使徒ヨハネ 入口 勝師

1961(昭和36)年〜1971(昭和46)年
 
濱口五郎八氏

4、佐世保市在住の竹谷ヤエさん(71)の場合、

 昭和6年3月23日仲知生まれの竹谷ヤエさんは昭和31年に事情があって仲知修道院を退会すると、その1年前から浜田市のあけぼの缶詰会社に勤めていた仲知の真浦チマさんから声をかけられたので一つ返事で彼女と同じ会社に入社することを決意する。

 彼女は長崎の純心短大卒という肩書きがあったので、会社は最初から彼女に事務職の仕事をさせようとしたが、彼女の希望を入れ、しばらく他の従業員がしている同じ仕事をさせてくれた。やがてその仕事である縫製に慣れたところで従業員の出席カードや給料の計算などをする事務職の仕事をするようになった。 この会社で彼女は約10年間勤めることになる。

 浜口五郎八は若い信徒の従業員からは通称「浜口のおんちゃん」と呼ばれていた。彼の仕事は地方を廻って従業員を探す斡旋業であった。彼自身が熱心なカトリック信徒であったから従業員の殆どは仲知や黒島や平戸地区の教会の信徒たちばかりであった。

 しかし、仕事は従業員を見つけるだけでなく、会社の寮に帰ると、最初はイワシやアジ等の鮮魚を入れるトロ箱の修理をしていたが、後では会社の警備の仕事をするようになった。警備の仕事だから夜9時と深夜の1時頃と2回くらい会社の見回りをしていた。

 さらに、寮長としての仕事もあり、寮生の生活指導はもちろんのこと宿舎の管理運営もかねていた。彼自身トラピスト修道院で修養した経験があったので、単に寮生の生活指導でなく、信仰生活を充実させるために厳格に寮生を躾ていた。
                                    
 私自身もその1人で彼の指導のもと1生涯分の信心業をさせられたという印象である。
彼がどのように寮生を信仰面で導いたのか、その具体的な点を以下に記してみる。

― 彼は会社の幹部と交渉して寮の2階に仮聖堂を造らせ、その仮聖堂で祭壇を常設し、日曜日には必ず近くにあった教会から神父様に来ていただいてミサを捧げてもらっていた。晩になると、休む前にこの仮聖堂に寮生を集めて夕の祈りをさせ、時には要理の勉強もしていた。

― 仕事でさしつかえない限り、すべての寮生は近くの教会まで歩かせて毎日早朝ミサに預からせていた。

― 聖母会

 日曜日は必ずしも休みではないことがかなりあった。
そのようなときには昼休みに教会から司祭に来ていただいて聖母会の信心をしていた。その聖母会の会員を募るのも彼であった。
 

 昭和41年頃になると、島根県浜田市あけぼの缶詰会社の寮にいた寮生と寮長をしていた浜口五郎八氏、それに事務員の彼女も全員が岡山県伊原市の紡績会社で働くことになる。

 どうしてそうなったのかは彼女にはよく分からない。
ただ、分かっているのはその紡績会社の社長の奥さんの妹さんが熱心なカトリック信徒であったこと、そして、この妹さんの霊的指導司祭をしていた松本神父様と、彼女と懇意にしてした赤波江晴海神父様とが一枚絡んでいるということだけである。

 この紡績会社で竹谷ヤエさんは16年近くも勤務することになる。ここでも事務員として採用の予定であったが、従業員のしている縫製の仕事をしているうちにどうしたのか事務の仕事はしなくてもよいようになった。

 ここでも信仰熱心な寮長の浜口五郎八氏は社長の姪を通 して寮の1階に仮聖堂を造らせ、あけぼのと同じようにここを中心にして寮生の信仰生活の指導を行っていた。祭壇を常設するのは勿論のこと、ばんこ(椅子)までも備えた教会であった。地域的に言えば広島県の福山小教区が所属小教区であったが、浜口氏は笠岡小教区の神父様に頼んで日曜日のミサをこの寮内の教会で捧げて貰っていた。

 この笠岡カトリック教会は純真会の神父様たちが司牧している教会で主にベルギー人の司祭が多い。前長崎教区の山口司教に頼まれて長崎公教小神学校の校長を10年間していたペック神父様がここの主任司祭をしていた。
 
