パウロ 本田 藤五郎師

 1894(明治27)年〜1896(明治29)年
 
 1894(明治27)年9月、パウロ本田藤五郎師が五島列島での最初の邦人司祭として上五島地区に着任された。 師の五島列島での司牧期間は、2年6ヶ月と短かった。
しかし、年の告解、ミサ、病人訪問、児童の初聖体と堅信の準備の稽古等信徒の司牧活動に若いエネルギーを注がれた。

 師の在任期間に、その司牧と宣教を委ねられた地区は五島列島の3つの地区(上五島地区、中五島地区、下五島地区)の内、上五島地区であった。
当時の上五島小教区の洗礼簿と結婚台帳を見ると、師がその在任期間に授けた洗礼は213人、結婚は40組となっている。

 師が上五島地区に着任された頃の五島列島では、五島列島主管者だったペルー師の指導の下に、下五島福江の大泊と、上五島鯛ノ浦にあった養育院(小部屋)の共同体の会員達が、恵まれない子供たちの養育と救済に取り組み、それぞれの地区で小間物行商を始めていた。
 その目的は現金収入よりも、むしろ不幸な子供(多くの場合生まれたばかりの新生児)を見つけて引き取り養育することにあった。

 本田師も、前任者のベルトラン師の救済事業の後を継いで薄幸な子供の救済に熱心に取り組まれた。
 当時の洗礼簿を見ると、本田師によって救われた未信者の乳幼児は8人でそのほとんどが小値賀出身となっている。

 さらに本田師は、隠れキリシタンへの宣教にも尽力され、師の導きにより、キリスト教に改宗した隠れキリシタンは小瀬良2名、大瀬良2名、大曽8名、小串4名となっている。

結婚台帳

 上五島小教区の結婚台帳は、フレノー師の時代(明治21年)から始まっていることは既に書

いたが、それは、障害が免除された夫婦の結婚台帳だった。しかし、本田師によって障害のない一般信徒のための専用の結婚台帳が本格的に開始された。

 この結婚台帳の記録が始まったことによって、上五島地区では、洗礼台帳、堅信台帳、死亡台帳、教会台帳、結婚台帳のすべてが「公教要理」や「祈祷書」ほどに信徒の教育に大きな影響力を持つとは言い難いけれども、キリスト者の結婚と、それによって形成されるキリスト者の家庭とは、人間の人格形成と、家庭教育の視点からも、今日叫ばれている福音宣教の視点からも重要な任務と使命がある。

 それで、1894(明治27)年、本田師からその記録が始まるキリスト者同士の結婚の意義は、家庭がゆらいでいる今日、何であるのか考察してみることにする。

 まず、キリシタンの結婚の意義を見出すには、西彼杵・外海地区から上五島に移住したキリシタンの中に一つに集約される家制度(命と信仰の継承のこと)があったことを考えなければならない。
 
 
結婚式

 

命の継承

 上五島地区のキリシタンにも日本人としてその時代の影響を受けて、かなり昔から「家制度」があった。この「家制度」は基本的には、過去から未来に向かって家、あるいは血のつながりを継承していく制度と考えられる。これは先祖から始まった命の流れを継承していくということである。過去の先祖との命のつながりを守り、過去を今の私たち、そして未来の子供達に伝えていくということである。

 仲知と青砂ヶ浦の司祭館に保管されている莫大な量の洗礼簿で初期のものは、すべて三代調となっている。それを眺め、分析し、各集落の先祖ルーツを調査しながら深く考えさせられたことは、上五島に移住したキリシタンは先祖との命のつながりを非常に大切にしていたということである。その血のつながりは祖父母、伯父、伯母の名をわが子に命名することが多かったということによってわかる。例えば、江袋に現在居住している楠本敬三郎氏の先祖の系図を拝見すると、楠本敬三郎氏は、伯父楠本敬三郎の名をいただいて命名されている。(この伯父楠本敬三郎は、明治42年、長崎の神学校に入学した。しかし、療養のかいなく神学生として病没。その時の主任司祭古川重吉師が発起人となり、江袋教会墓地に墓碑を建立した)同じようなことは、他の家系にも拝見でき、全体では25組余りにも及ぶ。

