メルキオール・岩永 静雄師

1936(昭11)年〜1940(昭15)年
 
2、浦川和三郎司教について一言
 早坂司教時代の仲知小教区堅信台帳を見ると、司教在任期間の約10年間に仲知小教区で5回、堅信式が行われているが、その内、3回の堅信式の執行者は早坂司教ではなく、司教総代理をしていた浦川和三郎師である。

 後で、仙台教区司教となった浦上出身の浦川司教は「浦上キリシタン史」、「キリシタンの復活」、「五島キリシタン史」などの著述家として知られる。
 ここではこのような好著を残してくださった司教様のご心労に対して心からの敬意を表すために「五島キリシタン史」のあとがきを紹介しておきます。

五島カトリック信徒に告ぐ

 「皆さんは300年以上の光栄ある歴史をもっておられる。皆さんの祖先には、信仰強固な徳の高い、しかも謙遜で忍耐深く火のような宣教熱に燃えた純尭公(すみたかこう)や九州唯一の聖人たる青年殉教者五島ヨハネ(日本26聖人殉教者の一人)のような大人物がおられ、明治初年にも皆さんの祖父母たちは、信仰のために家を追われ、財を奪われ、算木に乗せられ、青竹で叩かれ、十手をくわされるなど、ありとあらゆる苦しい、堪えがたい拷問を加えられながら、毅然として屈せずあくまで粘り、ふんばり通し、もって五島キリシタンの名を世界に高められたものである。

 有史以来、カトリック五島人の中にその名を世界の隅々まで轟かせているのは、おそらく殿では純尭公、庶民では聖ヨハネ五島、及び明治初年の殉教者たちのみではないだろうか。
 
聖ヨハネ五島の殉教を称えて聖母行列 2000年8月15日

 皆さんは何時になっても、こうした栄えある祖先の遺徳を忘れず、雨の明日にも風の夕べにも語り継ぎ、聞き伝えて以って自らを戒め、自ら励み、「この祖先にしてこの子孫あり」と言われえるよう務めなければならない。

 なお、長崎県庁側なり、五島元住民の方々は、相変わらず皆さんを「居着き者」として軽視しておられることは、前に掲げた「一覧表」を見ても明らかである。

 なるほどかの時から34、5年なるので、今日では少なくとも県庁側にはあれほどの認識不足はないかもしれないが、それにしても昭和12年に長崎県庁から発行された「長崎県案内」331ページには「313年前の寛永年間、キリスト教の禁令により信徒この島に流された者多く 、その子孫今なお存在している」と、麗々と書き付けてあるくらいである。

 いずれにせよ、このような汚辱は必ずこれを雪(そそ)がなければならない。
 しかし、それは皆さんの腕一つ、心がけ如何によることである。

 道徳は別として、お金や学問がものを言う今の世の中であるから、たとえ「居着者」であるにせよ、誰であるにせよ、相当のお金と学問がありさえすれば、必ずみなの頭は皆さんの前に下がるのだ。

 皆さんは神のみこころのため、カトリック教会の名誉のため、皆さんが居住している地域がより良く住みやすくなるため 是が非でも飲酒を慎み、奢侈(しゃし)を戒め、節倹(せっけん)実行してそれ相応の貯蓄をして、子供の教養を高め、何処から見ても他に勝ることはあっても劣ることのない堂々たる五島カトリック信徒とならなければならない。
 
 もとより、清貧は美徳である。
信者たるものは、断じて金銭の奴隷であってはならない。
 私たち五島カトリック信者は宝を天に蓄え、常に天を仰いで、その宝のあるところに心をおかなければならない。
 それは主イエスのみ教えであって、私たちがいつになっても忘れてはならない所ではある。
 
 しかし、皆さんの立場を考えると、どうしても奮励一番相当の地位を築かなくては、ただ皆さんの不名誉となるのみであるし、また、カトリック教会全体の名折れともなる。

 五島カトリック信徒の皆さん、
忙しいときも躓いたときも祖先の残した各各たる歴史の跡を忘れず、しょっちゅう(いつも)かれらの熱烈な信仰を仰ぎ、絶えず感激の情に胸を躍らせ、腕打ちさすり、力足踏み鳴らして奮起してください。
 「精神一倒何事かならざらんや」である。

昭和31年1月18日
ミニ解説

 1、
 文語体の文章に慣れていない方のことを考慮して、必要と思われるところは私が勝手に口語文にしました。下線の個所も勝手に挿入しました。

 2、
 浦川司教様の文章は歴史的事実を正確にかつ文学的にも語彙が豊かで言わんとすることを的確に表現しているが、少しだけ、元住民に対しての見方が厳しいようにも見える。
それは明治時代、今日では想像できない差別と迫害とを受けつづけてきた五島キリシタンのことを考えるとやむをえないことかもしれない。

