使徒ヨハネ 入口 勝師

1961(昭和36)年〜1971(昭和46)年

 
 
赤波江モヨさん(86)の日記帳から
 
 
赤波江モヨさん
赤波江教会信徒

 大正3年西彼杵郡琴海町生まれの赤波江モヨさんは今年87歳になるが、まだ元気でバイクを乗り回し、明るい信仰生活を送っておられる。このモヨおばさんは昭和40年代から毎日日記を書いておられ、その日記の中から教会に関連している個所を抜き書きしていただいた。モヨおばさんには心より感謝したい。

― 昭和42年3月1日

 仲知小教区の年の黙想会が始まる。
説教師は佐藤師。佐藤師は浦上教会出身で現在は深堀教会の主任司祭。説教が上手でとても面白くみんな大笑い。昼まで。黙想のミサ謝礼金は1戸当たり800円。後で100円返してもらって700円。神父様の黙想謝礼金は1人当たり1、000円。

― 昭和44年1月12日

 入口神父様盲腸炎で立串診療所に入院。
青砂ヶ浦教会から竹山師がお出で下さって仲知教会で
午前11時からミサ。平日の今週のミサはない。

― 昭和44年5月28日

 赤波江万吉おんじの葬式を午後1時からと決めていたが、歌う人がいないので午後4時に変更。入口神父様は3時40分頃にお出で下さったのでお茶やお菓子をお持ちしたが召し上がらず、帰りに寄るからと言われたのでビールを冷やしていたらビールはいらないと言われ、アイスキャンデーがお好きのようだったのでアイスを少し差し上げた。

― 昭和46年6月8日

 赤波江教会建設の件
 
赤波江教会

 朝、仲知の入口師から赤波江直吉方に電話で呼び出され赤波江教会宿老の赤波江松市氏と郷長の赤波江直吉氏が仲知の司祭館に行く。正午12時より臨時の常会を開催。この会議で入口師、松市氏、直吉氏の3人は教会建設契約のために明日長崎に行くことが決まる。
さらに、この会議で入口師より先日行われていた古い教会の払い下げの入札の結果が報告され、赤波江義雄氏が31、100円で落札、教会の古材を教会外に搬出することが了解される。(義雄氏はこの古材で農機具を格納する倉庫か牛小屋を造る予定であった。モヨさん談)

―昭和46年6月9日
 
 入口師、赤波江松市氏、赤波江直吉氏の3人は午前8時出発、鯨波丸に乗船長崎へ。
 長崎の赤波江直吉氏から電話。祭壇と祭服を収納する箪笥をもらったと。
 多分入口神父様のお世話で。
(大瀬良国衛さんも行くようにしていたが、彼は用件があって行けなかった。また、この頃に稲佐教会に1万円寄付しているから多分祭壇と箪笥とは稲佐教会からの寄付ではないか。

― 昭和46年6月10日

 長崎行き午後の鯨波丸で帰る。船上より電話があり、車(公営タクシー)予約するように依頼される。

― 昭和46年9月9日

 建設業者の松尾大工さん長崎から来られたので棟上式をする。朝から餅2斗つき午後5時から餅まき始まる。入口神父様がお出で下さって役員と工事関係者だけで小宴。
 
 
中央が赤波江教会施工者の松尾君夫氏

― 昭和46年9月12日

 入口神父様、神の島にご転任と発表。
 
神の島教会

― 昭和46年9月19日

 入口神父様仲知での最後のミサ
 入口神父様の荷物搬出

― 昭和46年9月20日

 浜崎師の荷物を仲知司祭館に搬入する。

― その他

 モヨさんの話によると、赤波江教会建設のことが話題になった頃に信徒の間で仲知小中学校の校舎を払い下げてもらってその古材を使用して教会に改造したら良いのではないかという案件が提出されていたが、この案件は後で没になったとか。

入口師のことば

 この度、信徒移住200年を記念して、「仲知小教区史」が発刊されたこと、誠に喜ばしい限りです。
 
 

 主任神父様をはじめ、信徒の皆様に心からお祝い申し上げ、貴小教区のますますのご発展を祈念いたします。200年のことばを耳にする時、私も貴小教区の20分の1の歴史の中に居合わせたことは、感慨無量で感謝にたえません。

 仲知小教区主任への辞令を受けて、1961年(昭和36年)4月26日の朝、浦上を後にして、主任司祭中島万利師、信者の同伴者と共に、長崎港を出航した九州商船波路丸は、その日の夕刻近く津和崎港に寄港しました。ここでポンポン船に乗り移り、西回りして、約1時間足らずで真浦の浜に着きました。

 津和崎まで出迎えて下さった沢山の信者さん皆さんが、今度は真浦の浜まで走って、私達より先回りし、二度まで出迎えしていただいたことが、37年過ぎた今日でも、印象深く私の脳裏に焼き付いています。