 もう一つ、家を継いでいくという観点から昔よく行われていた習慣は、男の子に恵まれなかった夫婦は、他人の子を養子に迎えて家を継いでいくという習慣である。この習慣もかなり根を張っていて、この地区の先祖の系図を見ると何組も散見できる。

例えば、江袋の川端久米蔵は、明治7年の迫害で最もひどい仕打ちを受けた一人であるが、彼には息子がいなかった。

 それで同じ集落のキリシタン谷口初蔵・セオ夫婦の4男谷口福松を養子に迎え、川端家を継承している。

信仰の継承

 キリシタンにとっては、血縁に基づく命の流れ以上に重要だったのが信仰の伝達の流れである。

 既に説明したように、どの村にも信仰を守り、伝えていく組織があった。生まれたばかりの赤子に洗礼を授け、祈りを唱えて先祖代々の信仰を伝えていた。この信仰の継承にどれほど仲知地区のキリシタンが力を注いでいたかを知るには、以下に述べる二つの点を知れば十分である。

 一つは、赤波江の伝道士赤波江助作が1888(明治21)年11月28日、仲知から養子として迎えた長男赤波江(旧姓山添)次三郎・スナの長男ペトロ赤波江熊八に洗礼を授けている点である。

 その頃は、どのキリシタン集落でも出生した子供の洗礼は、すべて宣教師から授けてもらうのが一般的なことだった。しかし、孫となるはずの赤波江熊八は1ヶ月後に死亡しているのを見ると、このときの洗礼は、臨終の洗礼だと言えよう。このことから私たちは、宣教師(デュラン師)からでなく、信徒が自分で洗礼を授けたことの背景として、その頃の信者が人の魂の救いを何よりも大切にしていたことを考えなければならない。

 それから仲知の久志佐蔵・セキ夫婦は、1870(明治3)年、迫害で流された平戸から仲知に帰郷した時、赤波江の水方をしていた赤波江助作を緊急に呼び寄せ、平戸で出生した長女久志フミ(明治3年生まれ)に洗礼を授けてもらい、その後久賀島へと避難している。又、久志佐蔵・セキ夫婦と一緒に久賀島へ避難した真浦長八・ハル夫婦の長男真浦斎蔵、真浦才吉・トセ夫婦の次男真浦伝蔵、島本栄助・ジセ夫婦の次女島本ヨネ、谷中勇吉・サト夫婦の3女谷中ナツの4人は1870(明治3)年に久賀島で生まれたときに久賀島の水方・勝五郎と多助から仮の洗礼を受けている。さらに、江袋のマリア・ヨシは久賀島の青年五輪金助と結婚し、長女五輪セノが1871(明治4)年に久賀島で生まれると久賀島の水方にお願いして仮の洗礼を授けてもらっている。

 これらの洗礼は、迫害の最中宣教師と会うことも阻止されている時に授けられたものであるだけに、一度は改宗した仲知のキリシタンがどれ程人の魂の救いと信仰の伝達とを大切にしていたかを物語るものである

結婚の形態

 仲知地区のキリシタンが先祖代々の信仰の継承を大切にしていたことはその結婚の形態にもあらわれている。
 
 仲知小教区の洗礼簿で、先祖の結婚の形態を調査してすぐに気づくことの一つは、最初の頃は同じキリシタン集落の信徒同士の結婚(村内婚)とすぐ近くのキリシタン集落の信徒との結婚(近親婚)ばかりで、その例外、例えば未信者の集落の人との結婚は、全く見られないという点である。
 しかし、時代が経ち、村内婚と近親婚を繰り返していくうちに結婚相手として、全く血縁関係のない信者を見つけるのは、少しずつ難しくなってくる。このような事情があったので、フレノー師は早くも明治18年障害の免除を受けた信徒の結婚台帳を作成している。

 彼の結婚台帳を見ると、その頃の結婚障害はすべて血族障害である。ということは、明治18年頃には、司教から血族障害の免除を受けなければ有効に結婚できなかった信徒がかなりいたということになる。

 仲知と青砂ヶ浦の司祭館には、結婚の申し込みをした信徒が主任司祭に提出した莫大な量の三代調が山積みにされて保管されている。

三代調
 
 

 これは、戦後のものであるが、かつてキリスト者の縁組みの形は相変わらず村内婚と近親婚とが主流であり、血族の障害の可能性がどの縁組みにもあったことを伝えている。
 こうしたキリシタンの家制度は昭和40年代後半頃から崩れていく。

