使徒ヨハネ 入口 勝師

1961(昭和36)年〜1971(昭和46)年

 
宇野勇吉のカトリックへの入信
 
 
左手のくぼんでいる場所が津和崎郷で、その左側全体が池尾集落
瀬戸脇集落跡から眺めた池尾
現在、池尾集落は過疎化が進み約7所帯程度になっているが、
写真上では左手に数件が確認できる。

 池尾の隠れキリシタンの役職(ジサン)についていた宇野勇吉さんがカトリックへ復帰したことは原則として神からのお恵みであるが、それ以外にも人間的に考えられる理由がいくつかあるようである。
宇野勇吉の長男宇野金太郎氏から聞いたことにより改宗に至った動機をまとめると大体次のようになる。

(1)、カトリック夫婦の模範

 晩年の勇吉氏がよく口にされていた言葉を金太郎氏の奥さんのキエさんは覚えておられる。
 「こんな風に体が弱り動ききらんごとなって来た。きっと私はキエから神様のもとに送らるっとぞ。 今まであなた方夫婦の信仰生活を見ていて感じることはカトリックは組織と子供への教育がしっかりしている。だから、子々孫々その信仰は継承されることでしょう。

 しかし、私たち隠れは組織も信仰の継承も曖昧模糊としているからどうなるものか。隠れだから止むを得ないが、このままじゃ隠れキリシタンは廃れていくだけで将来性がない。だから、このまま隠れの状態を続けていてもどうもならんごとある。」

 このようなことをキエに話していたので、金太郎・キエ夫婦は一度カトリックの司祭にじいさんのことで来てもらった方が良いと考えたが、その時の仲知の主任司祭は入口師であった。

(2)、入口師との対話

 金太郎・キエ夫婦が入口師にこのような事情を話して相談したところ、とても喜んで下さりさっそく来て下さった。最初入口師は是非ともカトリックへ改宗させなければとの意気込みでカトリックの教義の素晴らしさを論理立てて説明した。
 しかし、勇吉じいさんもまけじとばかり隠れキリシタンを養護し一歩も入口師に譲歩する気はない。隠れの役職について何十年も長い間隠れキリシタンを導いてきたこれまでの自負心もあった。だから、勇吉さんは隠れの信仰を養護して「カトリックこそ元は私たちと同じように隠れであったのに、その隠れを捨ててしまったのはあなたがたのほうではないのか。」と主張していた。
 
 

敬老者の皆さんと後列右から4人目が入口神父様

 
 

入口師

 入口師は10回以上熱心に通い続けて、カトリックを論理的に説得することに勤めたが、途中から説得することよりも対話に重点を置き勇吉さんの話に耳を傾けるということに切り替えた。このことが相手の心をつかむ結果となりカトリックへの改宗につながって行った。
いずれにせよ、勇吉のカトリックへの復帰は入口師が熱心に池尾の自宅に通い続けて対話をしたことによる。

 宇野勇吉の洗礼は家族の話によると、死の約3ヵ月前であったという。そこで、編者は仲知教会の洗礼簿で探してみることにした。

 家族の方がおっしゃることが真実ならば、きっと入口師は几帳面な司祭であったので間違いなく記録しているに違いないからである。

 確かに家族が証言している通り、勇吉の洗礼は死の約3ヵ月前である。正確には昭和37年3月15日自宅で受洗、霊名はペトロ。代父は米山の白浜竹次郎であった。

 入口師が記録している死亡台帳によると、臨終は同年7月20日であるが、その10日前には入口師は自宅に呼ばれて勇吉に最後の告白、病人の秘跡、聖体、さらに堅信の秘跡を授けておられる。

 勇吉の妻であった宇野ツワも「夫がカトリックになり立派なお葬式をしてもらって大往生したのであるから自分もカトリックになってから死にたい」ともらしていた。この彼女の意志を尊重し家族は臨終の時に再び入口師に来ていただいて洗礼を授けてもらった。
勇吉の死後2年後のことである。

池尾隠れきりしたんの典礼

 隠れキリシタンには先祖から伝えられた教えを子孫に伝承するために司祭の代役として帳方、水方、聞き役の役職があり、それぞれ役割を分担していた。

 池尾の隠れキリシタンであった宇野勇吉の役職名を土地の人は「じさん」と呼んでいる。水方と聞き役は別にいたというから勇吉が「じさん」として果たしていた勤めを聞くと、多分「じさん」は帳方の呼称であったのであろう。

 帳方である「じさん」は、お帳と呼ばれる教会歴やオラショ、コンチリサン「天地始之事」を記した言わば教義の書物で教え諭す役柄で、3役の中で最も重要な役である。
勇吉の次男であった金太郎は彼の家で隠れの祈りと典礼の集会が隠密に日曜日やお祝い日の度ごとに行われていたことをよく覚えている。

 「日曜日になると、カトリック信徒がしているように仕事を休み池尾のキリシタンはみんな彼の家に集まっていた。じさん役の父が教会歴である日繰りを見ながら次の日曜日は聖体の祝日、その次の日曜日は三位一体の祝日というふうに集まっている隠れキリシタンに知らせしていた。

 現在カトリックで祝っている祝日はなんでもあったが、ただ1週間早く祝っていた。
キリストの受難を悲しむ四旬節が始まる灰の水曜日のことを「はんのいった」と言っていた。

 この日曜日の密かな集会のときでなければウラショ(オラショ)や稽古は特別にしていなかった。密かな集会であるから唱える祈りも決して声を出して唱えない。声を出して唱えておれば子供達もその祈りを自然と覚えることが出来たでしょうけどそうしなかった。いやしてはいけなかった。しかも唱えているウラショも日本語でなく、すべてラテン語であったからなおさらのこと知らない。

