使徒ヨハネ 入口 勝師

1961(昭和36)年〜1971(昭和46)年

 
追悼説教
 尊敬する入口神父様
          仲知教会 下口勳

 私にとって故使徒ヨハネ入口勝神父様の訃報はまさに青天の霹靂で大変びっくりしました。遺族の皆様には心からお悔やみ申し上げます。

 同じカトリックの司祭として良き臨終を迎えることができるように何一つお手伝い出来なかったばかりか、お見舞いすら出来ずにお別れするのはとても辛い思いで心を痛めています。

 しかし、神父様は去年特に肝臓の手術を上五島病院でなさってからは、自分自身のほうで何時神様から呼ばれてもよいように心を整えておられたので救霊のことは全く心配していません。神は生涯を神と人の幸せのために献身なさった神父様を御許に受け入れ、永遠の命と幸せとを神の国で与えてくださると確信しております。

 あまり時間がありませんのでここでは早朝の2時にも関らわず、この追悼ミサに出席していただいています遺族と丸尾教会の土曜会のみなさんに2つのことを簡単にお話し申し上げて在りし日の入口師を偲びたいと思います。 

 一つは神父様は聴罪司祭として私の霊的な指導をしていただき深く感謝していると言うことであります。
これまで毎月一回上五島地区司祭会議がある時には、その前に神父様に罪の赦しを聞いていただき罪の赦しと霊的な助言をしていただきました。この助言はいつも適切な助言であり私にとっては霊的生活の向上のために大きな励みになっていました。

 さらに、神父様は私如きつまらない神父をご自分の聴罪司祭として下さり、毎月一回罪の赦しと霊的な助言とを願われました。大先輩のこのような謙虚な信心深い態度に対して私はいろんなことを学ぶことが出来ました。

 司祭であっても人間です。自分の罪を赤裸々にさらけ出して罪を告白すると言うことは簡単なことでない。それなりの自我との戦いや勇気や信仰心が要求されます。神父様は罪の赦しを受けるたびに、自らのいやらしくて醜い罪を心から究明し告白し罪の赦しを受けることを司祭としての大切な務めであるとの信仰を持っておられました。

 このような神父様の生き方は決して古臭い生き方でなく、極めて今日的であり、オーソドックスで堅実な生き方であります。私は神父様のそのような司祭としての考えと生き方に共感したからこそ、神父様を聴罪司祭に選ばせていただいたのでありますが、神父様、どうぞ今度は天国から旅人の身に留まっている私のために祈り、助言し導いてください。
私も決して神父様のことは忘れないで神父様の冥福のためにお祈りいたします。

 ところで、入口神父様は昭和36年から昭和46年までの10年間今私が司牧している仲知小教区で働いてくださいました。有難うございます。それはもう30年から40年前のことになっていますが、神父様の仲知小教区でのご活躍はそのやさしさと信仰の躾の厳しさとして、いまでも信徒の心深く忘れることなく刻まれ伝えられています。
 
暁保育所第1回卒園式で園児代表の挨拶を受ける入口師
第一回暁保育所卒園で園長として挨拶する入口師

第一回暁保育所率園児と記念写真
 
青空保育所でのクリスマス会でサンタのおじさんに扮して演技する入口師
入口師が仲知に在任時代の青空保育所の運動会
 当時の仲知小教区は信徒数が多く、司牧範囲も広く、しかし、交通は不便であったので神父様の司牧は大変なご苦労がありました。しかし、神父様はどのような苦労も苦労とは思わず信徒のために若い力とエネルギーとを注ぎ信徒を優しく時には厳しく躾てくださいました。 

 さて、2年前(平成11年)に発刊した「仲知小教区史」の準備のために、神父様が仲知滞在時の10年間に書き記した仲知小教区の信徒の洗礼、堅信、結婚、死亡、家族台帳を漏れなく調査させていただきましたが、その時神父様の書体を見て強く印象付けられたことはどの台帳も女性的な書体で丁寧に性格に記されていることでした。書体は「人の心を表す」と言われるように私は神父様の書体とつきあいながら、神父様はおおらかな性格であると同時に実際は外面から受けた印象とは違ってとても繊細で几帳面な性格であられたのですね。

