使徒ヨハネ 入口 勝師

1961(昭和36)年〜1971(昭和46)年
 

 

移動信徒

 戦後、仲知小教区内に居住している信徒の移動状況を正確に伝えることは出来ないが、少ない資料と戦後の信徒の移動状況をよく知っている信徒にお伺いして調査した範囲内であるが、出来うる限りの情報を提供したいと思う。

 仲知小教区の長い歴史の中で信徒の移動は常に間断なく続いているが、信徒の大移動は3回あった。既に記したように明治の後期に上五島の僻地に住んでいた仲知小教区の信徒が新天地を求めて上神崎(平戸)と田平に移住したのが第1陣の大移動であり、昭和の初期新田原を中心に長崎、佐世保へ移住したのが第2陣の信徒大移動である。
それから昭和30年代から昭和40年代の集団就職でこれが第3陣の信徒大移住である。

 第3陣の信徒移動は仲知小教区においては江袋の信徒である浜口五朗八氏の職業斡旋により早くも昭和21年から始まり、中卒の数名が島根県浜田市にあるあけぼの缶詰工場に就職している。

 昭和25年、それまで深刻な不況に落ち込んでいた日本経済は、朝鮮戦争で息を吹き返した。米軍の膨大な特殊需要(特需)やこれに国際的な軍需景気も加わり、繊維・金属を中心に特需景気がおこり、鉱工業生産は昭和25年頃には戦前の水準に回復した。

 昭和26年以降、政府は基礎産業に国家資金を積極的に投入し、電力・造船・鉄鋼などの産業部門は活発に設備投資を進めていった。そして昭和27年には、日本は国際通貨基金・世界銀行に加盟した。

 そして昭和30年から昭和32年には「神武景気」と呼ばれる大型景気をむかえ、日本経済は急速に成長しはじめた。
戦後、絶対量が不足していた食糧は、昭和30年以後、米の大豊作が続いて食糧需給は好転した。
こうした情勢を受けて昭和31年の「経済白書」は「もやは戦後でない」と記した。

 この頃、後で詳述するように仲知小教区から浜田市あけぼの缶詰会社を中心に、愛知県内の紡績工場、自動車工場へ集団就職する若者が相当数出るようになった。

 しかし、しばらく不漁続きであった漁業もこの頃から少しづつ景気を取り戻していくようになり、中卒男子には奈良尾、浜串、青方、阿瀬津の巻き網船の乗組員として働く場所があった。しかし、上五島圏内における企業の吸収力は限られていた。

 入口師が仲知小教区に着任された昭和36年は丁度日本は高度経済成長の大波が押し寄せた時代で、中学を卒業して都会へと集団就職していく若者が続出した。

 こうした若者の都会への移動によって北松浦郡小値賀町瀬戸脇と野首の集落は過疎状態となり、ついに瀬戸脇の信徒6戸は小値賀へ昭和45年集団移住し、野首の信徒も昭和46年住み慣れた島を去る悲しみを胸に福岡県小倉市、北九州市、行橋市の新田原などの新居住地に散って行き悲しい教会閉鎖へと追い込まれた。

 しかし、幸いなことに奈良尾、青方、阿瀬津などを母港とする遠洋巻き網船が盛況を極めるようになった。このため手っ取り早い現金収入を求めて遠洋巻き網船に就職する若者が続出し、せめて男子の場合はいくらか都会進出の歯止めになった。

 しかし、昭和50年頃からは基幹産業の遠洋巻き網船の漁が不振となるに従って都会へと移住する若者と家族が続出するようになり、少しづつではあるが、仲知小教区の信徒人口減少と過疎化は深刻となっていき、今日(平成13年4月現在)では長崎教区でも人口減少と過疎化の最も著しい小教区の一つになっている。

 仲知移動信徒の恩人・濱口五朗八
 
 
濱口五郎八氏

略歴

 明治41年10月7日、浜口勇吉とセツの末っ子として北魚目村曽根郷江袋に生まれる。
明治41年10月13日、仲知小教区の初代主任司祭であった中田藤吉師より野首の個人の家で洗礼。霊名はミカエル。

 仲知尋常小学校卒業後の大正11年4月、兄濱口種蔵氏が入会していた北海道トラピスト修道院に入会するが、
病気のためにトラピスト修道院から帰り、教会に奉仕する。
昭和11年6月4日中五島の奈留島教会で黒島教会の信徒中村シズと結婚。

 戦後から特に30年余りも長崎県内特に出身地の仲知と、奥さんの出身地である黒島の中卒者と青年の県外就職の斡旋をする傍ら、子供たちの就職先の会社の寮長として20年以上お世話をしてカトリックの子弟の信仰教育に多大な貢献をされた。
 
 
仲知教会で行なわれた姪の結婚式に出席された濱口五
郎八氏写真中央で、背広姿の人。

浜田市の缶詰会社に就職した信徒の信仰生活

 編者は平成12年9月に出版した「仲知小教史」の幾つかの章で他小教区で活躍した信徒の紹介をしたが、ここでは昭和21年頃から昭和45年頃まで浜口五郎八の世話で浜田市のあけぼの缶詰会社に就職した信徒が、どのような仕事に携わり、また、浜口氏よりどのような生活指導と信仰の導きを受けたのかを本人に直接電話でお聴きした。

