使徒ヨハネ 入口 勝師

1961(昭和36)年〜1971(昭和46)年
 
 昭和36年4月、田中師は5年間の司牧を終え、浜脇教会へ転任され、使徒ヨハネ入口勝師が第11代主任司祭として着任された。

 師の在任期間は10年間であったが、その期間は全世界のカトリック教会の刷新と激動の期間であった。昭和37年6月10日、第2バチカン公会議がヨハネ23世教皇により開催され、翌年9月20日には長崎教区長の山口大司教も公会議に出席された。昭和40年3月16日から20日までは、キリシタン復活100周年記念祭が長崎で行われた。
 

長崎駅前のキリスト発見100年歓迎塔
信徒発見百周年記念ミサを司式したマレラ特使 浦上教会
大浦天主堂祭壇では連続ミサが捧げられた。
信徒発見記念碑

 昭和41年は特別聖年、昭和42年は信仰の年。昭和44年2月1日に山口大司教が教区長を辞任。同年2月17日、浦上教会にて教区長辞任感謝ミサを捧げて大司教館に引退。

 また、同年3月7日、第2バチカン公会議の最初の顕著な成果として日本でもミサ典礼は背面ミサから対面ミサとなり日本語が始めて使用され、信徒は信仰生活を送るうえで、大きな恩恵を受けることとなった。同年3月17日、鹿児島司教であられたヨゼフ里脇司教が長崎大司教として着座され長崎司教区の司牧は長崎県西彼杵郡外海町出津出身の里脇大司教に委ねられることとなった。昭和46年2月22日には大水、小瀬良両教会が曽根小教区に編入された。

 このように、一口に10年といっても仲知小教区は、教会の刷新に向けての流れの中にあった。そういう変革の時であっても、入口師は決して動揺することなく、腰を据えて信徒との対話を深めながら、行き届いた司牧を行っている。
その司牧は「暁保育所」の開設、伝道学校の開設と宗教教育、移動信徒、隠れキリシタンへの司牧、仲知教会司祭館と赤波江教会新築工事などに見ることが出来る。

暁保育所の開設

 昭和37年4月4日、津和崎郷米山に「暁保育園」が僻地保育所として開設された。米山集落は、その当時90戸からなる信徒集落で仲知小教区の巡回地であった。

 仲知には青空保育所が開設されて10年を経過し、子供たちの教育、特に幼児の宗教教育の面で大きな効果が齎されているのに反し、米山は遠隔の地であるため、その恵みによくすることは出来なかった。「米山」にも保育所の設置が要望されるのは当然であった。地元の強い要望に応じ、当時の主任司祭入口師が保育事業を始め、とりあえず米山教会を保育所として使用することにした。
 
 

暁保育所開園当初

 定員28人の保育所はこうして開始され、最初の保母としてこれまで青空保育所の主任を勤めた山添耀子と真浦タシとが勤めることとなった。真浦タシは4ヵ月後病気のため、真浦アヤノと交代した。昭和50年3月までこの2人は「暁保育所に」に勤続したが、早速、司祭の賄い、聖歌の練習、典礼準備、後年、米山教会の教え方が廃止されると、その時からは子供たちの公教要理、堅信の準備など米山教会にも奉仕するようになった。
 
 
第二回卒園式

 米山教会では週2回のごミサが立てられていた。祭壇を幕で仕切り聖堂内で保育が行われた。保育材料と器具、備品室、保母の宿舎は司祭館を使用した。
4月開設以来、入所希望者が増加し、また仮園舎の教会から1日も早く引き揚げるために保育所建設は急務をようした。

 こうした現状を町に申し出たうえ、保育所建設の申請、早期実現のため援助を懇願した。新魚目町長小倉清氏を始め町当局は、快く受け入れ早速、建築の仕事にとりかかった。津和崎小学校の校舎の払い下げの材料を利用し、「社会福祉館」の名目で、一切の仕事を町当局が引き受け建築工事を完成させた。

 こうして米山の保育所は、開設2年後に僻地保育所として完備され、定員60人、新魚目町立委託経営の「暁保育所」となった。

「仲知修道院100年の歩み」より
 
開園当時の暁保育所
コーヒータイム

(1)、 平成13年3月29日、米山の宇野金太郎さんから米山暁保育所の開設当初の話を聞いた。

 暁保育所開設2年後、定員を28人から60人にしたことにより、不足している32人の児童の募集を暁保育所の職員山添耀子先生に頼まれたので、仏教徒の多い津和崎集落で行った。最初は修道院のシスターたちの保育所ということで一部の未信者から偏見と軽視の目でみられ「保育所にやれば『アーメン、ソーメン』の信徒に入信させられるからやれない。」と冷たく拒絶されることが多かった。

 しかし、米山教会でのお葬式、保育所主催のお遊戯会、運動会などの行事を見ているうちに感化され「暁保育所のシスターたちの保育事業は子供の情操教育に大きな効果がある」と高く評価するようになり今度は頭を下げて入園をお願いするようになって来たと言う。

(2)、 平成13年3月25日、米山の信徒山田常喜氏宅にお邪魔をしてお茶をご馳走になっていたら、ことのついでに入口師についての話があったので、断片的な情報に過ぎないけれども、少しばかりここに紹介しておくことにする。

 入口師が仲知を司牧された頃の山田氏は奈良尾の漁船で働いていたので、師についてはそれほど詳しく知っているわけでない。しかし、月夜間の休暇には必ずミサに与った帰りに信徒会館で歴代の主任司祭たちとお茶を飲むことが習慣になっていたから、入口師についてもいくらか知っておられる。

―  入口師が仲知に着任して暁保育所を開設した頃は、仲知の司祭館を留守にしていたことで、他の巡回教会信徒たちから理解してもらえず「米山の神父」と悪口をたたかれることがあったりして困っておられた。

―仲知の司祭館の台風被害

 これも入口師が仲知に着任された頃だと思われるが、台風被害を受けた仲知司祭館を修理するため約2ヵ月間米山に居られた。この間米山の宿老をしていた道越義男氏が自分のモーター船で釣って来たイッサキを入口師に差し入れていたが、その魚は賄いを兼ねて保育所にいた山添シスターたちが調理して食べさせていた。

―挨拶

 休暇で帰郷すると入口師はお決まりのように「今月の漁はどうでしたか」と声をかけて下さっていた。その頃は結構漁に恵まれていたので「まあ、まあですよ」いつも控えめに答えていた。

―車

 昭和41年、愛車で米山巡回ができるようになり誰よりも師自身が一番喜び、何時も手入れをして乗り廻しておられた。ただし、仲知から米山の道はまだ舗装されていなかったので、大雨の後の巡回時においては途中どべや水溜りに車を突っ込んでしまい、信徒たちに後押しさせるということが何回もあった。

―船乗りのための年の黙想会

 入口師が米山に寝泊りしていた頃であるが、師ははったみ(遠洋巻き網船)に乗っている信徒の便宜を図って、切り上げで1ヵ月の休暇になる夏時分に小教区内の総ての船乗りを仲知教会に集めて年の黙想会を開催し、これに100人前後の船乗りが参加していた。その頃の遠洋巻き網船は漁があっていたので仲知小教区にはたくさんの船乗りがいた。

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