 最後にご遺族の皆さん、皆さんは今悲しみに暮れています。しかし、入口神父様は神様のもとで幸せな日々を送っているのだと考えて、心を安らかにすることです。
皆さんが早く前向きになり、自分の人生を積極的にしかも信仰を大切にして生きるならば、亡くなった人だってきっと天国で喜んでくれるでしょう。

平成12年10月24日
丸尾教会での追悼ミサで
 
弔辞
平成12年10月25日午前10時、浦上教会で行われた葬儀ミサ説教は植松教会主任司祭の峰徳美師で、告別式の弔辞は丸尾教会の信徒を代表して馬込安平氏が述べられたが、弔辞は本人の了解を得てその全文を紹介することにする。

 「丸尾小教区のお父さんでいらっしゃる入口神父様、子供たち500人が呆然としています。子供たちである私たちはどうしたら良いでしょう。

 2年6ヵ月前丸尾小教区へ赴任され、短い間の司牧でした。丸尾小教区へ赴任された当時の事をお話し申し上げます。「今度の神父さんはそりゃ厳しい神父さんっちぞ。どがんすっとかよ」という噂がありました。経済評議員になったばかりの私は、その噂話に大きな不安を覚えました。いよいよ着任され、ご挨拶される入口神父様を拝見して「えっ!どこが」と思いました。柔和で優しい印象ではありませんか。噂は何だったんだろうと思い、胸を撫で下ろした事を覚えています。

 それから数ヶ月が過ぎて、噂の原因がわかりました。
入口神父様は本当に真面目な性格で、信仰面においては冗談にも妥協はしない強い信念を持って司牧しておられる事に気づきました。特に典礼についてはより良いものを求めておられました。丸尾小教区の習慣をいくつもいくつも改めるように指示されました。数ヵ月後「丸尾教会のごミサの中身が非常に良くなった」と喜んでおられた姿が目に浮かびます。

 このように信仰面のことに信念を貫く強い意志が、私たち丸尾の信者のマンネリ化した考え方には窮屈の思われ、これが間違った噂の原因だったと思います。原因は私たちだったのです。これからも私たち丸尾小教区では、入口神父様が改善してくださった事を忠実に実践していきます。天国から私たちの信仰生活を見守ってください。

 この2年6ヵ月の間、私たちは神父様に本当に忠実であったのか自信はありません。神父様は丸尾小教区のことでお一人悩んでおられたかもわかりません。今となっては取り返しはつきませんが、私たちには入口神父様に学んだことがたくさんございます。それを忘れないように心に留め、これからの信仰生活に生かしていきますから、これまでの不忠実はお許しください。短い間でしたけれども、いろいろなご指導ありがとうございました。

 入口神父様にとって、この1年間は病気との闘いでした。特にこの1ヶ月は激痛に苦しみました。しかし、私たち信徒のために、毎朝のごミサには御自分のお体を気力が失せるまで酷使なさいました。2回の救急車搬送が示しています。もう、あのような苦しみはありません。これからは天国で安やかにお休みください。さようなら。」

平成12年10月25日
丸尾小教区代表 馬込 安平
 

使徒ヨハネ 入口 勝師 帰天

 入口勝神父(丸尾教会)が平成12年10月23日、肝臓ガンのため上五島病院で帰天した。73歳であった。入口神父は下五島の堂崎に生まれ、昭和34年4月、原爆で倒壊した旧浦上天主堂横の仮聖堂で故山口愛次郎大司教によって司祭叙階された。
 
入口師の故郷の堂崎教会
入口師が山口大司教によって昭和34年3月、叙階の秘跡を受けた浦上仮聖堂

以来41年間教区司祭として司牧活動に尽力した。特に昭和61年からは平戸地区長として手腕を振るった。最近は病気がちであったが、それにしても突然の訃報に驚いた人も多い。

 略歴

昭和34年サン・スルピス大神学院卒業、
同年4月、叙階。
同5月、三浦町教会助任。
昭和35年浦上教会助任。
昭和36年4月仲知教会主任。
昭和46年9月、神の島教会主任。
昭和55年3月紐差教会主任。
昭和61年3月、平戸教会主任。
平成10年3月、丸尾教会主任。

 同神父の公式通夜は平成12年10月23日午後7時から丸尾教会で行われた。翌24日、丸尾教会でお別れミサ。火葬されて長崎へ。10月25日午後1時、浦上教会において島本大司教によって教区葬が行われた。
 

 
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