パウロ・畑中 栄松師

1940(昭和15)年〜1944(昭和19)年
思い出(1)

真浦スイ先生の思い出
仲知教会出身 古川ひとみ

 昔の自分に会えるふるさと仲知!きれいな海と山、優しい人たち、いくつになっても、何処にいても忘れることのない仲知!また、父と母がいて、兄弟姉妹がいて、泣いたり笑ったりした日々が懐かしく、いろんなことが目に浮かぶ仲知!初聖体、堅信、稽古、黙想会と、神父様を中心にシスターや教え方さんの温かい指導のもとに大人も子供達も神様の愛で一つに結ばれていた仲知!その中でも、私にとって今も良き導き手となって心に響いている一つの思い出があります。

 今から数十年も前のこと、永田静一神父様が主任司祭として仲知に来られて間もない頃であった。私は結婚の秘跡を受ける準備のために稽古に通うことになった。指導して下さるのはシスター山添スイ先生。それまで結婚の稽古とは教会に通い、神父様の話を聴くとばかり思っていたので、きょとんとしていた私に永田神父様は「スイ先生はきっといい稽古をして下さるでしょう。私も頑張るよ。仲知に来て最初の結婚式だからね」と握手をして下さり、その後も早朝ミサでお会いすると、「稽古頑張っているか」と温かい声をかけて下さった。
 
永田師司式による濱口ひとみさんの結婚式 場所は旧仲知教会
濱口ひとみさんの結婚式には叔父になる濱口五郎八氏も出席されている。

  さて、修道院2階、きれいな広い部屋、小さい頃憧れた真浦の修道院だ。先生は怖いが、ここで勉強できるのはとても嬉しかった。話を聴きながらなんとなく好奇心にかられて広い廊下を横目でチラチラ。すると、「よそ見せんで!そがんとこは見らんちゃよか!」と声が飛び、迫力あって緊張する。またあるとき「恐ろしかな、他の先生が良かった。」などと考えていると、「こら!今考えたことば言うて見らんね。」と心のうちを見抜かれて一緒に笑う。「いらんこと考えんでもよか」と言われ「人の話は良く聴くことが肝要だ。よそ見していると頭に入らないものだ」ともう一回注意を受けた。
 
旧修道院、昭和58年6月に解体された。
とりこわされた旧仲知教会と旧司祭館の跡地に現在の修道院が建立されている。

 しかし、5分間の休憩時にはこんなこともあった。奥のほうに大きなタンスがあった。「ピカピカできれーさよ」と思って眺めていると「抱えきれば持って行ってもよかぞ、力はあるか―。」と言う。緊張は少しほぐれる。(ちなみにこれは蒲団タンスでした。)

 そんなある日、公教要理の試験があるという。え?と驚きながら「先輩達みんながこがんして結婚しよるとは知らんじゃった。大変かね。」と言うと、「いい家庭をつくるため」と言われた。「あんたはやうち(親せき)せんな、ちいーとひいきしてやる。祈りも稽古も人は少なかばってあんたは多かとぞ」と笑う。「やうちならば人より少なくまけてくれるのが本当じゃなかかな」と思ったが、口に出せなかった。

 さあ、家でも稽古が始まる。「何処からかけられるか分からんから父も加勢受け、リハーサルをやる。途中引っかかると「そら!ぎばれー」と今度はスイ先生ではなく父の声が飛ぶ。ニコニコ笑いながらも絶対その先を教えてくれない父。母に「なんでスイ先生とやうち?こがんなめにおおてさ。」とあたると、母は「厳しくさるっとはよかこと、我がためたいれ、スイ先生に感謝せんば」と言う。家では父と練習、稽古に通う道は一人で要理を唱えながら歩く・・・。そろそろ自信もついた頃「試験はいつですか」と尋ねると、なんと答えは「よし、よか、合格」とたった 秒で終わった。「えっ?」簡単にうかって(合格)しまった複雑な心境である。

 しかし、試験なしでホッとした。無事稽古が終了し挨拶しようとスイ先生の前に座る。すると「祈りを忘れんごと、何事も神に感謝して、今やったことを頭や荷物の中に詰められるだけ持って行かんね。そして、いい家庭ばつくらんね。夫婦喧嘩したときは自分も悪かとぞ。お互いそう思えばよか。体に気をつけて頑張りなさい。お父さんもお母さんも寂しゅうなって毎日泣くったいれ、時々帰ってこんね。仲知も忘れんごと。でも東京は遠かな。怪我せんごと、祈りも忘るんなよ、ロザリオも一日一回すれば天国へ行けるとよ」とまた長い説教をプレゼントされたが、今までのこと心からから深く感謝した。

 また、父と母と弟を残して行くことも「心配せんでよか。マリア様がいつもついとる」と安心させてくれたスイ先生。この後、シスター方手作りの美味しいおやつをご馳走していただき、お世話になった。帰り際に「帰郷した時には修院にも遊びに来んね」と手を振って見送ってくれたシスター方の温かい笑顔も大変嬉しかった。

 私達夫婦に対する神様の愛、スイ先生への大きな感謝、これから始まる結婚生活への励みを覚えた結婚の稽古だった。約27年位前の教えは今親となっても私の心に奥深く生き続けている。日々の雑用の中で現在スイ先生の教訓を完全に果たすことは難しくなっているが、心に宿る思い出を黙想するだけでもマリア様に倣って生きるための恵みと力をいただけると信じている。今また、父が眠るふるさとはさらに大切なふるさとになった。一生忘れることは出来ないふるさとである。

