パウロ 本田 藤五郎師

 1894(明治27)年〜1896(明治29)年
 
殉教よりも福音の宣教を
   ―今村教会建設―

 今村の美しい聖堂の建設のため、当時の主任司祭、パウロ本田保神父は、ヨーロッパの信者に呼びかけて、いくつかの感動的な手紙を書いた。その中で、自分の司祭への召出しと宣教師としての活動を極めて謙虚に述べているが、それがどれほど多くの読者を感動させたかについて、今でも今村の美しい聖堂が物語っている。
 
第3代
長崎司教クザン師

 おそらくルクセンブルク出身のシュタイヘン神父の紹介であろうが、当時、同じくルクセンブルクにあったドイツの布教雑誌「カトリックミッション」の編集者スピルマンやフォンデル両神父にあてて、立派なラテン語で書かれ、数枚の写真が同封されていた。そのほか、長崎のクーザン司教も推薦状を添えて本田神父を「教区内の最も知識あり思慮深く熱意に燃えている一人」として誉めている。

−−本田保神父の手紙−−
 

 『1869年に、日本において大きな迫害が勃発した。我らの聖なる殉教者の子孫であるキリスト信者は数知れないほど、多くの労苦と難儀を凌がねばならなくなった。長崎の近く、浦上の谷に住んでいた約四千人は強引に家から引き出されて、キリスト教の敵である長官の管下にある国内の種々の地方へ送られた。
 その中のおよそ二百人は四国という島にある土佐の国へおくられて、そこで一年余り、狭い牢屋に閉じ込められていた。長官の命令でたびたび神主が来て、彼らに棄教を勧めた。「これは命を救うために唯一の方法だ」と言った。しかし、極度の困窮とあらゆる難儀にもかかわらず、牢内の人々はみな棄教するよりも死ぬ覚悟であった。

 ちょうどその頃、日本の政府はヨーロッパおよびアメリカの列強と条約を結んだ。神のみ摂理のおかげと、これらの条約のおかげで、キリスト信者の状態はいくらか楽になってきた。彼らは牢屋から出されて、あちこちの仏寺に収容された。そこでも日夜番されていたとはいえ、待遇はかなりよくなった。何年か経ってからこの信者たちは釈放され、郷里に帰ることが許された。ところが、帰ってみると、新しい試練にであった。彼らが長く留守しているあいだに、異教徒たちが彼らの家や田畑を取ってしまったので、信者たちは家も宿もなく、最大の困難に直面した。

 さて、土佐に送られた信者たちのグループに、この手紙の編者の私も居た。浦上から連れ出されたとき、14歳だった。その時私は、ただ一つあこがれに燃えていた、すなわち、我らの聖なる殉教者のあとをたどりたいと思っていた。暗い牢屋で病気と飢餓のあまり、私がもう死にそうになっていた時、私を仏寺に移す命令が来た。 
 
 
徳島・高松・松山・高知に流された浦上の信徒
昭和五年当時の生存者たち

 たまたまその頃、このような仏寺(注・陽貴山見龍寺)に居るあいだ、疑いもなく聖霊のインスピレーションによって、私はある日、ここで何の功徳もなく死んでしまうよりも、同胞に我らの主イエズス・キリストの福音を説くほうがましだという考えがおこった。そして私の心に湧き出たこの望みは次第に強くなり、とうとうそれを押さえることが出来ないほど迫ってきた。

 その瞬間から、私は番人の注意を逸らして逃亡する決心をした。このプランを母親に--父親は数年前に亡くなっていた--話すと、彼女は涙のあまり一言も言えなくなった。神の助けのおかげで私は逃亡に成功し、幸運にも一人の宣教師(注・神戸のビリヨン神父)の居場所を見つけた。

 それからしばらくして、私は神学校に入り、勉強を全部終えてから司祭に叙階された。それは今から21年前のことだった。このように、神はその英知と限りなき慈悲によって、私を不思議な道で殉教の道から司祭の品位に導いて下さった。司祭になってから、私はまずしばらくのあいだ神学校に留まって教鞭をとっていた。その後、司教は霊魂の救いのために働くように、私を筑後の今村へ送った。この地方で私がただ一人の司祭として働いており、もう11年になる。

 今村というのは、まったく異教徒の地にある。町に村に、神仏の礼拝がまだ栄えている。神社や寺は実に豪華で、立派なものである。

 今村のカトリック信者は軽蔑されている。彼らの礼拝堂は粗末な木造建築であって、かなり古く、たびたびの修理にもかかわらず倒れそうになっている。

 確かにこの粗末な聖堂は"畏るべき場所、神の家、天の門"ではあるが、いつまでもこのような不当の状態にあってはならない。

 反対者はみな私たちを嘲笑っている。信者たちは彼らの言葉を聞くと憤り、どうしても新しい教会を建てたいと願っている。そして彼らのみか私も昼夜、そのことばかりを考えている。