 聖母マリアへの祈りは「アベマリア ガーシャベーナ ドーメン レーコ・・・」という文句から始まっていたが、その祈りは集会のときに33回これも声を出さないようにして唱えていた。カトリックでしているロザリオ信心と同じような信心であった。

 このような隠密に行われていた隠れキリシタンだけの集会では、いつも外部にしていることがばれないようにと、子供たちは近くに住んでいる津和崎集落の人が来ないか見張りをさせられていた。

 ところが、不思議なものでこのような時に限って村の人が来ていた。そんな時には知らない顔をしてお茶でも飲んで愉快に過ごしているような真似事をしていた。それも知らない村の人は「池尾の人はなぜ日曜日によく寄り合いをするのか。」と聴かれることがよくあった。

 そんな時には「普段は畑仕事で忙しくて日曜日にならなければゆっくりと隣近所に住んでいる隠れキリシタンとお茶を飲むことが出来ないから」と言い訳を言っていた。いつまでたっても何も分からない津和崎の村人は「池尾のひとは何時もよかことばしよっとね。」と感心していた。

お帳と呼ばれる教会歴と御用もん

― 教会歴は隠れキリシタンにとってその信仰を継承していく上で重要な役割を果たしていたから桐の木で作った箱に大切の保管していた。

―御用もん

 イエスさまが十字架を担ってカルワリオに上って行くときにある家の側を通る。その家ではたを織っていた女が、いかにも苦しそうなイエスを見かけて同情し、「あと3寸織るならば切ってイエスの御足を脱ぐってくれるばってな」と思った。ところが、そのように思った瞬間になんでもない布が御血に変化した。

 この布きれのことを池尾の隠れキリシタンたちは「宝もん」と称して大切に保管していたが、子供時分には見せてはくれなかった。

 宝もんといっても実際の素材は布きれであったから何十年も経つと自然と腐食しぼろぼろになってしまう。そこで、彼の子供時分であったと思うが、池尾のキリシタンたちの男と立串のキリシタンの男が立串に全員集まって1昼夜の内に作らなければならないという決りで、この宝もんを大急ぎで作っていた。最初は糸の材料である綿を糸にする作業から始まり、それから糸を機(はた)で織って布きれに仕上げていく。この作業は神聖な行為であるから絶対に女はその作業場に居てはいけないことになっていた。

差別待遇

 今日では津和崎の村の皆さんと池尾のキリシタンとの関係は全く良好で、共栄共存して平和な地域つくりに励んでいる。しかし、戦後までは隠れキリシタンであるということだけで村の人から差別されることがあった。
具体的にどのような差別であったのであろうか。平成13年3月26日午前11時、宇野金太郎・キエ夫婦の自宅を訪問した時にお聞きしたことを箇条書きにしてみた。
 
 
空から見た津和崎港

― 宇野金太郎・キエ夫婦は熱心なカトリック信徒である。しかし、米山の教会に行くにはどうしても津和崎の村を通らなければならない。夫婦が子供を連れて村を通ると、理解のある人は「毎日曜日教会に行って神様を礼拝することはすばらしい。頭が下がりますよ。」と言って下さる方もいたし、現在でもそのように言って下さる方がおられて感謝している。

 しかし、意地の悪い人がいて私たちが村を通りかかると陰でわざと聞こえるような声で「アーメン、ソーメン」とか「居付き人」と言ってからかう人がいた。
そのような差別が頻繁に続く時には村はずれの山道を通って教会に行っていた。

― 池尾のキリシタンたちが津和崎に移住してきた頃のことであるが、村の主だった人から「村の直ぐ近くに住むことは出来ん」とやかましく言われた。それで、止む無く池尾のキリシタンは生活していくのに不便である事は分かっていながら、村から遠い灯台の所に隠れるようにして住み着くようになった。

― 宇野金太郎の少年時代のことであるが、その頃麦や芋の農繁期になると、自分の家も忙しいのに村の郷長や班長から強引に言いつけられて、その方々の個人の家の芋や麦の収穫の仕事をただ働きさせられていた。心では悔しくて悔しくてしようのなかったが、村八分にされるのではないかと後の仕打ちが怖かったので、黙って我慢して手伝っていた。

 家に帰ると親父に「どうしてこんな差別されるような所に移住してきたのか」と文句を並べて鬱積したストレスを発散していた。しかし、父は息子の私をなだめて「どがんするかよ、平戸でもキリシタン征伐で隠れキリシタンは地元の人から差別され居られなくなってここに来たのだから」
この親父の言葉にはさすがに返す言葉がなかった。

― 池尾のキリシタンは米山の信徒と同様に津和崎の地主から土地を借りていたから、昭和25年に農地の法律が改正されるまでは収穫物の一部を地主に供出させられた。この物納のことを地元では「こく」と呼んでいた。

― 昭和25年農地法の改正後であっても津和崎の有力者から「お前たちが居住している住宅地も農地もすべて津和崎郷の共有財産である」ということで住宅地も農地も買わされた。ところが、役場の人が調査してみたら彼の住んでいる住宅も農地も国の財産であることが判明した。

 しかし、先に土地代として納めていたお金は返してはくれなかった。そればかりか、役場からは国の所有地であるからということで、さらに土地代を取られるという始末であった。いわゆる二重の土地代を支払わされることになった。

― 前の島のオゴの採取

 戦後になってやっと池尾の人も前島でのオゴ(当時高値で売れていた海藻)採取を津和崎の郷民と一緒に出来るようになったが、売上金は津和崎郷民の半分しかくれなかった。
 

 

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