使徒ヨハネ 入口 勝師

1961(昭和36)年〜1971(昭和46)年

 
奉仕の内容

 教え方の主な仕事は祈りの組と堅信組とに分かれていた小学生と中学生全員に公教要理を教えること、それに香部屋の仕事、ミサの時のオルガンの奉仕などである。それに仲知東の教え方にはこの他に、仲知が主任座教会であり、近くに修道院があるということで毎日ミサがあるので、香部屋の仕事とオルガンの奉仕は毎日のことになる。
 

初聖体記念 
 
 それに、クリスマスや聖週間の典礼など祝い日のミサ典礼も仲知ですることが多かったから、そのたびに特別に準備しなければならない典礼奉仕があった。また、ホスチア焼きの奉仕も仲知東の教え方の仕事である。だから、巡回教会の教え方より仕事量が多く忙しかった。

 入口主任司祭は綺麗好きで、几帳面な方であったのでその指導は厳しかった。祭壇のお花飾り、教会内外と教会信徒用のトイレの掃除、司祭がミサの執行の時に着る祭服やアルバの洗濯、ろうそく立てや香炉などの祭器類が金属製であればそれらをぴかぴかになるまで磨き上げること、祭壇に飾っているお花の水を入れ替えておくこと、祭服にシミがついているならばきれいに洗いアイロンをかけること、司祭用の大きなホスチアは形が整い透明であること、窓のサンなどには埃がたまりやすいので雑巾で時々拭き取る習慣をつけること、司祭が身に纏うアルバもしばしば手で洗濯しアイロンをかけることなどを事細かに具体的に指示し、時には検査されることがあった。

 祭器類が汚れていたり、ローソク立てにろうが流れていた時に、いつまでもそれをきれいに除去していなかったりするとうるさく注意していた。だから、慣れるまでの最初の半年間は苦労したし、午前中はこの教会の奉仕にほとんどの時間がかかり、家に帰るのはお昼直前であった。

 昼前に家に帰ることがあっても、母は土方に行っていて留守をしていたので、簡単に昼食をとると直ぐ休むことなく家の掃除と家族のために夕食の支度の準備をしていた。

 午後4時ごろにはまた教会に行き、教会のすぐ下にあった仲知集落の倶楽部で小学生と中学生に曜日を決めて、かわりばんこに稽古をしていた。子供たちにとっては稽古のない日があっても、教え方には休みはなく毎日小学生か中学生に教えていたが、この午後の部は午前の部よりも子供相手であったので楽しみであった。

 祈りの組の子供たちは小学生の低学年であったので、その稽古そのものが楽しかったけれども、年齢もそう隔たりのない堅信組の中学生ともなると、そう易しいことでなかった。
 悪さの盛りであるから時には冷やかされたりしてあまり言うことを聞かないことがあった。お隣の人とおしゃべりをしていて注意しても聞かない場合はやむを得ず青竹でこついたり叩いたりしていた。月に一度は自分で工夫して作った試験問題で模擬テストをさせ、堅信の前に入口師によって実施されていた堅信のテストに合格できるよう準備させていた。

 土曜日になると、どうしたことなのか赤波江の教え方の赤波江フジエが手伝いに来てくださっていた。一本松の教え方の竹谷シミ子は教え方になってから2年後に家族で京都の方へ移住して行ったので、1年くらいは彼女の代わりに一本松の子供たちも仲知まで歩いて来させて教えたが、後1年くらいは修道院のシスターが教えるようになって助けられた。

 月に1回は大人の稽古で日曜日のミサ後に教会で教えていたが、16歳の娘にとって何をどう教えたら良いのか分からず困っていた。教えることが仕事であり、奉仕であったから伝道学校で習ったことをそのまままとめて30分ばかり教えたり、聖書物語を読んで聞かせて過ごしていた。それが済むといつもほっとしていたが、それにしても仲知の大人の信徒は不平一つこぼすことなく聞いてくれていた。

打撲事故

 何時頃打撲事故に遭ったのか、その年代は分かっていないが、教え方をしていた時の教会からの帰り道、家の前の細い道で滑って転倒し捻挫すると言う事故にあった。その日は小雨が降り続けていたので、道は滑りやすい状況になっていたことを注意していなかったことから来る事故であった。

 病院には行かず、代わりに地元の信徒で整骨治療の心得のある山添愛次郎氏に家まで来てもらって治療をしてもらった。彼の指示に従い、卵とくちなしの実でつくった自家製の治療薬でシップをして治療に専念したが、歩けるようになるまで40日間かかった。この間に喜んだのが教え子の仲知の子供たちで、困ったのが入口師である。