3、 
 私は上五島若松町出身、昭和47年3月19日、長崎教区司祭になって県内の小教区で28年司牧し、その内、縁あって新魚目町丸尾教会に10年間、同町仲知教会で7年間司牧してみて感じますことの一つは今は元住民からの差別待遇はないし、信徒もその地域内で市民権を確保しながら行政のサービスを感謝しつつ明るい街つくりに自分の出来る範囲で協力しているということである。
 
 仲知200年の歴史も、この地域の歴史と共有する歴史であり、其の点で、過去において元住民からの差別経験があったとしても、現在は信徒も元住民もお互いに手と手を携えて少しでも住みやすい地域社会を目指すべきではないかと考えている。

 それよりも、今日私たち信徒は何不自由なく、信仰し物質的にもかなり、豊かに生活できるようになっているのに一般的に年寄りの方も若い方も神に感謝することを忘れて過ごしている場合が多いのではないでしょうか。

 模範的な祖先を与えられ、生まれながらにして信徒であることのお恵みに対して感謝を表すためにも、貧しい生活の隅々まで信仰が染み付いていた祖父たちの偉大な信仰に倣って奮起しひたすら祈る人、神への愛に生きるべきではないでしょうか。

 神とか信仰とか、そんなことはあまり重要視されなくなった今の日本社会で地域に奉仕しつつ、神と隣人とを信じ愛していくことはむずかしいことでしょうけど、昔の祖父たちがやれたのに、私たち現代人がやれないことは決してないはずだ。

 「精神一倒何事かならざらんや」である。
 共に頑張ろう
 やや、説教調になったかもしれませんが、そうであるならばお許しください。
 
 
 
 
 
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1997年11月16日
上五島地区主催で聖ヨハネ五島殉教400年記念祭として講演会と記念共同ミサが行なわれ、その会場となった仲知教会には上五島地区の10小教区から約700人の信徒が集まり、聖ヨハネ五島の殉教を称え、その取次ぎを願った。
講師は、26聖人記念館館長、結城了悟師で講演テーマは聖ヨハネ五島。講演内容については「仲知小教区史」参照のこと。

白濱松次郎・米山教会教え方
 岩永静雄師時代に米山教会の教え方をしていた白濱松次郎氏(長崎市春木町在住)は今年91歳になるが、耳が不自由であるだけでまだお元気で余生を健やかに過ごしておられる。

 手紙で教え方をしていた青年時代の思い出を語ってもらったが、足りない所は山田常喜さんに伺って補いました。ご了解ください。

一問一答

▽ あなたの少年時代、青年時代に米山教会を巡回していた中村師、古川師について知っていることを教えてください。

 中村神父様と私とは親子のように年齢が隔たっていました。顔には長い髭を生やしていたこともあって実際の年齢よりも年寄りに見えました。
米山の大人も神父様のことを「じいちゃん神父さま」と呼んでいました。

 米山教会への巡回は月に一度位でしたが、当時は交通の便利が悪かったので4キロあまりの山道を歩いて巡回するのは大変なことでした。それでも、信徒の信仰育成のために良く働いて下さいました。魚が大好きで米山近海で信徒が釣ってきた イサキ、イカ、クサビ、アラカブ、それに当時網で捕れていたキビナゴなど魚であれば何でも喜んでいただいていました。

 他方、古川師は若く丈夫な人で、運動が好きでした。 津和崎で運動会があったときには招待されて出席するだけでなく、御自分も競技に参加して運動会を盛り上げていました。運動会の後の相撲大会では神父さんが優勝して話題となりました。

 また、神父様の頃は各教会の青年活動が活発で、よく青年が主催して運動会を開催し、徒歩競争ではいつも神父様が1番になってハッスルしていました。魚釣りも好きでよく青年たちと組んで釣りを楽しんでいました。
 私の結婚を結んでくださったのも古川師です。
結婚後、私は長崎に引越し、三菱に就職しました。

▽青年会活動について教えてください。

 私たちの頃の米山教会青年会は女組と男組とに別れていました。
 その頃の青年会活動で忘れられないのは教会のすぐ近くに米山青年会館を造ったことです。

 資金集めに荒畑を耕したり、雑貨屋をしていた道下伊五郎さんに頼まれて村船で小値賀まで塩を積みに行っていました。青年会館の工事代金は200円でした。この青年会館に集まって友達と雑談することが何よりの楽しみでした。この会館はもちろん青年だけでなく、米山教会の信徒集会所として役員会、婦人会、子供の稽古など幅広く活用してもらいました。

