使徒ヨハネ 入口 勝師

1961(昭和36)年〜1971(昭和46)年

 
 
(2)、赤波江千恵美さんの場合。
 
 
左端が赤波江千恵子さん

 昭和12年3月25日生れ、北松浦郡宇久町出身の赤波江(旧姓・西山)千恵美さんは昭和39年12月、仲知診療所の職員として仲知に居住するようになった。
 
仲知教会真下の建物が仲知旧診療所

 すでに仲知には昭和31年に町立の診療所が開設されていて治療に当たる医師の宿泊所が完備されていたが、それまで8年間はまだ病人のお世話をする看護婦すらいなかった。そこで、当時の新魚目町の小倉町長が看護婦の彼女に依頼して仲知診療所に赴任してもらったのである。彼女は赴任した時、母と長男と一緒に診療所に常住することになった。

 その彼女が入口師と関わるようになるのは赤波江の信徒と結婚することになったことによる。赤波江の信徒で当時新魚目町の町議をしていた赤波江嘉一さんから「看護婦さんも旦那がいた方が良いだろうから」と今の旦那を紹介してくれた。それは昭和39年の暮れのことである。

 再婚になることからカトリック信徒と結婚するには彼女がカトリック信徒になることが必要である。彼女自身これまで仲知の信徒の生活を外部から見てきて、その教えは分からなくても信徒の生き方に惹かれるところがあった。だから、洗礼を受けてカトリックの信徒になることをむしろ喜んだ。

 そこで、彼女は翌年の早々から1週に2回入口師から直接結婚の要理だけでなく、洗礼の準備の稽古も受けることになった。

 入口師は彼女を喜んで歓迎し要理を教えて下さったが、師は「あなたが結婚できるには司教様の許可がいるから少し時間がかかる。でも多分許可は下りるでしょうけど、洗礼を受けて信徒になり、立派なカトリック信徒として結婚生活を送るにはしっかりとキリスト教の教えが分かっていなければならない。」 こう言われて毎週2回、曜日を決めて要理の指導を受けるようになったが、洗礼を受け結婚できるような準備が出来るまでには11ヵ月もかかった。

 約11ヵ月の勉強を教えてもらうことで入口師には大変にお世話になったが、師の印象は几帳面で、真面目で、繊細でかつ慎重派の司祭であった。仕事には常に誠実でざーとしたことが出来ない、そんなタイプの司祭であった。

 彼女の方も勉強が少しづつ面白くなって来たので毎週きちんといつも司祭館を訪れると、師はたいてい司祭館の自室で勉強をしておられるか、司祭館の周りでロザリオ信心しているか、花壇の手入れや草むしりしているかであった。時には可愛い子犬を連れて近くを散歩している時もあった。

盲腸炎で入院 昭和44年1月12日

 結婚以外に師と関わったのは看護婦としてであった。
師が仲知におられた時はかなり太っておられ、いつも健康であったが、昭和44年1月初旬に一度だけ盲腸炎で立串の診療所に入院されて盲腸の手術をされた時がある。その頃の師はかなり太っておられたから手術を担当された医師は盲腸を見つけるのに時間がかかっただけでなく、その手術に失敗してしまった。二回も手術をして入院が長引くことになったが、その間に熱が出てその治療のために点滴を打つことが数回あった。

電話

 その頃の仲知ではまだ電話は普及していなかったが、くるくる廻す式の旧式の電話機が司祭館と診療所にあった。
二つの電話は甲乙で結ばれていた関係でどちらかに電話がかかるとどちらにも鳴っていたので、診療所にかかっていた分の電話の音で迷惑をおかけしていたのではないかと何時も気をつかっていた。

120人を超えていた受堅者 「仲知小教区史」より

 入口師のことを良く知っている信徒は45歳から60歳の世代の信徒であるが、その信徒の方々からよく耳にすることは神父様の頃は児童数が多くて、祝祭日のミサは何処の教会も信徒席の半分以上を子供が埋め尽くしていた。

 3年に1回定期的に行われていた堅信もいつも100人を突破する受堅生で、その式場となっていた木造の仲知教会は受堅生とその家族だけで満席で一般の信徒の多くは外で立ったままミサに与っていた。

初聖体事件

 入口師の時代の初聖体は暁と青空保育所のシスターが準備のけいこをしていたが、初聖体の時期の3月頃になると、親が主任司祭に初聖体をさせて下さるようにと願うという習慣であった。

青空保育所園児と一緒に記念写真の入口師
 ところが、昭和40年の初聖体の時の親たちは、この習慣を守らないで陰で「いつ神父様が自分たちの子供の初聖体を授けてくれるのだろうか」と囁きあっていて、それが主任司祭の耳に届いた。主任司祭の入口師は怒り「今年の初聖体はさせない」ということにした。この主任司祭の決定を耳にしたお母さんたちは非常に心配して、役持ちであった尾上フサ、島本栄子、浜口ナセの3人が初聖体をさせて頂くための許可を受けるために仲知の司祭館に参上した。

 丁度その時は司祭館改修工事の時で、入口師は玄関の直ぐ近くにある賄部屋で執務を執っておられた。島本栄子が玄関から「入口神父様」と二回繰り返して声をかけてみた。何の応答もない。しかし、神父様の靴は玄関にあったので、お部屋に居られるのかもしれない。そこでまた島本栄子が「神父様」と呼びかけたが、今度も何の応答もない。そこで、3人は諦めて家に帰った。