 子供たちの稽古は2回程休み、その時には子供たちが喜んでいたが、責任感の強い教え方であった彼女は3回目からは子供たちを自宅に呼んで教えたので子供たちの喜びも長く続かなかった。他方、困り果てたのは清潔好みの入口師であった。10日もしないうちに「教会は内も外も汚れているよ。はよう来てもらわんと困る。」と伝言があった。

兄妹で可愛がってくれた入口師

 半年間は仕事にも、入口師の性格や司牧方針にも慣れていなかったから辛いことの連続であったが、慣れるに従って教え方奉仕もけっこう楽しいものとなって来た。

 特に入口師の賄をしていた入口京子さんとは年齢もそう離れていないこともあり、いろいろと付き合ってもらいお世話になった。外面的には厳格で厳しそうに映った入口師とも少しづつ溶け込んでいくに従って優しく接して下さるようになった。そして、いつしか妹か娘のような感じで「広子」と呼ばれるようになっていた。

 京子さんの居場所である賄部屋には本人から呼ばれてしょっちゅうお茶を飲んだり、食事のお手伝いをすることがあったが、その内1週間に1度くらいは隣の司祭館の食堂で神父様と3人で昼食をご馳走になった。
 

昭和42年頃の仲知教会司祭館

 また、食道に備え付けていたテレビを見せてもらうことがあった。その頃見せてもらっていたテレビ番組は相撲とアニメ映画であった。まだその頃の仲知にはテレビは普及していない頃であったので、稽古帰りの子供たちも部屋ではなく、窓の外から見せてもらっていた。

入口師の趣味

 入口師の趣味はそう多くない。几帳面で真面目な方であったからその殆どを教会帳簿類の作成、聖務日祷(司祭の祈り)、ロザリオ信心、説教の準備、霊的読書などに費やしていたようである。天気が良い時には手袋をはめて司祭館前にあった花壇の草むしり作業をしたり、愛車のオートバイの手入れをしたり、白い小さな犬をつれて真浦海岸を散策することや部屋ではテレビを観てくつろいでいた。
 
 

愛犬の犬と一緒に

まとめ

 一口で仲知での5年間の教え方を振りかえると、入口師より厳しくしつけられたことが良い思い出となっている。教会の掃除、子供の公教要理はサボることは許されず、ちゃんと決められた通りに真面目に果たすようにと教育された。入口師は子供達が仲知の未来の担い手であるとの考えをもっておられたので、その子供たちを指導する教え方には厳しい躾をなさった。

 次に、彼女には仲知での教え方としての5年間は「教会のことなら何でもしたし、またさせられた」という思いも強い。教え方奉仕は無報酬の奉仕であったが、神の教えを学び、多くの子供たちに恵まれ、入口勝、京子兄妹からも良くしていただいたので、少なくとも霊的には収穫のある充実した期間であった。

お別れ、

 入口師は平成10年4月から丸尾教会の主任司祭をしていたが、平成12年10月24日入院していた上五島病院で肝臓ガンで亡くなった。病名が告知されていなかったので本人も死の迫る3、4日前迄臨終が近いことを知らなかった。
 
 

 本人がそうであるから生前の師にお世話になった回りの信徒が師をお見舞う機会が少なかったのは無理のないことである。実は編者も入口師には聴罪司祭としてお世話になりながらお見舞いをしていない。師の病気を軽くみていたためであるが、これは濱田広子さんも同じである。

 平成12年末、賄いの京子さんに合った時、師が上五島病院に入院していると聞いていたのに、自分勝手に未だ大丈夫だろうと思って見舞っていない。その前に彼女は平成12年5月、大聖年記念の講演会が新魚目町立体育館で行われた時に入口師の存在に気付いた。そのときに声をかけようとしたが、かけなかった。後であの時に声をかければよかったと今反省している。

 その彼女にとって入口師との最後の出会いは入口師が平戸の紐差教会の主任司祭をしていた時であった。
 
 

紐差教会

そのとき彼女は上五島地区の婦人会で役職についていた関係で平戸方面に巡礼旅行をしたのである。巡礼の一行は入口師の紐差教会にも立ち寄ったので、早速彼女は教会直ぐ横にある司祭館へ行って師に挨拶をしようとした。

 ところが、そのとき師は仲知の時と同じように手袋をはめて司祭館近くの花壇の手入れをしておられた。挨拶する広子さんを見るなり名前で「あぁ 広子たい よく来てくれたね」と、とても喜んで下さった。この時の師の笑い顔が師との最後となった。
 

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