 
小神学校で校長をしていた頃のペック師
前列中央でネクタイをしているのがペック師

 現在浜口五郎八氏は黒島教会の墓地に埋葬されているが、その墓碑は黒島出身の中村五作神父様の墓碑の隣となっている。このように中村師と並べてその墓碑が建立されているのはけっして偶然なことでない。それなりの理由があるようだ。
 
 
第二の故郷であった黒島の天主堂

 
濱口五郎八は黒島の墓地で中村師の隣りに埋葬されている。

 第一の理由は何といっても中村五作師がかつて仲知小教区の主任司祭をしていた時の賄いが浜口五郎八であったことである。彼は若いときから中村師の賄いといて師と深い師弟関係にあった。それにまた、彼の結婚相手の中村シズは中村師の姪である。

 これは編者の勝手な想像に過ぎないが、師の世話で姪の中村シズさんと結婚することになったのかもしれない。それにまた、浜田市のあけぼの缶詰会社にしても、伊原市の紡績会社にしても従業員が一番多かったのは黒島出身の信徒で二番目に多かったのが仲知の信徒である。

 そうすると、浜口氏から信仰面のお世話をいただいたのは教会単位に考えるならば、まず黒島教会の信徒でありましょう。であれば、彼が黒島の教会墓地で一番よい場所でしかも聖職者の中村師と並んで葬られていることは、黒島教会出身の信徒の霊的な向上のために生涯尽くした彼に相応しいのではないだろうか。

 編者は自分自身のこのような考えから仲知小教区出身信徒の信仰育成に尽くした彼の貢献に感謝するため、このページを開設して皆さんに紹介しているつもりである。

 後1週間で編者は深堀教会へ転任するので、これ以上深入りして浜口五郎八氏の功績を称えるための紹介は出来なくなる。せめて、浜口五郎八氏の活躍のごく一部だけでも、どうにかこうにか編集作業を進めることが出来たことでほっとしている。

 何よりも電話での取材に協力していただいた信徒の皆さんのおかげであります。それにまた、「思いは岩をも通す」という編者の思いも天国の浜口五郎八氏に届いたのかもしれない。そうであることを願いながら。

エピソード

 生前の信仰熱心な浜口五郎八氏は、広島県福山の援助マリア修道会のシスターとも交流があったので、相互に訪問することがあったようですが、竹谷ヤエさんによると、福山のシスターたちが伊原の紡績会社の寮に住んでいる浜口さんを訪問すると、時には彼が腕をふるってサラダなどの手料理でもてなしていたそうです。彼の調理は郷里で中村師の賄をしていた経験があって玄人肌であったとか。
 

 あけぼの缶詰会社の件の電話取材では仲知の山添(旧姓真倉)文子さん、江袋の楠本(旧姓紙村)スミ子さん、米山の山田(旧姓竹谷)テルノさん、一本松の竹谷チマさん、水元メリエさんにもご協力を願いましたが、仕事の内容と就職年月日とが大体同じであることから割愛させていただきました。ご了解してください。

 入口師が司牧された頃の社会状況

 国民生活は昭和30年代から始まった高度経済成長の過程で大きく変化した。テレビと電話が各家庭に普及し、電気洗濯機や電気冷蔵庫など家庭の電化が進み、マイカー族が増えていき、消費革命は農村も巻き込んで進行していった。国土開発も本格化し、自動車道路網の整備がめざましくなってきた。

 しかし、入口師の着任直後の仲知は道といえば石ころだらけの狭い山道で車が通れる道ではなかったから、師は着任しても巡回教会までのでこぼこ道を1時間も2時間もかけて歩いて行かなければならなかった。

 しかし、着任後間もなく狭い山道が整備され、どうにかバイクであれば巡回できるようになり、さらに、昭和45年ごろになると、仲知地区にも待望の県道が開通しマイカーで巡回できるようになったが、まだ舗装されていない道路であったから集中豪雨の後などはスリップして前に進ませることが出来ず困ることもしばしばあった。