 なぜこのような企画をしたかというと、現在仲知小教区に居住している50歳代から60歳代の女性の信徒の多くが、仲知小中学校卒業後か2 3年後に浜口五郎八氏の世話で浜田市のあけぼの缶詰会社に入社し、彼から直接生活指導と信仰の導きを受けておられているばかりか、40年が経過している今でも彼に深く感謝の思いを胸深く納めているからである。
 
 
 
入口師、島根県浜田市のあけぼの缶詰長崎寮(1965.9.25)を訪問し
た時の記念写真。左端の方が当時寮長をしていた濱口五郎八氏

 
入口師、野首の浜田師と一緒に島根県浜田市のあけぼの缶詰会社
に就職している郷土出身の信徒を訪問した時に記念写真。
拡大写真
中央が入口師
左は野首の浜田師

 
前列左端が濱口五郎作氏

1、仲知教会信徒 水元ミテルさん(60)の場合。

 水元(旧姓・竹谷)ミテルさんは昭和30年仲知小中学校を卒業して5年後の昭和36年4月、浜口五郎八の世話で浜田市のあけぼの缶詰会社に入社する。そのとき仲知から5、6人の信徒と一緒に入社したが、彼女が一番年下であった。

 会社での仕事の内容は、イワシやアジを缶詰にする製造工程の中で一番最初の仕事で魚の頭落とし作業であった。
会社の直ぐ近くに寮があり、そこに約100人ほどの従業員が寝泊りしていた。殆どが長崎県内から就職して来たカトリック信者であったが、その内最も多かったのが仲知と黒島の信徒であった。

 教会は会社の寮から歩いて10分ばかりの比較的近いところにあったが、日曜日にはその教会からスペイン人の司祭が寮生のためにミサをたてに来て下さっていた。
寮の二階は大部屋になっていたが、浜口氏が会社の幹部の了解を得てその部屋をカーテンで仕切り仮聖堂を造り、ミサの会場としていた。

 浜口氏はオルガンを弾くのが上手で、クリスマスなどのお祝い日が近づくとよく寮生を集めて聖歌の稽古をしていた。また、仮聖堂には祭壇をしつらえ、祭壇を覆う聖布には彼の手による刺繍が施されていた。

 昭和41年になると結婚のために退社し出身地に帰郷することになったが、その前の年の昭和40年には仲知の主任司祭の入口師が会社を訪問してくださり、会社や寮の生活環境の現場を視察して下さった。入口師は私たちが浜口寮長の指導のもとに信仰に裏打ちされた規則正しい生活をしていることをご自分の目で確かめて大変喜ばれていた。その前にも会社訪問をしてくださった記憶があるが、それは何時頃の訪問であったか分からない。

2、江袋教会信徒 瀬戸スミエさん(62)の場合

 瀬戸スミエさんの場合は直接には浜口五郎八氏から誘われていない。昭和29年中学卒業後、3年ばかり家の農業の手伝いをしていたら既にあけぼの缶詰会社で働いていた同郷の山口芳江さんたちから「あけぼの缶詰会社は仕事もきつくなく、そこで働いている人もほとんどカトリック信徒であり、教会も寮の中にあるから心配ない」と勧められて入社する。

 仕事の内容はイワシやアジを缶詰にするための頭落としの単純な仕事であった。

 寮長の浜口五郎八氏は一見するとおとなしそうであったが、こと信仰面においては仲知の入口師と余り代わらないほど厳格であった。たとえば、日曜日はもちろんであるが、日曜日以外に会社が休みになった時には平日のミサに連れて行かされていた。夕の祈りも2階にあった仮聖堂に寮生を集めて毎日唱えさせられていた。

 しかし、浜口氏は信仰面だけでなく、寮生のふれ合いを兼ねて津和野巡礼に連れて行って下さるというやさしさもあったし、修道会のシスターにお願いしてくれてお花の稽古もさせて下さった。

3、仲知教会信徒 竹谷比佐子さん(62)の場合

 昭和13年仲知生まれの竹谷比佐子さんは昭和28年4月仲知小中学校を卒業すると、しばらく地元の信者の家に雇われて子の守をしていた。

 やがて山口県長門市にあった缶詰会社に入社して2年ばかり働いていると、会社が倒産になり、家に帰っていたら、浜口五郎八氏が寮長をしているあけぼの缶詰会社の社員募集があったので仲知のほかの人と一緒に入社することにした。昭和30年の頃である。

 会社での仕事の内容はイワシやアジの頭落としをするという単純な仕事であった。ミカンの缶詰を製造する時にも製造過程の最初の仕事でミカンの皮むき作業をした。

 仕事の谷間には会社が栽培していた桃山の草取り作業や手入れをしていた。それでも仕事がない時には故郷に帰り次の仕事の通知が来るまで家の農業の手伝いをしていた。

 生活指導をしていた浜口五郎八氏の信仰面の躾は厳しく、早出出勤を除けば平日にも毎日教会の早朝ミサに出席させらていた。ミサに出席するとゆっくり出勤の準備をすることが出来なかったので、寮生はみんなミサが済むと大急ぎで寮に帰っていた。
 

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