邦人司祭司牧のページ

メルキオール・岩永 静雄師顔写真

1936(昭11)年〜1940(昭15)年
  
 
 1936(昭11)年3月、古川師は8年間の司牧を終えて長崎市神の島教会へ転任され、メルキオール・岩永静雄師が第5代主任司祭として着任された。
 
 うら若き古川師の手によって仲知に再度開校した伝道学校は岩永師に引き継がれたが、師は伝道学校のさらなる充実のためにはご自分が先頭にたって教えるだけでなく、人徳、学徳ともそなえて、信徒にも尊敬され、評判の良い教師が必要だとの立場をとられた。その教師に抜擢されたのが江袋出身の濱口種蔵氏である。

 濱口氏は北海道トラピスト修道院で沈黙の内に祈りと徳の実践を通して修業を積み上げ、また、学徳の面においてもラテン語で聖書の研究、聖歌の練習、オルガンの実習、哲学 、神学の研鑚をしておられていたから伝道学校の先生として最適任者であった。

 伝道学校の校舎は修道院の姉妹たちがちょうど新築したばかりの修道院に引っ越したときであったことから、院長様に許可をいただいて改造工事をして旧修道院を使用することになった。

 まず、男子の教え方の養成から始め、養成期間はこれまでの3年から2年に短縮した。
 勉強の内容は青砂ヶ浦伝道学校のものとほぼ同じであった。

岩永師の思い出 濱口ナセさん
浜口夫婦
濱口種蔵・ナセ夫婦

 

 岩永師について親交があったのは濱口種蔵氏であるが、本人は老齢のため長崎市内に引っ越して仲知を留守にしている。

そこで、私は彼の妻である濱口ナセさんに岩永師について、その頃の教会の状況について伺った。
 ナセさんによると師は非常に厳しい司祭だった。しかし、外見の厳しさに似合わず心 は優しさに満ちていた。

その優しさは師自身の人柄からにじみ出る優しさであったが、それを言葉で表現することは苦手としていた。師の優しさを彼女が体験したのは結婚のときである。
 
 彼女には心ならずも果たせなかった夢が2つあった。6年間の瀬戸脇教会教え方を勤め上げた後、佐世保の缶詰会社に就職するという夢、事情が許せば修道会に入会して教会と社会に奉仕したいという夢であった。

 これらの夢は教え方をしていた当時から決して矛盾することなく心の中に奥深く生き続けていた。

 ところが、この自分の思いとは反対に教え方を卒業する半年前あたりから結婚の申し込みが殺到した。最初 のうちは全く結婚の意志はなく、どんな人からの申込みも断りつづけていたが、ちょうどその頃小漁師をして経済的に家庭を支えていた父が胃腸を患い、働くことが困難になってきた。
 
 近い将来に自分の進路をどうするか決めなければならないときであった。その時点で彼女には佐世保の会社に入社することより 、修道院入会の方に心は傾いていたが、どの修道院を選ぶかについては迷っていた。そこで、実兄の国作に思い切って相談してみた。すると、 意外にも「病弱の父やわたしを残して遠い所に行ってしまうのか」と言われ、しばらく就職のことも修道院入会のことも見合わせることにした。

 そのような心理状況のとき母の従姉妹になる江袋の本島忠助が「岩永師より結婚の申し込みの許可を受けて来た 。神父様も強く二人の結婚を推薦しておられる。」と言って現在の夫である濱口種蔵を紹介してきた。

 そのとき彼女は濱口種蔵氏とは年齢の差が大きすぎるのではないかとの不安があったので2 3日熟考し、父母とも良く相談してから結婚の承諾の旨を伝えた。

 もちろん、結婚の意志を伝えたといっても主人となる種蔵のことを良く知っていたわけではない。彼については祝祭日に仲知修道院に泊めてもらっていたときなどに 、伝道学校や司祭館あたりをスータン着用で歩いている姿をちょとだけ見かけるくらいのものでしかなかった。そのようなとき、彼について「修道院から戻って来たとばいね。どうして、戻ってくるようになったのだろうか。」とほんの一瞬思っただ けの程度であって、結婚相手として関心を持ち、付き合っていたわけではない。

 それどころか、当時は特にキリシタンの集落では若い男女の個人的な交際について許されていなかった。2人だけで会ったり、話したり、交際することはまだ罪悪視されていた。恋愛なども許されずキリシタンの内には見合いすらなかった。

 ただ一つだけ忘れないのは野首教会での聖霊降臨ミサの前日の夕方、種蔵から聖歌の稽古に誘われ、2人で野首までの山道を歩いたことがある。

当時祝際日の前夜には必ず仲知の修道院の会員と各集落の男女の教え方が一同にそろって、翌日のミサの聖歌の練習をしていたが、そのとき種蔵はオルガンを弾きながら聖歌を指導するため岩永師に同伴して野首に来ていた。

 さて、婚約してから間もなくのこと、私たちの結婚を望んでいた岩永師が私の家にひょっこり現れ、病臥にふしていた父に聖体を届けてくださった。

 話によると、仲知から山添秀雄氏の漁船を雇っての病人見舞いであった。このようなことは特別なことであり、そのとき彼女は自分たちの結婚を喜ぶあまり 、その喜びの気持ちを病人見舞いという方法で表したのではないか、と思った。
 