新車騒動

 これは仲知教会の宿老として入口師に仕えた久志伝氏(71)から聞いた話であるが、とても面白いので紹介することにする。
 
 
入口師の愛車

 昭和45年の頃のことである。車が通れるようになると、仲知小教区の信徒の中で一番最初に車の免許を取得し新車を購入したのは入口師である。車が通れるようになったとはいえ、まだその頃の仲知地区の道路状況は悪かったのに師はいきなり新車を購入された。その頃はまだ仲知を通っている県道から司祭館までの道は車の通れる道でなかったので、師はやむを得ずピカピカ光る白色の新車を校長住宅前の野原を借りて駐車場としていた。

 ところが、そこは丁度仲知小中学校の生徒の通学路となっている。いやがうえでも神父様の新車は目に止まるだけでなく、話題になる。

 ある日こと、ある子供が師の車に落書きをした。傷は相当に深い。おそらく石ころか、釘を使っての落書きであろう。子供としては単純な悪戯であるが、悪戯をされた師は腹を立て気分がおさまらない。日曜日のミサの説教で「誰が車に傷をつけたのか。」と犯人を見つけ出して弁償でもさせようとの剣幕である。

 この説教を聴いた久志宿老は、師をなだめて「神父様、どがんするかよ。『腹水盆に帰らず』というもんの。私ども大人でもぴかぴかの白いものを見ると、触ってみたり、何かものを書いてみたくなるくらいですから、子供であればなおさらのことでしょう。愛車を通学路に駐車しないようにすれば一番よいのでしょうけどね」
 
 
入口師に宿労として奉仕していた頃の久志伝氏

仲知司祭館新築工事 昭和39年

 マイカーで巡回出来るようになった喜びもつかの間のことで、老朽化が著しい仲知教会司祭館と赤波江教会新築工事を急がなければならなくなった。

 司祭館工事はわずか30年前のことなのに、その資料がない。残念である。当時の宿老の久志伝氏によると、その建設工事は昭和39年のことだと言う。

 一戸当たり6万円を割り当て金として集金し、設計は地元の大工井手渕一成氏と入口師の2人でした。というのは師は神学校入学前の職業が船大工であったから建築のことに詳しい知識を持っておられたからである。施行は井手渕大工にすべて任せることにして手も口も出さないように心掛けておられた。それでも井手淵大工は建築の知識のある師に相当に気をつかっていたそうである。

 司祭館工事と一緒に教会玄関の増改築も行い、総工費は約400万円であった。
 
 
新築した仲知司祭館(上/下)

 

赤波江教会新築工事 昭和46年
 
 
旧赤波江教会
鉄筋コンクリート構造物に立て替えられた赤波江教会

 84年間も風雪に耐えて来た古い木造の赤波江教会も老朽化した教会として限度に達し、24戸の信徒は昭和42年4月から毎月2千円を積み立て、2年後にはさらに3千円に改定し新築工事に備えていた。

 ところが、予期していなかった事態が起きた。それは石油ショックによって物価の上昇の兆しが見え始めていたからで建築資材の価格が高くなることが予想できた。そこで、主任司祭の入口師と相談して赤波江の信徒たちは少々ゆるやかな建築計画を早期計画に切り替えることにして臨時の総会を開催した。総会では建築資材の価格が高騰しないうちに一気に建設することを満場一致で決め、一戸当たり10万円を昭和46年7月末までに一時金で完納することを決めた。

 設計は教区会計の西田師の世話でエリー産業株式会社(長崎市万屋町)、施行は長崎市の建設業者の松尾大工と契約した。請負代金は660万円。工事中は建設資金を補うため信徒が出来る仕事は信徒ですることにして当番制で労力奉仕をしたが、当時は赤波江の信徒には妊婦が多く、今でも大きなお腹で労力奉仕したことを忘れられないと言っている。
 
請負金額が最低価格に押さえられた関係で、赤波江教会の宿老の赤波江松市氏と郷長の赤波江直吉氏は他の信徒には分からないほどの苦労があったが、2人とも苦情一つもらさず、「私たちの教会は私たちの手によって」との気構えでお互いに励ましあい教会建設に心を尽くし、陣頭に立った。

 事は順調に進み、完成に向かって信徒の団結はいっそう深まる中、昭和46年10月入口師は約10年間の司牧を終えて神の島教会へ転任することとなった。

 この思いがけない季節はずれの転任に赤波江教会信徒一同、悲しみの内にも教会建設に資金面でも精神面でも絶えず援助の手を差し伸べることを忘れなかった入口師に深い感謝の心を表した。
 

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