使徒ヨハネ 入口 勝師

1961(昭和36)年〜1971(昭和46)年
 

入口師が旧仲知教会前に設置した
聖ヨハネ五島像
 

第12回伝道学校卒業生への祝辞
           昭和45年10月27日 濱口種蔵
 
 
濱口種蔵氏

 秋の空澄み渡りたる今日のこの良き日、7名の皆さんにとりましては一生わすれぬことの出来ない記念すべき10月27日のこのめでたい日。

 晴れの卒業証書を手にされました7名の皆さんご卒業おめでとうございます。心よりお慶び申し上げます。顧みますれば皆さんは、4月にこの仲知伝道学校に入学され、昔は2年6ヵ月の長い年月で教理を勉強していましたが、皆さんは半年の間に学び終えなければなりませんでした。

 朝は5時半に起床し夜9時までうまず、たゆまず勉強修得に勤しまれました。即ち教理の勉強、聖書、聖会史、料理の勉強、生け花、音楽、通信教育などいろいろな勉強を身につけなければなりませんでした。その努力の結晶が今日実りまして栄えある卒業の栄冠を獲得されたのであります。これもひとえに指導神父様方を始め各有志方のご支援の賜物でございます。
 

 今日、この学校を巣立ちしていく皆さんの小さな胸には、これから先が案じられているようでございます。

 本当にこの教え方たるものの務めは、いかに崇高性を帯びているか、その任務はいかに重くかつ大いなるものであるか、その村の信仰発展か衰弱か、村が平和でいられるか、この教え方たる者の指導如何によるといっても過言ではないかと思います。

 かかる重荷を全うするために、これから先ここにご参列の皆様方に大いなる指導とご鞭撻の程をお願いいたします。

 終わりに各父兄にお願いしたいことは、この子供らがこの4年間の義務年限をつつがなく終えるためには見えざる力を仰がねばなりません。その手段と致しましては朝夕の祈りの後に、めでたしを3べんでも2へんでもただ1へんでも唱えてください。そうすれば、4年の義務をつつがなく終える事が出来るでありましょう。

 最後に、出て行く卒業生の皆さんのご健康と善戦に幸多かれとお祈りいたしまして、おめでとうの言葉といたします。

 補足、濱口種蔵氏は、半年間毎日1時間オルガンの指導に無報酬で通勤して下さいました。

教え方としての修業 5年間

江袋教会教え方 植村敏江


ロザリオ信心業に励む江袋の信徒たち
聖歌で奉仕する江袋の子供たち

 江袋の教え方になってからは、小学生と中学生の全員を祈りの組と堅信組とに分けて一人で教えた。勿論、ミサが江袋であるときには祭壇周りのお花の飾りつけと掃除、ミサの準備とミサ中の聖歌の奉仕、それに、その頃の司祭は入口師にしても浜崎師にしても、平日のミサを執行するため1週に1回江袋を巡回していたので、司祭の夕食の準備をするのも教え方の奉仕であった。

 子供の稽古の思い出といえば、やはり中学生が対象になっていた堅信組の稽古である。教会下の倶楽部が稽古場となっていたが、稽古に当たっては自分自身が受堅する時に当時の教え方の尾上ヒサノから厳しく指導されたのと同じように彼女も厳しくしつけた。

 時には子供が言うことを聴かない時には青竹でそのお尻を叩いたりすることがあった。子供の親たちからは、「いつも子供が騒いだり、言うことを聴かない時は叩いてもかまわない、遠慮なく厳しくしつけて欲しい」と言われ続けていたし、子供達も否応なく叩いて指導されることがあっても、翌日にはけろっとした顔で元気よく稽古に出席してくれていた。

 その頃、江袋の中学生が通学している仲知小中学校は、子供の数が多く、上五島地区中体連でバレーボールで優秀な成績を収めていた。クラブ活動が活発になっていた関係で下校の時間が遅くなっていたが、どんなに遅くなっていても教会の稽古だけは1人も欠けることなく、グループで参加していた。稽古場の倶楽部は窓ガラスが割れていたりしていて隙間から冷たい風が吹き込んでいた。そんな時には真冬であっても教会玄関前に並んで要理の勉強に励んだ。
 

手前の建物が江袋倶楽部 

 そんな江袋の堅信組みの子供たちが、特に男の子たちがいつも教え方の私に言っていたことは「自分たちは頭が悪いので筆記試験はいつもあまり芳しくない成績である。しかし、稽古だけはちゃんと真面目に出席するので、そのことをちゃんと入口神父様に伝えてよ。」 であった。

 その通り、子供たちは病気でもしない限り、みんな揃って元気に出席してくれていた。だから、江袋の受堅生は出席をとる必要は全くなかった。

 堅信の準備のためとはいえ堅信組みの中学生にとっては遊びたい盛りである。谷口さんは教え方とはいえ、当時3学年の生徒が一緒に受けていた堅信組の最上級生(中学3年生)とは年齢の隔たりがほとんどない。だから、子供たちの心理が手にとるように分かっている。
やかましく、うるさく育てるだけでは堅信の良い準備にならない。教師と生徒との人間的な触れあいも大切である。

