使徒ヨハネ 入口 勝師

1961(昭和36)年〜1971(昭和46)年

 
思い出(5)

 入口神父様の思い出
 お告げのマリア仲知修道院シスター 島本藤子
 
島本藤子シスター

 現在仲知修道院がある場所に以前古い仲知教会があった。私が仲知小学校3年生位だっただろうか。その教会前に長い階段があり、そこから真浦浜まで続く一直線のセメントコンクリートの道ができた。その道を教会から一気に走って浜まで貝拾いを楽しみながら稽古の鐘が鳴るのを待っていたものだ。

 道ができて間もなくして、新しい神父様がお出でになった。入口神父様である。子どもも大人もその新しい道の両側に立ちみんなで手をたたいて出迎えたことを記憶している。
 痩せて少し黒っぽい小さな田中神父様が太って白い入口神父様と笑顔で話しながら船を降りて教会まで歩く姿は印象的だった。

 神父様といえば私たち子どもにとっては神様のような高貴な存在だったので入口神父さまとはあまり親しく話すことはなかったが、会うといつも柔和な顔で話しかけているように感じた。

 小学校5年生の時、東京オリンピックが開かれた。その時から小学校にテレビが入った。その後位だったろうか。入口神父様もテレビを買って日曜日の午後などは隣近所の大人に相撲を見せて下さっていた。私たち子どもたちはあまり興味がなかったので相撲は見なかったが、夜に「恐怖のミイラ」という番組があっていて司祭館(カトリック神父の住居)に見せてもらいに行ったことを記憶している。

 ある時は丁度その番組の最中に急に停電になって、真っ暗な中で怖がったことが懐かしく思い出される。
ごミサが現在のように対面式になったのもその頃である。

 それまでいつもミサに与る時にはいつも後ろ向きの神父様の背中を見つめていたが、その頃から神父様が信者の方を向いてごミサを捧げられた。顔はうつむきかげんで新しく変わった日本語で「主は皆さんと共に」と上品に手を広げ、ごミサを捧げる姿はいかにも神々しく見えた。

 そして、ごミサが何のことか分からない私はごミサを真剣に捧げる神父様をただ見張っていたような気がする。

 クリスマスの夜のミサの時である。教会は溢れるほどの信者だった。聖体拝領の時は祭壇と信者の席との堺に綺麗な模様のついた聖体拝領台がありそこに跪いて聖体拝領していた。
 
1998年12月24日のクリスマス深夜ミサで奉仕する仲知修道院のシスター方。
島者シスターはオルガン担当

 その時神父様は右端から左端へと一人づつ順番にご聖体拝領させていたが、12月24日の夜で寒いはずなのにその顔は汗びっしょりだった。一人づつ聖体拝領させながら右端から左端まで動き終わるとまた右端に戻るというごく単純な動きであるが、それが、大変な運動であることをその時に気づいた。神父様は一度も汗を拭くことなくただひたすら真剣な顔だったことを覚えている。

 入口神父様は、よく外で歩きながらロザリオを唱えていた。
今の修道院の前に残っている一本のあこうの木のところに当時は大きなあこうの木が確か3本位あった。神父様はその木の下を行ったり来たりしていた。
 
現在は当地は仲知修道院となっている。

 たぶん、祈りながら私たち子どもの遊ぶ様子も見ていたのだろう。たまたま、鬼ごっこ(当時のことばではおあいぼ)かなにかをしていて神父様の近くまで走って行った時のことである。「藤子のめでたしの祈りの珠は一個足りんぞ、9個しかないぞ」と言われた。神父様は私がロザリオを先唱しているのをちゃんと聞いていて下さったのだ。私はそれまでロザリオの祈りの唱え方を自分では知っているつもりだった。神父様にそういわれるまで気づかなかった。

 家に帰ってロザリオをよく確かめてみると、私はロザリオの珠を数えていなくて珠と珠の間を数えていたことが分かった。その時から何となく入口神父様に親しみを覚えるようになった。

 そうしている内に私はいつの間にか修道院に入ることになった。母と2人で神父様のところに挨拶に行った。「ああ よかったなあ そりゃあがんばれ!」と励ましの言葉をいただいて帰った。

 口数の少ない神父様だったのであまり話さなかったが教会の行き帰りに冗談を言ったりして話し掛けてくれていた。

 私が高校を卒業すると同時に神父様は神の島教会へ転任された。それから15年間お会いしてなかったが、終生誓願後大浦修道院から紐差修道院へと転任したら偶然にもまた紐差教会の主任司祭は入口神父様であられた。
 
紐差教会

 私は着任の挨拶で「神父様、仲知出身の島本藤子です。お世話になります」と申し上げると「おお藤子か、院長様から藤子が来とるって聞いたとよ、大きくなったなあ、ぎばれ!」と32歳の私の頭を撫でて下さった。知らない所への転任で不安だったが、神父様のそのお言葉で私の不安はどこかに飛んでいった。

 神父様は私の小学校の時とあまり変わっていなかった。やはり司祭館のまわりを行ったり来たりしてロザリオを唱えていた。そして、時には子どもたちの稽古の途中にも入って来られ「頑張っているか」と子どもたちを励ましてくださっていた。冗談が上手になっていた。

 ある日、子どもたちの稽古が終わって外に出てみるとぴかぴか光っている新車が目にとまった。「藤子、新車ば購入したぞ。今流行りのオートマチック車たい 修道院まで運転してみらんか 乗りきったらやるぞ」と、とても嬉しそうであった。私もそれに負けじと「本当に下さいますか、よ〜し!」と言ったものの「オートでは乗りきらもん」と とうとう乗らずに終わってしまった。