米山から見た野崎島、正面右端に見えるのが瀬戸脇集落跡

 
また、毎日曜日ではないが、海上が凪になると女友達を誘い合わせて一本松まで小船で渡り、そこから仲知まで歩いて仲知のミサに与っていたが、ある日曜日、神父様がミサの後わざわざ私の側に来て「何をしに来たのか。」と言われた。
 
 当時神父様といえば多くの信徒にとって高貴な存在で、気軽に話ができる身近なかたではなかった。それでもそのときばかりは優しく声をかけられたことのうれしさに「なんばおっしゃるとですか。ミサ拝みに来たとですよ。」と生意気にもやり返した。

 当時、結婚の前には約2 3ヵ月教え方から教理の指導をしてもらい結婚についての心構えの準備をし その後司祭からテストを受けてそれに合格すると、近親関係のない証明の「三代調」を提出し、日曜日の説教の後に二人の結婚の広告をしてもらい、3週間教会のうちにその公示がなされ、異議の申し立てがなければやっと結婚式ができた。
しかし、私たちの場合は岩永師の計らいでその結婚の準備は免除された。

 
旧瀬戸脇教会。教会のすぐ後ろに見えるのが司祭館
              瀬戸脇教会跡
教会から見た瀬戸脇の芋畑

結婚式はもちろん岩永師の司式で、1940(昭和15)年7月2日、瀬戸脇教会で行われた。証人は江袋の田端喜八と瀬戸脇の瀬戸与一で、披露宴は夫種蔵の実姉の真浦タセ(仲知)の家でほんの身内だけ集まり質素に行った。当時の披露宴は主任司祭も出席しない身内だけで質素に行うということが教会の習慣であった。

 このように私たちの結婚に深く関わってくださった岩永師は結婚後1ヵ月もしないうちに転任となり、恩師と別れる悲しさで主人も私も涙が止まらなかった。

 しかし、神様は聖霊によって、人のとるべき道を教え示してくださる。青年時代の修道女への憧れがかなわなかった代わりに、8人の子供の中から2人を修道女に召してくださった。主人も私も恩師岩永師と師を通して導かれた神に感謝している。

 
伝道学校時代 設立当初女部屋
仲知伝道学校教師時代の濱口氏(前列左) 創立当初の「女部屋」後は仲知伝道学校となり、その後、青空保育所の敷地となったが、近年老朽化して現在は運動場として利用されている.

 
 
 

山口愛次郎司教着座 1937(昭和12)年

所属 長崎教区長(1937〜1969)
出身 1894年 長崎市橋口町
叙階 1923年12月 司祭叙階 ローマ
    1937年11月 司教祝聖
活動
1924年、鯛ノ浦教会主任司祭として司牧にあたる。
1926年、長崎公教神学校教授として神学生教育に専念。
1930年中町教会主任。
1936年、鹿児島教区長に任命され、鹿児島へ赴任。
翌年9月15日、健康がすぐれないため引退していた早坂長崎教区長の後任として着任。

 第二次世界大戦中、1943年には日本海軍要員としてインドネシアに赴任し、現地信徒の司牧にあたり、終戦を迎える。

 帰国後は浦上・中町両天主堂の再建、長崎公教神学校の建設、男女の修道会を招来する。邦人修道会の育成にも意を注ぎ、汚れなき聖母の騎士聖フランシスコ修道会の創立、聖碑姉妹会の統合などを果たす。20の小教区を設立して新教会を建てられ、54人の教区司祭を叙階された。

 また、ザビエル渡来400年、26聖人列聖100年、信徒発見100年などの行事を主催し、1962年から1965年までは第2バチカン公会議にも出席し、会議の決議事項にもとづいて信徒の信仰の刷新に尽くされ、社会的な活動として長崎県公安委員長などの奉仕も果たされた。

 1959年、大司教に任命される。
32年に及んだ在任中に仲知小教区に合計10回公式訪問、そのたびに盛大な堅信式を執行し信徒の信仰育成のため貢献してくださった。

 1969年に引退。妹の献身的な奉仕に助けられながら旧大司教館で余生を過ごしておられたが1976年9月24日帰天し、赤城聖職者墓地に埋葬された。

 在任中の仲知小教区の堅信の状況は以下のとおりである。

    

 
 
年月日
場所
受堅者数
司式者
主任司祭
昭和14年8月18日
仲知教会
  91
山口司教
岩永静雄師
昭和16年8月17日
仲知教会
 102
山口司教
畑中栄松師
昭和19年3月26日
仲知教会
 101
梅木兵蔵師
畑中栄松師
昭和23年8月10日
仲知教会
 113
山口司教
  西田忠師
昭和25年8月24日
仲知教会
  61
山口司教
西田忠師
昭和26年4月12日
仲知教会
  30
山口司教
西田忠師
昭和27年11月23日
仲知教会
 108
山口司教
西田忠師
昭和30年3月23日
仲知教会
  97
山口司教
吉浦勉師
昭和33年8月23日
仲知教会
  93
山口大司教
田中千代吉師
昭和36年7月29日
仲知教会
 122
山口大司教
入口勝師
昭和39年8月23日
仲知教会
 129
山口大司教
入口勝師
昭和42年7月30日
青砂ヶ浦
 123
山口大司教
入口勝師
仲知小教区堅信台帳より
 
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