使徒ヨハネ 入口 勝師

1961(昭和36)年〜1971(昭和46)年

 
(2)、植村(谷口)敏江さんの場合

 略歴

昭和29年5月2日新魚目町曽根郷江袋生まれ
昭和42年7月30日仲知教会で堅信
昭和50年6月26日江袋教会で結婚
男の子2人と女の子2人の主婦
 
 

谷口康夫の家族。この中に植村(谷口)敏江さんが写っておられます。
1982年、江袋教会献堂百周年記念にあたっての記念写真

堅信

 谷口敏江さんは入口師から堅信の準備の稽古を受けて受堅しているので入口師についても思い出がある。
彼女は地元の江袋で宮脇はるよと尾上ヒサノ2人から教えを受けているが、堅信の直接の準備の稽古は尾上ヒサノであった。ヒサノさんの稽古は生徒が言うことを聴かないと容赦することなく、青竹で叩いていた。だから、谷口さんにとって彼女の指導は厳しかったという印象が強く残っている。

 尾上ヒサノさんの後を継いで彼女が江袋の教え方になると、主任司祭の入口師は週に1回江袋に巡回していた。そんな時、彼女はよく稽古が終わると子供たちに掃除を手伝わせていた。それは多分、綺麗好きの入口師を歓迎するための掃除であったのであろう。その入口師は掃除だけでなく、堅信の要理もきびしく指導しておられた。
 
 
江袋教会の受堅生と記念写真 3列目左中央が谷口敏江さん

 
米山保育所第一回卒園児 左側の奥に写っているのが入口師

 師は黙想会とは別に堅信式が近づいたりすると、よくすべての受堅生を仲知教会に集めて筆記テストをさせていた。親は同席していなかったが、そのような時に子供たちが騒いだりすると罰として米山の真砂石を取りにやらせていた。そのように命じられた子供たちがずるをして一本松の真砂石を拾って誤魔化そうとしてもそれは分かっていて、また罰として両手を上げさせてしばらく辛抱させるという罰を与えることがあった。また、模擬テストで成績の悪い子には教育のために「堅信は受けさせない」と脅すようなことも言っていた。
 
 
 

仲知教会で行なわれた堅信式
江袋の受堅生
 
 

問題だらけの伝道学校
 
 

1994年5月、青空保育所の運動会で、仮装行列が行なわれた時の写真。

 谷口敏江さんは昭和45年3月、仲知小中学校を卒業すると兄谷口建治と同様に新魚目町浦桑郷にある上五島高校に進学することを希望していたのでその試験を受けた。幸い同年2月に実施された入学試験に合格したので、制服を購入し当時入学1週間前に行われていた補習にも参加した。

 しかし、いよいよ明日が入学式という時に父・谷口康夫から「入学を取り止めて江袋集落の教え方になる勉強をするように」と命令された。

 そこで、彼女は反対することもなく、父の命令に従うことにしたが、内心は悲しい思いであった。高校の勉強は諦めることが出来なかったので佐世保の県立南高の通信教育を受けながら伝道学校の勉強をすることになった。

 この進学の件では彼女は父が上五島高校に娘を希望する通りに進学させるか、それとも取り止めさせて伝道学校の勉強をさせるか、入学の前日まで悩んでいたことを良く知っていたからその決定に従ったのである。

 この件でこの当時江袋だけでなく、どの小教区でも教え方候補者を選抜することは難しい社会環境になっていた。進学担当の仲知小中学校の先生は父兄たちに「どうして子供たちが進学を強く希望しているのに、その気持ちに逆らって伝道学校へ入学させるのですか」と言っていた。

 このような社会的な状況の中で定員に満ちる教え方志願者を確保出来なくなったので、昭和45年度の第12回女子部の鯛ノ浦伝道学校は仲知で開催されることになったのである。

 急遽仲知で開催されるようになったということもあるが、仲知での伝道生の勉強は仲知の倶楽部で入口師が教師となって行った。

 宿泊する場所は相応しい施設が見つからなかったので、やむなく入口師がバイク小屋として使用していた倉庫を改造して住居とした。しかし、もともと倉庫として造られた粗末な8丈ほどの建物であったから、当然のこと7人の伝道生の宿泊施設兼勉強部屋としては貧弱な住居であった。1人当たりに畳1畳程度の窮屈さであった。その中で彼女等は伝道学校の勉強も通信教育の勉強もしなければならなかった。
 
 

一番手前の建物が伝道学校となったが、もともと司祭館用の倉庫であった。

 お風呂は修道院にてもらい風呂であった。食事は炊事当番制にして代わりばんこにしていたが、月々入口師より提供されていた食費を使いすぎてしまい米が買えなくなり仕方なくだご汁をして当座をしのぐということもしていた。

勉強

 伝道生は教理の勉強を始め聖書、教会史、料理の研究、生け花、音楽それに佐世保南高の通信教育とたくさんのことを学ばなければならなかったので毎日勉強に追われて大変であった。

 狭くて窮屈な住居が勉強部屋もかねていたので、午後の自由時間でもゆっくりすることは出来ない日が続いた。それでもどうにか伝道学校も通信教育も両立させることが出来たのは本人の頑張りがあったことは言うまでもないけれども、7人の共同生活の支えあいがあったからである。

 7人の内2人は通信教育をしていなかったので他の友達の勉強に協力してくれた。たとえば、通信教育を受けている伝道生がレポート提出しなければならない時や、通信教育のテストなどがある場合には食事当番を代わりにしてあげたり、おしゃべりをつつしんだりして助けていた。他方、助けられた伝道生は伝道生で入口師からの宿題問題などで分からない個所を分かる範囲で教えていた。

 また、入口師の賄をしていた妹の入口京子さんがいる賄部屋には時々呼ばれてお茶をご馳走になったり、入口師のご馳走の残りをいただいたり、時には司祭館の食堂で神父様と一緒にテレビを見せてもらったりしていた。
 
 

仲知司祭館で同僚司祭とくつろぐ入口師
左側が入口師

 こうして、1人当たりの場所としてはわずか畳一枚程度しかない窮屈な住居であっても肌と肌の付き合いで信仰における友としての交わりを深め、そうして修徳を実践し結構楽しい伝道生活であった。
 

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