 入口師には2年お仕えした。
私よりも早く平戸教会に転任された。その時も「藤子 良かギターば持っとるとよ いらんか」と言って転任の記念に下さった。白いペンで「入口」とはっきりネームを入れたフォークギターである。私は転任のたびに大切に持って廻り子どもの要理や保育園の発表会などで使わせていただいた。

 仲知にいる今は丸尾教会の神学生の甥に貸している。甥もギターを弾くのが好きらしい。丸尾教会の子どもの黙想の手伝いで、ごミサの時入口神父様に頂いたギターで伴奏を弾いたところ、丸尾の主任司祭であった入口神父様はそれを知り大変喜び懐かしがっていたそうだ。

 今では神父様も天国に旅立たれ御父のもとで安らかに憩っておられる。入口神父様の形見となっているこのギターが甥の司祭への召命を繋ぐ架け橋となって欲しいと願い取次ぎを願っている。

 今こうして入口神父様の思い出を綴りながら、神父様は私のこれまでの修道生活の歩みをずーと支え続けて下さっていたことに深く感動を覚えている。これからも私の奉献生活が完成されるその日まで天国で見守り続けて下さることを希望しつつ、神父様への感謝の内に永遠の幸福のため私の小さな祈りを捧げていきたいと思う。

 最後に入口神父様の思い出を綴る機会を下さった下口神父様に心から感謝いたします。そして、入口神父様同様に私の召命の道を支え導いて下さるようお願いして思い出の記を終わりたいと思う。
 

 
1996年5月10日、初聖体で奉仕する島本シスター
2000年の大聖年に子供たちと大曾教会へ巡礼したが、帰り道に子供たちと休憩した時のスナップ
新魚目町津和崎郷
仲知修道院
 
思い出(6)

入口神父様の思い出
    お告げのマリア修道会シスター 久志 貞恵
 
 

 天国に旅たってまだ日の浅い入口神父様のことを偲びながら、思いつくままに書いてみようと思う。

 生後五日目に洗礼を受けた時が最初の出会いだったと思われるが、もちろん覚えていない。それから小学3年生までの9年間、お世話になった。と言っても、余りにも小さかったので記憶も定かでないし、多くのことを覚えているわけではない。しかし、神父様の優しいそうだがちょっと怖かった雰囲気や、存在の大きさはしっかり覚えている。

 小さい頃はミサ中退屈で、祭壇を区切ってる模様入りの柵を眺めたり、数えたりしていたものだ。5月の聖母月、6月の御心の月、10月の聖母月には毎日教会に通いロザリオを唱えていた。とても長くて眠たかったことを教会の直ぐ後ろにあったルルド洞窟の水の音とともに思い出す。

 特に忘れられないのは、初聖体のことだ。いつもなら小学校入学前に初聖体をするのに、私達の時には準備不足のためか、真夏だった。そのため楽しみにしていた着物を着ることが出来なかった。初聖体の前に教会で神父様による口頭試験があった。神父様は祭壇の前の机に、白いスータンを着て座っていた。私達の後ろには親がいた。私はドキドキしながら待っていた。自分の名前を呼ばれ返事をして立ち上がった。
 
初聖体記念

 神父様はご自分の右側にある聖体ランプを指差して、「これは何という物か。」「どんな意味があるか。」と質問された。私は知っているままに答えた。答え終わって安心し自分の席について後ろにいる母のほうを振り向くと、前を向くようにと母が目で合図した。子供達以上に親はどれほど緊張していたかと今になって思う。初聖体の記念にロザリオを頂いた。赤いガラス玉の粗末な物だったが、私にとっては大切な宝物で、今でも使っている。

 また、入口神父様の頃のけいこはシスターではなく、一般の信者がしていた。司祭館の横に小さな家があって、そこで各地区の集落から選抜された教え方志願者達が教え方としての要請を受けていたことをうっすらと覚えている。私が小学一年生の頃は山添ツイ子さんが教えてくれたが、大変なことだったろうと思う。
 

 それから、神父様と一緒に思い出すのは、賄をして下さっていた妹の入口京子さんだ。いつも静かに庭の草を取ったり、ニコニコして私たちにも声をかけて下さった。その頃の京子さんは20歳前後のだったと思うが、今でもその優しい面影が残っている。

 神父様が仲知を離れてから再会したのは、私がノビスの支部実習で平戸修道院に行った時だ。14年ぶりで23歳になっていた。「大きくなったなー。」と言われたときには笑ってしまった。
 
平戸修道院のシスターは平戸教会の司祭と
信徒に奉仕している。入口師は彼女が実習生
の時平戸教会の主任司祭をしていた。

 このように、入口神父様とは接する機会が多かったわけではないが、私にとっては大切な恩人である。生前お礼を言う機会がなかったのでこの場を借りて感謝の気持ちを表したいと思う。本当にありがとうございました。

 これからも神父様の取次ぎを願いながら、この召命の道を
皆と共に歩みつづけたいと願っている。

                福江市松山町福江修道院

主の平和
少々遅くなりましたが、約束の原稿をお届けします。
適当に校正して頂けば助かります。
 歴史の本を出版するには大変なことだろうと想像されますが、一つのまとまった形になることは私達にとって有難いことです。お疲れ様です。
また、これからもお元気でご活躍されますように感謝の内にお祈りしています。
これから梅雨に入ります。どうかお体にだけはくれぐれも気をつけてお過ごし下さい。聖霊の賜物を願いつつ・・・・・。
 かしこ
 

 

入口師(その15)へ

 
ホームへ戻る                    
邦人司祭のページへ
inserted by FC2 system