メルキオール・岩永 静雄師

1936(昭11)年〜1940(昭15)年
 
 
ミサ司式
岩永静雄師(右)

 
 
岩永静雄師着任 歓迎の言葉
 昭和11年 仲知伝道学生
 最も敬愛し奉る岩永神父様

 神父様はこの仲知小教区の辺鄙な片田舎に特にこの破れ聖堂にお出でくださいまして、ご自由をしのがれますことを思いますと、私どもはもったいなく、そして、恥ずかしくてなりません。

 神父様がこの仲知教会にお出でくださることを聞きまして、私どもは本当に満足しております。何となれば、現在私どもの先生はかつて神父様とご一緒に勉強されたお方だと聞きました。
そして、一番の仲良しだったこともお聞きしましたからです。

 神父様、私たちはいたってつまらない者ばかりです。神父様を父として仰ぐのももったいないほどでございますが、どうかこれから、私どもに「お父さん」と呼ばせてください。神父様の足にすがり付いて頑張ります。
 私どもはいつも腕白で、不真面目で先生を困らせています。そんなときには蹴飛ばしたり、怒鳴りつけたりしてください。

 私どもはつまらない者ですが、一生懸命立派な伝道師になることを心から誓っています。
 校則を守り、心を新たにして勉強に修徳に励みたいと思います。

 神父様、何とぞ、私どものこの決心がいつまでも揺らぐことがなく続きますようにご指導ください。
 先ずは、簡単ですが一同に代わりまして、歓迎の言葉といたします。
 
今はすでに懐かしい思い出になってしまいましたが、米山教会への巡回ミサに出かけようとすると、西の海上に夕日が輝いて見えました。あまりの美しさに引かれてデジタルカメラで撮影を試みましが、いつでも失敗ばかりでした。しかし、その時の情景が思い当たりましたので、公開してみました。写真は二枚とも平成13年3月末、仲知教会をバックにして撮ったものです。

公式初聖体  感謝の言葉
         昭和12年8月23日 山添行男

  最も敬愛し奉るべき岩永神父様。

 私どもは長い年月の間公教要理を勉強し、その試練を終え幸いにして今日のこのめでたい日を迎えることが出来ました。

 考えますれば、私どもは昨日が昨日まで飽くことを知らない悪戯子供でございましたが、今日は全く心を入れ替えた立派な清い子供となりまして、今朝、大いなる喜びと熱愛を持ってイエズス様をお受けいたしました。

 私どもは心身ともに喜悦でいっぱいでございますが、これを言い表す言葉を知りません。ただ、まずき言葉をもって喜びと感謝の意を述べようと思います。
 
 ああ、神父様、私どもは何をもってお礼を申し上げてよいのか分かりません。
 この暑い最中にやれ試験だとか、黙想だとか、それも神父様のお心通りいきますれば、まあいいものの、先ずお情けの及第。一から十まで神父様のお手を労したものでございます。

 しかし、感謝の意として何一ついたすことが出来ませんのでせめてもの感謝の印として、今後大人しく真面目に信者らしい子供となって神父様を喜ばせることを堅くお約束いたします。

 教え方様、私どもは教え方様のご熱意とご忍耐とには、うたたか感泣あるのみでございます。

 実に長い年月毎日うまずたゆまず時には祈り、あるいは私どもの無思慮に嘆くという愛情厚きご指導、何とお礼申してよいのやら、その術を知りません。それに引き換えわがまま勝手な悪戯は忘恩の沙汰でございます。

 ああ、神父様、今日のこの記憶すべきめでたい日をどうして忘れられましょう。

 私どもは大きくなってそれぞれ散り散りばらばらとなることでしょう。しかし、何処に行って も何処で死んでも神父様と教え方様への今日のこのおめでたい日のご恩は、決して忘れることはなく、永遠に感謝することでありましょう。

 どうか今後も相変わらず私どもが、 ただいま持っている清い心をいつまでも失うことがないように、神父様よ、教え方様よ、お祈りくださらんことを一同に代わってお願いいたします。
 今日のよき日、初聖体児童に代わってまずいながら一言をもってお礼の辞に代えておきます。
 

