復並びに小教区の財産管理に関し、主任司祭を補佐することが主な任務であり、いつも信仰熱心で奉仕の精神に富んだ模範的な信徒が選ばれていた。

      昭和19年頃の宿老と信徒数
宿老 信徒数
仲知教会宿老
山添忠五郎         久志庄吉 前年度 477
山添重衛門         竹谷征四郎 今年度 436
 江袋教会宿老
谷口初枝門        楠本房吉 前年度 233
谷口 清 今年度 218
米山教会宿老
真倉国光           山田進 前年度 311
浦越喜作 今年度 317
瀬戸脇教会宿老
瀬戸喜蔵           瀬戸辰衛門 前年度 149
瀬戸久太郎 今年度 151
野首教会宿老
白濱芳郎            白濱松蔵 前年度 164
白濱作太郎 今年度 168
大水教会宿老
大水竹五郎        大水裕次郎 前年度 122
大水金助 今年度 126
赤波江教会宿老
大瀬良要五郎      赤波江嘉一 前年度 198
大瀬良福一 今年度 202
    
 
 
 仲知小教区の信徒総数は1、618人となるが、この報告書には小瀬良教会の分が報告されていないので実数は1、700人弱の信徒だったといえよう。
 
昭和19年、畑中師に仕えた宿労と男女の教え方。前列中央の眼鏡をかけているのが本人で、その右隣の方は彼の上司であった青砂ヵ浦教会の梅木兵蔵師である。
         
岩永師と畑中師の時代の教え方
  (昭和11年〜19年ごろ)

 両師の時代に活躍した教え方は、濱口種蔵氏が教師をしていた仲知伝道学校第1回卒業生となっている。

 男子の卒業生は昭和14年8月18日、仲知教会で山口司教による堅信式があったとき、其の受堅志願者の準備の稽古を指導するとともに堅信式当日には受堅生の代父母役を務めている。

当時の堅信台帳によると、その時の教え方は瀬戸脇教会は瀬戸好美、野首教会は白濱松雄、米山教会は山添行男、仲知教会は紙村藤松(竹谷、一本松地区の担当)と山添直吉(真浦、久志地区担当)、江袋教会は谷口徳美、大水教会は大水健一となっている。

 他方、女子の部の第一回卒業生は、野首教会は白濱ツイ子、瀬戸脇教会は白濱チヨノ、米山教会は山田ツギ、仲知教会は山添スイ(竹谷、一本松地区担当)と水元ミツ(真浦、久志地区担当)、赤波江教会は川端ソノ、江袋教会は宮脇シズエ、大水教会は大水シゲ、小瀬良教会は小瀬良セキの9人で、このときにも昭和16年8月17日長崎から山口司教を迎えて仲知教会で堅信があったとき、全員が代父母役を務めている。
 
セシリア修女院(お告げのマリア仲知修道院)の会員と共に

 その時の受堅者総数は103人であったが、その準備の稽古もこれらの若い教え方の心からの理解と協力心があったからこそ岩永師も畑中師も信徒の信仰教育、特に児童のしつけと信仰育成を滞りなく果たすことが出来たといえよう。
 このように両師を側面から支えた男女の教え方もそのほとんどが他界していることは非常に残念である。

 しかし、彼らの教師をしていた濱口種蔵氏(96歳)はまだ健在で(平成11年9月に「仲知小教区史」出版をするときにはまだ元気であった。)現在は長崎の娘の家で余生を過ごしておられる。

 彼は若いときから仲知教会で冠婚葬祭とか仲知小教区の大きな行事があったとき、また、仲知小中学校、青空保育所でも母の会を代表して挨拶文を作成していた。これは彼の趣味というより、信徒から依頼されて書く場合が多かったのではないかと推察される。1度本人に確かめておきたかったが、当人は去年(平成12年9月)他界された。残念であるが、私が仲知小教区に佐世保の褥(しとね)崎教会より仲知に転任してきた平成6年頃はまだしっかりしていて仲知地区の親愛老人倶楽部の会長をしておられたし、仲知でよく知っている人がなくなったときには自分で進んで弔辞をして遺族を慰めていた。

 その頃の弔辞が彼の家庭にまだ5 6通保存されてあったのでその内からこのページに関連のある2通を紹介しておくことにする。
 
 
 
在りし日の真浦スイシスター
在りし日の真浦スイ シスター

 
 

 マリア真浦スイ様
 平成7年10月21日帰天 享年 72歳

 「病気の苦しみを数年間、最後まで忍ばれたスイさん、あなたの生涯を哀悼し、その思い出の一端を申し上げます。
 33年前、仲知伝道学校卒業の時あなたが野首、瀬戸脇から小瀬良、大水までの宿老を前にして謝辞を述べた時の思い出が今も忘れられません。

 そして、教え方の義務年限を終えて仲知修道院に入会した時、伝道学校で昼ご飯前(午前11時45分〜正午までの15分)毎日聖堂に行って聖体訪問したことが大変役立ったとお礼を言われました。

 それから日曜日は毎週、ミサ後大人にケイコをさせていた頃、体が弱いのは教え方の6年間の義務年限を良く務めなかった罪と言われました。
しかし、私はそんな怠けはなかったのにと思いました。
 永遠の安息を祈りつつ

        平成7年10月22日
 
 
顔写真修道女 アガタ真浦スイ
大正12年9月22日新魚目町仲知に生まれる
昭和23年2月5日仲知修道院に入会
昭和37年3月15日初誓願宣立
昭和50年2月28日終生誓願宣立
平成7年10月21日帰天
修道生活47年 行年72才

 

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