 このような彼女なりの教育方針で、時には稽古をしないで直ぐ近くの山に子供たちと一緒に出かけ、山の幸であるクリの実、シイの実、山柿狩りをして遊び、大いに大自然の中で触れあい学習をしている。

 さらに、特に入口師は司祭の休憩所となっている司祭館の備品の整理整頓をしていなかったり、掃除していなかったりしていると注意していた。時には普段使用していない部屋であっても障子にチリが積もっていたりすると注意されていた。

 このような事情があったので、稽古の後に女の子を残して一緒に司祭館の室内と外回りの掃除をさせていたが、このときにも気分よく手伝ってもらうため、さらに触れあいのために入口師から司祭館をお借りしてお茶を飲んでいた。ときには子供たちと一緒になって子供たちが好きなカレーライスを作ったり、江袋の大敷網からもらった鮮魚を調理して一緒にいただいたりして楽しいひと時を過ごすことがあった。

 賄い奉仕は1週に1度であったが、それでも最初の内はどんな料理を作ればよいのか困ることが多かった。
なぜなら、当時江袋の宿老の田端修次郎氏は立串までバスで出かけて調理のいろいろな材料を準備してくれていたし、魚は魚で江袋の大敷網からその季節季節に捕れるイッサキ、イカ、鯛、ヒラス、ブリなどの高級魚がいくらでも届けられていたからである。
 
 

正面中央が当時宿労をしていた田端周次郎氏
 
 調理に慣れていない彼女がこれらの豊富な材料でおかずを4種類も5種類も作らなければならない。食していただく入口師はいつも彼女が真心から作ってくれた料理を不平一つこぼすことなく喜んで食べてくれた。喜んでもらうことは嬉しいことであったが、その師の感謝に応えるために手を抜くことが出来ない。だから、彼女にとって炊事仕事は1週に1回とはいえいつも緊張し、気を使う時であった。
しかし、気を使って調理に励んだのも入口師の半年間で浜崎師からは後でふれるように楽になった。

追悼 江袋の名物男 谷口康夫氏

略歴

大正14年4月23日江袋生まれ
大正14年4月25日洗礼、霊名はペトロ
昭和25年1月5日西田師の指導により結婚
 


谷口康夫氏
 
 
谷口康夫氏は江袋経営団の団長として活躍された。

 

 谷口康夫氏は植村敏江さんの父である。植村さんに入口師についての思い出を伺ったついでに父親の康夫氏について少しだけ聞いたので、ここにその内容を簡単に紹介しておきたい。

 谷口康夫さんは親しい人からは「康おんじ」と呼ばれていた。江袋経営団の団長を長年務めるだけでなく、新魚目町町議を2期務めるなどして江袋集落の経済面の功労者のお一人である。

 少年時代には司祭職を憧れ、西田師の時には仲知小教区の青年団会長をして西田師に仕えた。
普段は無口でおとなしい方であった。無類の酒好きで、お客や同僚と飲むと、人が変わったようによくはしゃいでいた。さらに、深酒になると無礼講となり言葉使いも荒くなっていたが、もともと性根がよかったから喧嘩して仲たがいすることはなかった。

 仕事の虫で仕事帰りには誰かが入れ替わり立ち代りして家に立ち寄り一緒に杯を交わして仕事の話をしていた。社交家でどなたとも等しく交わっていた。気前もよく大敷き網で捕れた魚などは良いものから人に分けていた。特に司祭や主任司祭に頼まれるといつもヒラスやイサキなどの高級魚を無料で上げて喜ばせていた。

 信心深い方であったので、飲んで酩酊状態であっても祈りの時間になると不思議と起き上がって「さあ、祈り」と言って子供たちを集めていっしょに祈りをしていた。
趣味は読書で暇があれば読書し永井隆の著作は愛読書であった。学校には行っていなかったが、独学で漢文なども勉強し経営団の漁夫に、先生が学校の授業で子供たちに教えるように黒板に漢文を書き、その読み方や意味の説明をすることが好きであった。

 昭和57年8月、食道ガンで立串診療所に入院。末期の病状であったことと手術の難しい個所であったことから病状は悪化していき同年12月に死亡。
入院中にも看護する家族に話すことは仕事の話ばかりで、子供や家族のことは殆ど話さなかったという。それと、死亡後江袋の大敷き網で寒ブリが大漁であったということが伝説になっている。

 晩年の康夫氏の頭は前方の部分が禿げあがっていたが、親しい人と会話する時に「オヨ、オヨ」と返事するのが彼らしい言葉になっていた。

入口師その6
 
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