使徒ヨハネ 入口 勝師

1961(昭和36)年〜1971(昭和46)年

 
今こそ信仰の証人になる時
江袋教会信徒代表 谷口康夫
 
 
江袋教会献堂100周年記念式典で信徒を代表して里脇大司教に挨拶する谷口康夫氏

 連立する新緑の山波を背景に、東支那海の大海原を前にたたえ、春の太陽がまぶしく映えて立つ江袋教会の創設百周年記念祭に、里脇枢機卿様を始め神父様方、町長さん、多くの皆様の御来席を頂いて記念行事が出来ますことを、心より御礼と感謝申し上げます。
 
百周年祝賀会会場となった江袋経営団事務所

 そして、百年に一度という、然も私の人生において再び巡り合うことが出来ない歴史的行事に際し、集落を代表して感謝の言葉を申し述べる光栄に浴したことはこの上もない感激であり、云いようのない温かいものが心の底からこみ上げて参ります。

 また、荘厳な堅信の儀式を兼ね得たことは、一層意義あることであります。今日、この教会で堅信を授かった子供達は、一生忘れることの出来ない記念すべき思い出となることでしょう。この教会創設百周年祭に、錦上花を添えた素晴しい出来事でした。これらのことも枢機卿様のおとり計らいと感謝申し上げます。

 文献、言伝によりますと、私たちの先祖は元治年間、大村藩幸ノ浦より信仰が自由になれる豊かな新天地として、当時の市右エ門・チエ夫婦が移住開拓したのです。そしてその子孫はたてよこに拡がりました。だんだん畠を耕作しながらほそぼそと生計を保って参りました。

 明治初期、信教の自由が認められました。2〜3名の若者が、長崎にて洗礼を授かったのです。内的に保っていた信仰の炎がいよいよ燃え上りました。そして教会建設へと、時は明治15年と思います。

 当時、この集落は戸数わずか17戸でした。道路も港もない時です。経済的にも大変貧困でした。この教会の材料等は、細い畦道を浜よりかつぎ運んで建立し、丁度百年を迎えたのです。大変なご苦労だったと感謝しています。木造で百年使われている教会は、長崎教区、日本の教会にはないと聞かされています。

 それは、先祖の信仰の熱意と努力と、代々の先輩達が教会を神の家、集落のシンボルとして大切に保存してきたことだと感謝しています。そしてこの教会で、多くの人が洗礼を授かり、ミサ聖祭にあづかり、罪の赦しを頂き天国へと旅立ったのです。

 今日もみんなこの教会に集まり、秘跡を頂きました。感謝を捧げ希望に燃えて、堅信の秘跡を授かったのです。何と素晴しい信仰の恵みでしょう。この教会は聖心に奉献された教会であります。今除幕されました聖心の記念像にもありますように、困っている人、悩める人、何かを求める人みんな私をたずねなさいと、キリスト様は両手を広げて待っています。

 この教会を訪ね、恵みを頂き、慰めを受け、明日への希望と平和と愛のカトリシズム的実践へと前進することをおすすめいたします。幾世紀もの永い間待ち続けたパーパ様のご来日を去年の2月に迎えました。この日を機に、今日本のカトリック教会は、受ける教会から与える教会へ、内的な教会から表に出た教会へと脱皮しつつあります。

 今こそ、信仰の証人となる時が来たのです。私たちもその一員であります。社会人としても市民としても、経済的にも文化的にも向上発展する時だと思います。この集落がいつまでも明るく平和で、信仰の尊い遺産を子孫に伝え、信仰伝承の地として守り、多くの神学生とシスターの召し出しにあづかり、使徒職的努力に協力することをお誓いいたします。

 また、各方面からお寄せ頂きました善意の方、望郷の情熱に郷土を忘れず、この行事に参加された方、今ここでこの祈念祭に共にあづかる方々のご厚情に接しまして、集落信徒を代表し厚くお礼を申し上げます。

 最後に病状の快復をお待ちになって御来島下さいました枢機卿様を始め、皆様方のご健康とご活躍とご多幸を祈念いたしまして、感謝の言葉といたします。
 

1982年3月24日
「江袋教会百周年記念誌」より
 
追悼

江袋の信仰の証人谷口正子さん
             平成12年7月17日死亡
 
 
後列右が谷口正子さん

 編者が仲知小教区在任中の7年間に病気か事故で亡くなった方は全部で52人であったが、平均すると1年間に7人の物故者が出たということになる。信徒数約600人で高齢者の多い小教区であることを考慮すると、この数字は誰しもうなずけるのではないでしょうか。

 仲知小教区には信心深い生涯を送った物故者が多く、その臨終とお葬式とに関った司祭の私にはどの人のこともそれぞれ懐かしい思い出がある。その中から今回は江袋教会の谷口正子さんを追悼したいと思います。

 「先ず、谷口正子さんの遺族の方に心よりお悔やみ申し上げます。
 マリア谷口正子さんは肝臓ガンのため上五島病院で7月17日逝去されました。享年59歳でした。
私が6年前仲知小教区に着任した時夫婦とも同じ肝臓の病気で、すでに半病人でした。その後もお2人は入れ替わり立ち代り上五島病院に入退院を繰り返しておられましたが、2年前にご主人の正人さんが先に天国へと旅立たれました。

