使徒ヨハネ 入口 勝師

1961(昭和36)年〜1971(昭和46)年

 
 
(3)、 平成13年3月27日、小瀬良教会の信徒小瀬良留三さんから聞いた話

 小瀬良留三の父のお葬式(昭和42年頃の夏)は小瀬良教会で主任司祭の入口師司式で荘厳にしていただいたが、帰りは小瀬良氏が自分のモーター船で師と父の葬儀ミサの聖歌の奉仕に来ていた修道院のシスター方5、6人を連れて帰ることにした。
 
 

小瀬良教会

 しかし、小瀬良港を出港するなりバケツの底をつついたような土砂降りで運転するにも困ったが、それよりも舟に乗っている入口師と姉妹たちのために雨具を用意していなかったので、どうしたらよいか困りはてた。とっさの思いつきで舟のダンブルの蓋を開けてその中に入ってもらい雨の止むのを待ってもらうことにした。

 このハプニングで胸の中に準備していた入口師への葬儀謝礼を渡すことを忘れていると、何日もしないうちにシスターを通して謝礼を要求してきたので、わざわざ仲知まで歩いて謝礼を渡した。

(4)、平成13年3月23日、江袋教会信徒楠本キヨ子さんから聞いた話。

―  野首出身の楠本キヨ子さんは昭和40年4月28日結婚後、江袋に居住するようになったが、そのとき江袋教会の宿老をしていた義父・楠本房吉は、江袋の大敷き網で働いていたので、彼女が江袋教会信徒から集金した毎月の教会維持費と日曜労働謝礼金とを仲知の日曜日のミサ後、入口師に届けていた。というのはその頃は江袋教会で日曜日のミサは立っていなかったからである。
 
 

入口師の時代に撮った江袋教会の写真、隣接している
建物が司祭館
―  黙想会などの時に入口師が江袋の司祭館に宿泊する時には、その前日、仲知の司祭館から「夜具を取りに来てください」と連絡があっていた。このときにも房吉じいちゃんに頼まれて仲知まで歩いて夜具を取りに行っていたし、さらに、江袋教会の教え方をしていた宮脇ハルヨさんが病気になったときには、これも房吉爺ちゃんに頼まれて仲知までホスチアを取りに行っていた。

(5)、 平成13年3月25日、米山の竹谷茂氏から聞いた話

 ―バイク

 入口師が米山教会に巡回した時のことである。巡回用のバイクのエンジンがかからないために仲知の我が家に戻ることが出来ず困っていた。そこをたまたま通りかかった竹谷茂氏が手伝うことになった。

 竹谷茂氏宅の前から米山教会までの約100メートルは丁度緩やかな坂になっているので、エンジンのかかりにくいバイクにエンジンをかけるには格好の場所である。入口師と2人で力一杯車を教会の峠まで押し上げると、師が単独で車に乗り一気に下って試走すること5回くらい繰り返して、やっとエンジンがかかった。
 
 

昭和53年11月ごろの米山教会付近の道。
入口師の頃の道はまだ道は舗装されていなかった。

 しかし、入口師は感謝することもなく、そのまま仲知に帰ってしまった。そしたら今度は彼が腰をやられて動きえんごとなって津和崎の診療所までの約1キロを地べたを這うようにして歩いた。

 診療所の看護婦に注射を一本打ってもらったら治ったので不思議に思った。彼自身が痛い目にあった体験をしていることからこの事故を覚えているのだと。

伝道学校と宗教教育
 
 入口師が仲知小教区に着任された昭和36年頃の仲知小教区は県外に集団就職を希望する青年男女が相次いだ。しかし、そのような社会的な状況にあっても師はそれぞれの信徒集落で信徒によって選抜された教え方候補者を、昭和37年には島本広子(仲知東)、竹谷シミ子(仲知西)、大水スミ子(大水)、田口春代(江袋)、赤波江フジエ(赤波江)、大瀬良サト(小瀬良)の6人を派遣し、昭和41年には山添ツイ(仲知東)、瀬戸ミサオ(仲知西)、赤波江洋子(赤波江)、尾上ヒサノ(江袋)、大水ササエ(大水)、竹谷静代(米山)、小瀬良愛子(小瀬良)の7人をそれぞれ鯛ノ浦伝道学校へ派遣している。派遣された13人は全員卒業し1人を除けば地元で4年間の教え方の勤めをした後、堅信の代母の役を果たしている。 

 しかし、昭和40年代になると、中卒者は「金の卵」としてもてはやされ、そのことは田舎の若い信徒にとって魅力的であり仲知小教区からも名古屋、一宮、大阪、を中心に県外就職を希望する若者が続出した。
 