 
思い出(2)誰よりも仲知を愛した真浦スイ

深堀教会 下口勳 平成13年6月24日、

 仲知出身で真浦スイシスターから結婚の指導を受けた古川ひとみ氏の原稿を読みながらついでに編者もスイシスターの思い出を一言書いてみることにした。
 真浦スイシスターは編者が仲知小教区に着任した平成5年4月には仲知修道院で療養生活していた。腹膜炎のためか腹が膨れて顔色が悪く、からだもけだるい状況であったが、日頃から我慢強いシスターのこと、からだの調子の悪いことを嘆くようなことは一切なかった。しかし、聖体拝領だけは望んでおられたので1ヵ月に2回ほど見舞って届けていた。
 
現在の仲知修道院 昭和55年3月竣工

 この見舞いの中でシスターは半生を振り返りながらいろんなことを話された。その話を傾聴しながら編者が感じたことはいくつかあるが、その一つはこの方は話し上手であり、かつ話好きな方だということであった。10分程度の見舞い時間を予定しての訪問はいつしか20分となり、さらに、1時間近くになることもあったので、時にはこちらの方がイライラすることがあったくらいである。

 シスターは霊的生活が高めて行くこと以外には決して自分のことは話そうとしなかった。見舞い客が主任司祭ということでたいてい信者の信仰生活について話すことが多かった。その一つは着任したばかりの私に仲知の信徒の長所や短所についてありのままに話しながら、これからの司牧のあり方を教えてあげるという先輩としての思いやりにあふれていた。時には主任司祭が司牧方針として掲げて信徒を指導しなければならないようなことに話が及ぶことがあった。それは決して越権行為ではなく、仲知出身の教え方としての長い経験と知恵から引き出された信仰であった。

 例えば、シスターは感情を露わにしてこう言われていた。「最近、仲知のお父さんたちは日曜日のミサにも平日のミサにも来なくなった。日曜日は仕事で家を留守にしていることが多いのでミサに出席できないのは理解できるが、少なくとも1週間ある休暇の時位は毎日ミサに出席出来るはずだ。にもかかわらず、最近の仲知のお父さんたちは怠けて来なくなっている。ミサは信仰を深め、イエスの福音に従って生きていくための恵みと喜びを受け取っていく秘跡である。習慣的にミサに与ることで生活全体に神様の恵みが育っていくものである。だから、お父さんたちはこのようなミサの意味をよく理解し直し、もっとミサに与るように努力することが必要である」 と。

 丁度、主任司祭の私が大切な司牧活動の一つとして配慮しなければならないようなことを、彼女は真剣に考え悩んでくれていたのである。 この仲知の信者思いは入院されても少しも変わっていなかった。病状が進み上五島病院に入院となった平成5年9月頃のこと、その頃はまだ大部屋に入院されていたが、一度聖体を届けようと思い彼女の病室を訪問した。すると、先客がいるので私は廊下で立ったまましばらく待つことにした。待つこと10分ばかり。それでも面会が続けられている。しびれをきらした私はシスターが誰と話しているのか知りたくなって、そっと気づかれないように覗いて見ることにした。

 すると、何と、病人のスイシスターが自分のベッドのすぐ前に3人の見舞い客を並ばせてとうとうと説教されているではないか。どんな説教をされているのかまで聴かなかったが、3人とも頭を下げて黙って聴いている。その状況から判断して私はシスターの事だからきっと信仰生活の大切なことを解き明かしているに違いない、と思った。

 3人は兄弟姉妹でその一人はシスターであった。何時まで待ち続けてもシスターの説教は終わりそうにないので私は見舞うことを諦めて帰らせてもらった。
そして、その後、1ヵ月も経たないうちにシスターは帰天された。死ぬまで仲知を愛し、信徒の信仰育成に生涯情熱を持ち続け、説教して信徒の信仰の向上をいつも心がけていた。存在感のある個性に満ちたシスターであった。ご冥福を祈りながら。
 

略歴
◆修道女 アガタ真浦スイ
大正12年9月22日北魚目村仲知に生まれる。
昭和23年2月5日 仲知修道院入会
昭和37年3月15日 初誓願宣立
昭和50年2月28日 終生誓願宣立
平成7年10月21日 帰天


 修道生活47年 享年 72歳 (真浦スイシスターは人を指導するタレントを受けたシスターで、この人の導きで修道者や司祭になった人は数多い。島本司教様もこのシスターからの影響を受け、神学校へ入学されておられる。)
 
真浦スイシスターのお葬式風景
写真はお告げのマリア修道会史「礎」より

山添直吉様
    平成9年7月25日帰天 行年77歳

 直さん、一言お別れを申し上げたいと思います。
あなたの生前の元気な姿とお顔が浮かんできて涙が溢れます。そして、あなたの教え方時代の思い出が次々に浮かんできます。

 仲知小教区は司祭を助けるために野首、瀬戸脇から小瀬良、大水までの9人の教え方の養成がどうしても必要でした。

 男子の教え方の中であなたは一番年長者であったということもあり、いろんなことに気を配り、何事もお世話をし、特に聖歌が得意でしたね。
これまでの8年間で仲間は次つぎとあの世の人となり、あなた一人元気で生きておられることをとてもうれしく、頼もしく思っていました。もっともっと長生きして欲しかったのに残念です。

でも長年の病気に打ち勝ち、最後まで頑張りましたね。
 ご家族の皆さんも大変力落としのことと思います。
 天国からどうぞ私たちを見守ってください。
 ご冥福を心より祈ります。
 直さん、さようなら

 平成9年7月27日
 (晩年の直吉さんは体が不自由となり、奥さんの温かい看護を受けながら余生を自宅で過ごしていた。その自宅は濱口先生の隣で、両家は日頃から交流が深かった。)
 

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