 地域社会が解体し、生活の形態が農村から都市型に変わることによって家族のあり方に大きな変化を与えた。
 従来の先祖からの命と信仰のつながりを担う直系家族は減少し、いわゆる「核家族」という新しい家族形態が誕生してきた。

 先祖から伝えられた信仰を守り、育ててきた家制度が消え、村落共同体が崩壊し、核家族化した家庭の中で、信仰の伝達も家族を構成する人間関係も希薄化し、孤立化している現状の中では、いよいよ家庭を命と信仰を育む場として、大切にしなければならないのではないだろうか。今日家庭を取り巻く生活環境は、危機的な状況にあるといわれているが、平成8年1月の教報で発表された長崎教区長、島本要大司教の年頭教書に従い、家庭を命と信仰の聖域に刷新することは、今日の夫婦の聖なる使命だと思う。
 

本田師サイン
 
 
 

結婚台帳の記録

 五島での最初の邦人司祭、本田藤五郎師が作成した上五島小教区の結婚台帳は、正確に記されていて、キリスト者同士の結婚は神から制定された神聖なもの、その本質は夫婦愛、子供の出産、宗教教育にあること、更にその特性は一夫一婦制と不解消性で秘跡としての尊厳が与えられていることなどの印象を受ける。

江袋教会結婚式
 
 

 そこで、ここでは邦人司祭本田師の指導によって、めでたく結婚したカップルを任意に8組紹介しておくことにする。

1.仲知の島ノ首の島本喜蔵・ミツ夫婦の娘島本ソデ(23)は、1894(明治27)年8月10日、仲知教会で頭ヶ島の山口矢雄蔵・キセ夫婦の息子山口輪助(31)と結婚。証人は、頭ヶ島の宗留五郎と仲知の島本栄助であった。

2.江袋の谷口初五郎・セオの息子谷口喜蔵(21)は、1894(明治27)年10月15日、江袋教会で仲知の久志甚吉・サヨの娘久志フジ(19)と結婚。証人は、江袋の今野与八(57)と仲知の水元作平(38)であった。

3.野首の白浜松之助・サヨの息子白浜金三郎(22)は、1895(明治28)年5月13日、野首教会で米山の浦越沢吉・トメの娘浦越フデ(21)と結婚。証人は野首の白浜仙太郎(40)と米山の長浦猿右衛門(42)であった。

4.仲知の紙村敏松とハツの息子紙村金五郎(22)は、1895(明治28)年5月18日、仲知教会で竹谷時蔵・カオの娘竹谷タセ(18)と結婚。証人は、仲知の植村宇蔵(35)と山添キト(31)であった。

5.赤波江の赤波江甚五郎・ツナの息子赤波江金五郎(24)は、1895(明治28)年9月30日、江袋教会で小瀬良の小瀬良七蔵・トメの娘小瀬良ミツ(19)と結婚。証人は、赤波江伊勢蔵(55)と江袋の谷口仁吉(30)であった。

6.大水の大水光蔵・セキの息子大水金作(24)は、1896(明治29)年2月12日、曽根教会で曽根の野上一平・ミヨの娘野上サヤ(21)と結婚。証人は、曽根の今田仁蔵(64)と曽根の田上ハツ(30)であった。

7.赤波江の川端清吉・フイの息子川端金助(22)は、1896(明治29)年5月26日、赤波江教会で島元貞吉・ハルの娘島元スヤ(20)と結婚。証人は赤波江助作(56)と仲知の島本好次郎(41)であった。

8.米山の浦越沢吉・トメの息子浦越吉五郎(26)は、1896(明治29)年8月26日、米山教会で米山の山田斧右衛門・トセの娘山田キソ(23)と結婚。証人は山田多蔵(53)と又居清八(47)であった。

 任意に8組をひろってみたが、その結婚の形態は、やはり村内婚か近隣婚となっていて、新郎新婦の年齢も1組を除けば非常に若い。8組ともミサの内に若い日本人司祭本田藤五郎師がそれぞれの教会で盛大に挙行している。又、証人も近い親戚だけでなく、当時宿老とか伝道士をして教会の役職についていた人がかなり見られる。
 

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