第10回上中五島伝道学校生徒たちと記念写真
 
 こうした環境の中にあって、地味で責任の重い、しかも謝礼程度の現金収入しかない教え方に大人も子供たちも魅力を感じなくなって来た。それでも仲知小教区では他の小教区よりも教え方制度の必要性がある小教区なので、それぞれの集落で適当な候補者を選出し無理に願って送っていた。

 しかし、昭和45年には鯛ノ浦で開校出来る人員に満たず、仲知ではすでに選出されていたので上五島地区12回目の伝道学校は仲知で開校されることになり、仲知小教区の入口師が校長兼教師となった。師から半年間の養成を受けて教え方になったのは白浜静子(仲知西)、真浦タキヨ(仲知東)、道下貴子(米山)、赤波江まり子(赤波江)、谷口敏江(江袋)、大水文子(大水)、阿野裕子(船隠)の7人で、7人ともそれぞれの出身教会で4年間の教え方をして教会に奉仕した。

 しかし、日本の高度経済成長に従って、仲知小教区でも教え方候補者を選出できない状況となり、ついに昭和46年4月より江袋と赤波江を除く各集落(仲知西、仲知東、米山)の教え方は修道院のシスターたち(仲知は真浦スイ、真浦キク、真浦タシ、米山は保育担当者、転任して来た各シスターたち)にお願いしなければならなくなった。それぞれのシスターたちは保育の傍ら、惜しみなく奉仕を行って教会に尽くし、現在に至っている。

 これまでの仲知小教区で司牧された主任司祭は多くの巡回教会を兼任していて、司祭一人ではどうしても十分な信徒の要理教育を行うことは不可能に近かった。このため、歴代の主任司祭は長い間、小教区単位で教え方を養成し、養成された男女の教え方は信徒の要理教育に大きな貢献をして来た。このことは、長崎教区の歴史の中でも大きな輝きを放っている。

 そこで、これからは具体的に入口師の時代の10年間に教え方としての勤めを誠実に果たされた浜田(旧姓・島本)広子さん(54)と植村(旧姓・谷口)敏江さん(47)の場合を取り上げてみることにしてみたい。
 


 
(1)、浜田(島本)広子さんの場合
 
 

 略歴

昭和22年2月7日北魚目村仲知生まれ
昭和36年7月29日仲知教会で堅信
昭和44年5月1日結婚
現在は曽根小教区に在住

鯛ノ浦伝道学校

 昭和37年3月、仲知小中学校を卒業すると親からひょっこり「仲知の教え方志願者に決まってしまった。」という知らせを受け取った。その頃の仲知の女の子供たちは高度経済成長のあおりを受けて、大阪の紡績会社や島根県浜田市のA缶詰工場などに相当数集団就職していたので、彼女も職を求めて集団就職することを希望し楽しみにしていた。だから、彼女にとって教え方志願者に決まったことの知らせは非常に悲しかったが、どうすることも出来なかった。
家族も育ち盛りの子供を抱えていたので、生活がきつく、彼女を就職させて家計を少しでも助けてもらおうと希望していた。それで、家族にとっても彼女が教え方志願者に選抜されたことは辛いことであった。

 鯛ノ浦伝道学校には第8回女子部の伝道学生として同年5月入学し同年の11月15日卒業する。その時の入学生は仲知から5人、鯛ノ浦から2人、土井の浦から1人、曽根から2人、大曽から3人で全部で13人であった。教えは公教要理とか聖書を主に鯛ノ浦教会の浜口健一師、大曽教会の下川師、青砂ヶ浦教会の竹山師の3人が担当してくださった。祭服の作り方など、香部屋の仕事やオルガンの弾き方の練習、それに生活指導はお告げのマリア修道会の会員の谷中アキノさんであった。
 

上中五島地区伝道学校生徒たち
 
 期間が半年間と短くそこでの生活のことは殆ど忘れてしまったが、食事面の待遇が非常に良く毎日神父様方のようにお米のご飯をいただいていたことが忘れられない。というのは、その頃は仲知のどの家庭でも半麦飯が主流であって、米ご飯を食べることが出来るほどの生活の余裕のある家庭は殆どなかったからである。彼女の家も父は漁業をし母は土建業の浜田組に雇われて家族の生活を必死に守ろうと頑張って働いていたが、それでも生活はきつく家族の食事はいつも半麦飯であったし芋やカンコロ飯を食べることも多かった。

 鯛ノ浦伝道学校を昭和37年11月に卒業すると、直ちに仲知東の教え方としての任命を入口師より受ける。その際、師は私たち伝道生が伝道学校で何を教わっているのか関心があるらしく授業の内容の感想を何回となく聞かれたが、そのつどどう答えたらよいのか分からず、あいまいな返事をしていた。
 

入口師(その3)へ
 
ホームへ戻る                    
邦人司祭のページへ
inserted by FC2 system