堅信式の感謝の言葉

      昭和12年8月25日 山添行男
 最も敬愛し、愛慕し奉るべき教区長様。
春の野に咲く花のようにただいま私どもの心はキリスト様の兵士となって、大いなる喜びと大いなる奮発心とに打ち震えております。私どもは教区長様にこの打ち振るう心の喜びと敬意を表すためにここに集まりました。

 私どもは4 5日の間晴れ渡る好天気に恵まれましてイエズス様の軍人となるべく準備を急ぎました。一昨日はイエズス様は甘いものとして私どもの胸にお降りになり、今日はイエズス様の軍人さんになってしまいました。
 イエズス様より強い大将は何処にもいません。
今日、私どもはその強いつよい軍人イエズス様の決死隊となりました。

 教区長様、ご覧くださいませ。
 強い信心とそして清い空気が聖堂は言わずもがな、野にも山にも、海にも小舟さえも充ち満ちているではありませんか。
 私どもの胸にはイエズス様の勲章が光っています。

 教区長様はこの勲章を授けるために長崎神学校からはるばる海を渡って中五島にお出でになり、それからまた次から次へと海を渡られてこの辺鄙なそして小さな教会にお出でくださいました。

 私どもは教区長様の船が見え出す何時間も前から真砂の上に立って待ちわびていました。
そして、そのお姿を見ましたときには私どもに聖霊の賜物を呼び下して下さるお方だと思ってうれしくてたまりませんでした。

 教区長様のお顔は汗でいっぱいでした。
私どもをキリストの兵士にならせるため、かくまで汗を流してお出でくださいました。
 
 教区長様は長崎神学校、そしてまた、いろいろな信心書を読ませてくださる偉い方であらせられます。
 私どもは一生教区長様のご恩を忘れません。
そして、キリスト様の軍人として一生信仰のために戦います。聖母マリアを愛します。そして、大人になったら、否、もう兵士になりましたから明日からでも仲知聖堂の建設に着手して大きな大きな聖堂を建てイエズス様を住まわせます。

 教区長様よ、
 感謝のためここに集まりました私どもの小さな心を汲み取ってくださいませ。

 長崎の神父様、奈摩内の神父様、教区長様とご同伴し加勢してくださいましてありがとうございました。
 
 仲知教会にキリストの軍人さんたちが現れました。今日この日、永遠に忘れられぬこの日に受堅者一同に代わってこの喜びを私どもの教区長様にお捧げいたします。

司祭銀祝記念 伝道学校生徒 修女院
司祭銀祝記念、兄弟と共に
(1961年3月19日)
中央が岩永静雄師
仲知伝道学校の生徒 
前列左より3番目濱口種蔵氏、
4人目 山添行男氏
セシリア修女院の会員
(昭和10年頃)
前列中央 真浦ソノ院長

 
 
詳しい解説

1、授堅者は浦川和三郎師

 この頃の長崎教区長は早坂司教であったが、早坂司教は健康状態があまりよくなかったためでしょうか、この年の8月に上、中五島地区の堅信式をなさった方は司教総代理であった浦川和三郎師であった。

2、受堅者数はなんと180人

 昭和12年8月25日、仲知教会で行われた堅信式の受堅者総数は180人であった。わずか60坪の小さな仲知教会での堅信式は すし詰め状態での堅信式となり、教会内に入れたのは多分受堅者とその代父母、受堅者の家族、聖歌隊ぐらいのもので、多くの信徒は聖堂内には入ることなど出来なかった。

 好天気の続いた真夏日の堅信式のことである。汗かいたのは浦川司教総代理だけでなく、すし 詰めで堅信式に参加したすべての信徒も同じ汗を流しながらキリストの兵士、軍人さんになるという意気込みと感動と喜びの内に式典に参加したであろう。

3 、旧教会

 感謝の言葉の中に堅信式が挙行された仲知教会のことを「破れ聖堂」といっているのはなぜか。
 この頃の仲知教会はシロアリで雨漏りがするだけでなく、老朽化が進んでいてからである。

 

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