 ご主人がガンの再発で再入院された時は奥さんの正子さんの体調が比較的良好であったので、ご主人が天に召されるまでねんごろにベッドに付き添いながら同病相憐れむ心で誠心誠意看護に尽くされていました。夫を天国に見送った後、正子さんは上五島病院に2回、3回と入退院を繰り返していましたが、江袋でのミサがあるときは急勾配の坂を息を切らしながら上って必ずミサに参加しご主人の冥福を願うミサを依頼していました。

 しかし、少しづつ体力が弱り教会のミサに出席することが難しくなると、1メートルくらいはある聖母像を家庭祭壇の直ぐ横に安置してそれを眺めながらお祈りすることを何よりも喜びとしておられました。

 ところが、今回の病気の再発から来る入院(平成12年5月)は治る見込みが全くない状況でした。そのことは本人が1番良く認識しておられましたのでしょう。死を覚悟された正子さんは良い最期ができるように司祭から病人の秘跡を受けることを希望されました。それから7日後についに愛する二人の娘さんに見守られながら天に召されました。本当に神を愛しすべてを神に委ねた正子さんの死は安らかなものでした。
 
 
上下 谷口正子さんの葬儀ミサ風景

 ところで正子さんの場合、ガンとの闘いは6年間にも及びました。これまでの6年間、病気に伴なう苦痛、死の不安、孤独、絶望との闘いはどんなに正子さんを苦しめ悩まし続けたことでしょう。普通ならガンが治らないならば不機嫌になったり、落ち込んだり、腹をたてたりすることでしょう。中には前途を悲観して自殺する方も少なくない。

  しかし、正子さんは決してそのような態度は微塵も示さず、いつも明るく平静の心を持ち続けておられました。彼女を見舞った私などはいつも病人である彼女から逆に励まされていました。

 どうして正子さんはそんな心境になっていたのでしょうか。
それはお見舞いに来て下さった方を悲しませないようにするためだったかもしれません。また、病気のことを暗く考えてしまうと落ち込んでしまうので、無理にでも自分の心を引き上げるようにしていたかもしれません。あるいは日頃の祈りに応えて神様が病気の試練に耐える勇気と力を与えていたのかもしれません。この点で私には思い当たることがいくつもあります。

 それはたとえば、彼女のご聖体への深い信心、司祭への尊敬心、年金生活ながら生活費の殆どをミサの謝礼金に捧げ、そうすることを趣味にし夫や先祖の冥福を祈り、かつ、司祭の生活を助けていたこと、体調が良い時には聖体訪問をひんぱんになさっていたこと、聖母マリアの信心をすることをいつも心がけておられたことなどが思い出されます。私はこのような彼女の日頃の闘病生活と信仰生活を側で見ていていつも感心していたし、また、尊敬もしていました。彼女と同じように信心深い人はここ江袋にまだ何人もおられますが、彼女は間違いなく私たちが誇りに思う模範的な信者の一人でした。

 そして、彼女のこのような信仰心こそが、どんな病気の苦痛の中にも心の平静さを失うことがなかったことの真の理由であったのだと確信いたします。

 新約聖書にこんな言葉があります。
「今しばらくの間いろいろな試練に悩まされなければならないかも知れませんが、あなたがたの信仰はその試練によって本物と証明され火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりもはるかに尊くて、イエス・キリストが現れる時には、賞賛と誉れとをもたらすのです。」
(1ペトロの手紙 1、6〜7)

 天国へ召された正子さんの心境もきっとこの聖書の言葉と同じであるのではないでしょうか。天国では試練との闘いにおける信仰の実りとして魂の救いを受けておられると確信いたします。苦しみは信仰の神秘です。神は正子さんを病気の試練という苦しみのどん底に突き落としながらその苦しみの中で彼女の信仰を磨いておられたのでしょう。
 正子さんどうぞ天国で安らかにお眠りください。」

(平成12年7月19日午前11時、江袋教会での葬儀ミサの説教から転載)

宗教教育 

 入口師の在任期間は10年間と長かったこともあって、それだけに信仰面で強い影響と感化を受けている信徒は多い。

 現在師の時代に堅信を受けて師から厳しい指導を受けて育った仲知小教区の信徒はすでに40歳を超えているが、彼らに当時の思い出を聞くと、異口同音に師の要理の指導は厳しかったと言う。
どのように厳しかったのであろうか。

ここでは山添スマ子さんと赤波江千恵子さんの場合を考えてみよう。

(1)、山添スマ子

 師から指導を受けて堅信を授かった仲知の山添スマ子さん(45)は「堅信が近づくと師から仲知教会に受堅生は全員集まり筆記試験を受け、それに50点以上の成績でないと合格できなかったので公教要理一冊どこから出されてもよいように問答形式になっている文章を必死に暗記していた。堅信の準備の稽古は一本松の教え方瀬戸ミサオさん(49)が一本松にある倶楽部で教えてくださったが、彼女の指導もこれまた厳しく、子供たちは青竹で両手を叩かれなくてもよいように、近くにあった椿の木によじ登って一心不乱に要理の暗記に努めていた。」

「仲知小教区史」より
 
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