 仲知地方は一見して自然環境の厳しい所だなあという印象を受けました。当初は巡回教会が、5ケ所もあると聞き、一層びっくりしたというのも偽らざる心境でした。

 特に、大水、小瀬良教会に巡回しなければならない折りには、自分で道を造りながら、あの険しい山頂を登って行った当時のことが偲ばれます。あまりの悪路と遠さに、一度は大水教会へ巡回する時、真浦の浜から大水の浜まで、櫓船で連れて行ってもらったことがありました。ところが登るのがこれまた大変で、急な斜面で、まるでジャングルの中を通っているような気におそわれ、登り着くまでには、結局陸路を歩く時間とほぼ同じくらいではなかったかなと思ったことでした。

 しかし、時代と共にこの悪路も段々と整備され、やっと単車が通れるようになり、巡回にはバイクを使用することも出来、いくらか楽になり、時間にゆとりが取れるようになりました。転任近くになった頃には更に道路事情もよくなり、自動車で巡回する時代へ移り、歩く宣教師から走る宣教師へと変化して行きました。

 仲知小教区の信徒たちは概して非常に純朴、忠実でありましたので、10年間の宣教、司牧にも、私はあまり気苦労せずに済んだように思います。

 当時の仲知小教区の人口ははるかに1千人を超えており、年間の幼児洗礼者数も約60人位ではなかったかなと記憶しています。島本大司教様をはじめ、数多くの司祭、修道者、志願者の輩出も多い小教区です。このことはとりもなおさず先祖代々から受け継いだ信仰心と、宣教熱が、証してると思います。

 また、上五島地区では、小・中学校の宗教教育は、当時としては各教会(巡回教会と各地区を含む)で選出した、中学校を卒業したばかりの女子生徒を各小教区の責任と、多大の負担をしながら、創設されていました。鯛ノ浦伝道学校で6ケ月の教育、実習を受け、カテキスタとして4年間各小教区で奉仕するようになっていました。

 一時期、鯛ノ浦伝道学校が生徒の都合で仲知で開校することになり、私がその任に当たりました。司祭館、教会の諸施設を有効利用しながら、7名の生徒と苦楽を共にしたことがなつかしく思い出されます。或る人はシスターとして、他の人は家族人として受けた教育、賜った多くの恵みを大切にしながら生活していると聞き、大変嬉しく思う今日この頃です。

 更に、当時は中学卒業生の集団就職が金の卵ともてはやされ、ご多聞にもれず、仲知からも、島根県のあけぼのかんづめ工場に、中学を卒業したばかりの初々しい女の子供たちが、初めて親元を離れ、就職に行っていた姿がまぶたに浮かびます。私も、一度彼女らを励ますためここを訪問し、働いている姿をつぶさに見せていただき、当時の彼女らの苦労が偲ばれます。

 今日では、立派な道路も通り、美しい教会堂に新築、修復され、目を見張る姿に変わっています。これはとりもなおさず、旧き良き時代の皆様方の信仰と宣教心の証だと思います。間もなく大聖年を迎えようとしているこの時、貴小教区が世の光となることを願ってやみません。皆様方の上に神の豊かな祝福がありますように!!

(”仲知小教区史”から引用)
 
10年間の回顧
 
 
入口師が仲知で司牧されいた頃の旧仲知修道院
昭和53年3月に新築にされた仲知修道院

 この度の、お告げのマリア修道会仲知修道院創立百周年記念誌発刊に当たり、姉妹の皆様に心よりおよろこび申し上げます。

 「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」(第二ペトロ 三・八)と聖ペトロは言っていますが、一世紀の長い歴史の年月の十年間を皆様と一緒に生活することができましたことは、私にとりまして最高のよろこびであり、神のお恵みだったと思っております。

 思い返しますと、今から23年前、主任司祭として初めて御地に着任致しました。今にして思えば、当時は交通の便が非常に悪く、たとえば長崎に出るにしても一日がかりでしたし、道と言えば人がやっと通るだけのものだったし、車どころか、たまには山越えして、長い山道を手で小枝につかまりながら、巡回教会まで2時間も3時間もかけて歩いて行ったのも、過去の思い出として残っております。

 今でこそ、立派な道路が出来、車が行き交い、教会、司祭館、修道院、保育所等が新築され、当時の思い出は段々に薄れていっているかもしれませんが、それはそれは、先人達の大変な苦労をして信仰生活、そしてその遺産を子孫に伝えてくれた賜の結果、今日の姿があると思います。

 10年余りの在任中、いろいろなことがありましたが、御地を後にして12年余りの歳月が過ぎ去りました。時々写真集を出して、在りし日のことを思い出すのですが、風の便りで、もうすでに何人かの人が故人になったと聞く度に心が痛みます。また教え子達や、顔馴染みの人達とたまに会う時、なつかしく、最高のよろこびを感じます。特に御地からは、神の御声に素直に答えて召命の道に多くの若者がいそしんでいるとも聞きます。

 あの当時、洗礼を授けた子供、公教要理を教えた子供達の顔がおぼろげながらも浮かんできます。ほんとに御地は召命の温床といってもいいかもしれません。これもひとえに、御地修道院の皆様のお祈り、また子供達との関わりによるものだと、心ひそかにそう考えている今日この頃です。
 
入口師が仲知で司牧された頃の仲知修道院姉妹達

 紙面の都合上、多くを書くことは出来ませんが、最後に在任10年間の感謝をこめ、貴院のますますのご発展を願って、主の祝福を祈ります。

(”仲知修道院100年の歩み”から引用)
 
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