 もしここに、空高くそびえる塔のある教会堂が建つならば、異教徒たちも大勢それを見にくるだろうし、私たちは機会を得て彼らに十字架や聖人の絵を説き明かし、私たちの聖なる信仰についても、一言聞かせることができよう。

 現在、私の信者たちが異教徒のほうから受けている軽蔑は、間もなく尊敬に変わり、それはまた私たちの宗教にも有益となることであろう。

 しかし、私の信者たちはみな非常に貧しく、彼らとしては教会建築の負担を担いきれないのも実情である。私自身にも何ら財産はない。ここは「子は父のごとし」という諺のとおりである。私の家族がもっていた僅かな財産はすべて、迫害の時になくなってしまった。

 なお、私を助けてくれるような友人や知己もいない。私が頼りにする唯一の助けは、読者の皆様である。同じ洗礼と神の共通の恵みによって私は皆様と結ばれている。キリストにおける私の兄弟となっておられる皆様だけが、私が牢屋で見ていた夢を実現させるための唯一の頼りである。すなわち、神の栄光と人の救霊の夢を・・・

 それで、敬愛する読者の皆様、ここで教会を建てるために助けて下さい。五百ドルもあれば、かなりしっかりした美しい教会ができるであろう。どんなに些細な寄付でも、私は喜び、感謝して受けよう。

 そして私は毎日、祭壇の前で、生けるも死せるもすべての恩人を思い出し、私の信者たちも、その共同の祈りの中で決して忘れることはないだろう。私自身で、皆様に会いたいと思っている。そしてヨーロッパまで行きたい気持ちであるが、しかし、牧者は自分の群れをさしおいてはならない。それで私の写真だけを同封して送ることにした(注、残念ながら、この写真は残っていない)。

 写真には、私の左側にもう一人の日本人司祭が立っている。彼は私の最も親しい友人パウロ深堀(注、深堀詮明師?)である。彼も牢屋でキリストのために難儀を凌んできた人である。そして彼も、自分の願いを、今二人で読者の愛と祈りにゆだねたい、今村の教会の建設を!』

 ドイツからばかりでなく他の外国からの援助もあって、また今村の信者自身の勤労奉仕の努力で、教会の建築工事は1912年2月に始まった。しかし、その後新しい困難が起こったので、同年の秋、本田神父は次ぎの手紙を送った。

 「神のお恵みにより、またドイツの寛大な信者達のご協力で、私たちは1912年2月に新しい聖堂建築工事を始めた。ところが、外壁が殆ど出来上がったとき、工事費が不足して工事を中断しなければならなくなった。その理由は、深く掘れば掘るほど多量の水が出たことである。それで基礎をもっと堅固にしなければならなくなったので、経費の大部分をこの困難な基礎工事で使ってしまった。

 最初は異教徒たちが方々から見物に来て、この見慣れない基礎とかつて見たことのない建築を見て、とても感心していたが、今や工事が中断されたと聞き嘲笑っている。これはまだたいしたことではない。未完成の建築が長くそのままになってしまえば、木材は雨や雪のために腐ってくる。

 こうして私は、かわいそうな信者達と共に悲鳴をあげている。彼らは年がら年中、毎日、教会のために働いてきた。しかし、1912年の稲は全く不作であったので、多くは食糧でも困っている。どうし たらよいのか?他に友達がいないので赤面しながら、もう一度、貴誌の読者に、今一度お願いして、私の生涯の夢であるこの教会の完成を見るように、見捨てないで下さい。」
 

 こうして神父の夢は実現した。1913年12月9日に献堂式がおこなわれ、1914年1月17日付の手紙で、本田神父は教会の完成を恩人たちに報告した。
 
今村教会
写真は「今村信徒発見125周年記念誌」より
今村教会
写真は「今村信徒発見125周年記念誌」より
今村教会
写真は「今村信徒125周年記念誌」より
今村教会
写真は「今村信徒125周年記念誌」より

 1855年に長崎・浦上に生まれ、1887年司祭に叙階、その後、長崎神学院教師、1890年に八代、1894年に五島列島、1896年に今村に赴任、32年間の司牧の後1928年に蔭ノ尾教会(長崎県)に赴任、4年後に発病、1932年2月17日、長崎医科大学病院で逝去した。本田保師77歳の生涯であった。

イエズス会司祭 H・チースリク著
(原稿は「聖心の信徒」昭和58年3〜5月号より)
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