▽米山では何をなさって生活していましたか。その仕事で中で一番嬉しかったこと、苦しかったことは何ですか。

 仕事は半農半漁。
農業では畑で主食であった芋、ジャガイモ、麦を作り、副収入として子牛や子豚を飼育して売っていました。
 魚業の主な収入源は夏のマイカ(ブドウイカ)釣り、冬のミズイカ、マツイカ釣りで生ではなく、スルメに加工してから業者に販売していました。

 その他、冬になると、この辺の漁師は生きているイカをえさにして伝馬船で引っ張りながら10キロクラスの寒ぶりを前島の付近でよく釣っていたが、その時豊漁した時が一番嬉しかった。

 父・白浜与八は米山 一の寒ぶり釣り名人で知られ、少年時代まではその父の舟の友押しをして手伝っていました。大きな寒ぶりを逃がすとすぐ近くで漁をしている漁師にもはっきりと聞こえるほど大きな声をだして残念がっていました。
 青年になると親から独立し、自分の小船で漁をしていました。

 それから日曜日が来るのも楽しいことでありました。
その頃の米山の信徒は畑仕事に親も子も忙しくてゆっくり人と交わって過ごす機会がなかった。
しかし、教会の教えで日曜日だけは仕事をしてはならなかったので、その日ばかりは村のものは全員大人も子供もみんな教会に集まってお互いの親睦や情報交換をしてゆっくり過ごしていました。

 でも、最初にしていたのは教会で祈ることであった。月に一度は司祭の巡回ミサがあったが、ないときにも必ず教会に集まり、教え方や宿老の祈りの先唱でロザリオ信心業をしてから青年会館や教会前の広場で挨拶かたがた雑談することが何よりの楽しみでありました。

 民家から遠い山の上にあった共同墓地までの道が急な曲がりくねった細い坂道であったため、 重い遺体を2人だけで担うことは非常に苦労しました。これが苦労したことです。

▽未信徒から何か差別待遇を受けたことがありますか。

 私の少年時代にはまだ戦争がなかったのでそれほどの差別待遇を受けたことの記憶はありせん。

 ただ、私たちの頃には津和崎の子供たちから「開きもん」と呼ばれ、私たち米山の子供たちは彼らのことを「村のもん」と呼んで日頃は学校でも学校が済んでも遊ぶ時には米山の子供たちだけでグループを作って遊んでいました。それはやっぱし、かれらをいじめられるんではないかと怖がっていたからかもしれませんが・・・・・。

▽伝道学校のことについて知っていることがあれば教えてください。

 伝道学校では尋常小学校卒業後のわずか14歳で、村の選挙でやむなく入学した志願者が多かったので、先生たちは、やんちゃで悪戯をする餓鬼であった私たちを導くのは大変な苦労や心配があったでしょう。

 しかし、伝道学校の2年間はそれなりに充実していました。教理の勉強を学ぶのも好きで、熱中しました。
 伝道学校卒業後は米山の教え方となって6年間ほら貝を鳴らして子供たちを集め、青年会館で教えました。
 米山の子供はどの子も素直で元気があり、ひまなく要理の勉強をしてくれたので、とても教え甲斐がありました。

▽最後に、初聖体・堅信の思い出があれば一言お願いします。

 初聖体・堅信ともその思い出は忘れてしまいました。ただ一つの思い出は私にとっては初聖体も堅信も楽しい思い出でありました。

 最後に、仲知教会の下口神父様。
私の如き年老いて不信仰な人を調査してくださって、真にありがとうございます。深く深く感謝いたします。
 
 
 
初聖体 写真は米山の子供達、昭和37年

平成13年1月24日
白濱松次郎
           お別れの言葉
           昭和15年8月 伝道女学生
 敬愛し奉る岩永神父様
長い間、この仲知教会の神父様として、また、伝道女学校の教師としてご指導、ご指南ありがとうございました。

 神父様のよきご教訓のお陰をもちまして、つまらない私どもでしたが、非常な勇気と励ましを体得することが出来ました。しかし、まだまだ未熟者で怠け者になったっり、人の目を恐れたり、聖人に似た者には程遠い私どもでございます。

 神父様よ、名あって実なき私どもは学びの庭で培った勉学、修徳を磨き立派な伝道女として波乱万丈の俗世界に船出して、信仰を伝え聖母マリアへの信心を世の人々に伝えたいと念じております。
それが、私どもをこよなく愛してくださった神父様への何よりのお礼であり感謝のしるしになると信じます。

 神父様は霊的だけでなく、ときには美味しいお菓子や果物、白いごご飯などもご馳走してくださいました。そのご恩は決して忘れません。

 今日でお別れです。
間近に迫った私どもの卒業式までは、ぜひ居て欲しかったのですが、神様の思し召しとあればいたし方ありません。

 しかし、神父様よ、卒業式には私どもから司教様にお許しをいただきにいきますので、そのときはぜひお出でくださり、腕白娘の晴れ姿をどうぞご覧下さいませ。

 

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