 3 4日後のこと、仲知の浜口ナセから江袋の尾上フサに「神父様が機嫌がよかごとあるよ。今のうちに会いに行こうや。善は急げたい、はいせろ、米山にミサばたてに行っているから米山迄急いで歩こう」 3人は米山迄歩いて入口神父様に面会したら神父様はニコニコして迎えてくれた。「神父様今日はお願いに参上しました。子供たちの初聖体をよろしくお願いいたします。」「まあ、いいでしょう、シスター方のおかげで準備の方は良く出来ているので、あなたがたにさしつかえがなければ明日(3月7日の日曜日)してよい」。お母さんたちが感謝して帰ろうとすると、神父様が「私も今から仲知に帰ろうとしている。よかったら私の車に乗りなさい、でも足はきれいに拭きなさい。」と言って下さった。3人は近くにあった草原で簡単に靴の汚れを落としてから感謝の内に車に乗せてもらうことにした。

 親にとっては初聖体が翌日に決まったのは嬉しいことであったが、当時初聖体は大きな喜びで各集落単位でご馳走をする習慣でその席には主任司祭を招待していた。
ここでは米山のお母さんたちの場合を取り上げてみよう。
 
 

暁保育所開園当初 昭和37年
上の拡大写真
 
暁保育所卒園生 昭和38年

 米山のお母さんたちは初聖体の宴会を山田エス子さん宅でするようにし、その買出しに初聖体が決まった当日、タクシーで立串まで出かけた。そして、肝心の料理は自信がなかったので入口師の賄いをしていた暁保育所のシスター方に依頼して作って貰う事にした。

 しかし、招待している入口神父様には内緒にしてもらった。そこで、入口師がお出の時にはお母さんたちはあたかも自分たちが作ったふりをして神父様を迎え、実際に作ったシスター方はシスター方であくまで知らんかふりをして来たが、笑いをこらえるのがしんどかった。たぶん入口師もうすうすこの演技をみぬいていたのではないか。

隠れキリシタンへの司牧

 かつての仲知小教区の司牧範囲内での隠れキリシタン集落は、仲知を中心にすれば地理的には南側に位置する大瀬良集落、宇野開き(小瀬良)、宇野向え(小瀬良)、小串開きの隠れキリシタンの集落郡と北側に位置する池尾集落とがある。

 北側の池尾集落の隠れキリシタンの戸数は、わずか20戸ばかりの隠れキリシタンの集落で、隠れキリシタンの集落としては小さな集落であるが、宇戸姓を名乗る人が多くお互いに親戚関係にある。そればかりか先祖は北側の宇野開きで宇野姓を名乗る隠れキリシタンとも同じ先祖で、共に明治の初年、平戸から迫害を逃れて来た隠れキリシタンであり、彼らとも近い親戚関係にある。

 このような事情により、戦後、昭和20年代後半までは北側の隠れの池尾のキリシタンの人々は、ご誕生などの祝い日になると、南の宇野開きのキリシタンの集落まで約13キロの山道を歩いて行き、そこで密かに深夜12時から祝われていた荘厳なご誕生の典礼に与っていた。

 これまでどの宣教師も邦人司祭も隠れの多い南の隠れキリシタンへの布教を試み、その結果、ある程度の宣教成果も現れていたが、北側の池尾の隠れキリシタンへの布教は殆どてつかずの状態であったようである。

 ところが、池尾の隠れキリシタンのリーダーであった宇野勇吉の長男宇野金太郎が米山の信徒竹谷キエさんと昭和23年2月10日結婚し、カトリックへ改宗した頃から結婚を結んでくれた西田師を始め、入口師、浜崎師がそれぞれの仕方で布教へ取り組んでいる。

  ここでは池尾の隠れキリシタンの典礼行事、祈り、組織、生活、津和崎の村の人との関係、それに入口師の池尾の隠れキリシタンへの宣教状況を宇野金太郎さんに聞いてみた。

米山教会信徒 宇野金太郎氏

略歴

大正12年2月29日北魚目村津和崎郷池尾生まれ
昭和23年2月9日西田師より洗礼を受ける。
昭和23年2月10日赤波江教会で結婚
昭和23年8月10日山口司教より仲知教会で堅信
8人のお子さんは全部男の子
 
 
中央の方が宇野金太郎氏

宇野金太郎家の先祖

―  宇野金太郎家の4代目宇野金六はキリシタン信仰をしているということで平戸の牢獄に入れられて迫害された。狭い部屋に30人ものキリシタンと一緒に入獄されたうえ、食料も十分でなく、栄養失調で牢屋の中で死亡。

―  平戸生まれの彼の父宇野勇吉は平戸から迫害と差別待遇から逃れるために新天地を求めて上五島に移住し、移住先の上五島では池尾と宇野開きに分かれて住むことになった。その時既に結婚し長男宇野一成が生まれていた。今から90年前(明治43年)のことである。

 この池尾に来ると、津和崎の地主から原野を借りて開墾し芋や麦を植え付けるという百姓で、どうにか雨露をしのぎ子供たちを育てる一方、先祖代々から受け継いでいる隠れの信仰を大切に守って来た。
 

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