メルキオール・岩永 静雄師

1936(昭11)年〜1940(昭15)年

 
思い出(1)

寄り道  竹谷音吉師

 下口主任神父様の熱意と忍耐の結晶として仲知小教区史の発刊の夢が果たされましたことを心からお喜び申し上げます。

 資料収集から諸種の調査研究、考証など発刊までの並々ならぬ神父様の御努力に対し深い敬意と感謝をささげ、併せて編集委員の方々のご苦労をあつくねぎらいたいと思います。小教区の歩みはそのまま地域住民の社会的歩み、特に信仰生活の厳しく重要な生活記録でもあります。私たちは改めて信仰の遺産の重要性を認識し、将来の発展のために小教区史の活用を考えておく必要があるのではないでしょうか。

 信仰ゆえに無一文で五島に渡ってきた先祖たちは真っ先に信仰の礎としての教会を建て、教会を中心に郷土を開拓しました。一代、二代と更に、多くの先人たちが世の種々の苦難に堪え、政治経済の荒波に翻弄されながらも雄々しくそれを乗り越えて、小教区の成長と発展のため絶えず必要なエネルギーを蓄え、活力を養い続けて今日に至りました。

 ここに200年の歳月を思い、信仰先祖の生命がけの努力と苦労を偲び、感謝の祈りに加えて信仰のあかしを高々と掲げて行こうではありませんか。

 小教区史にはそれぞれの歩み、道、歴史がいろいろな形で豊かに編みこまれているわけですが、私自身幼少の頃実際に歩いた道、米山から仲知への道を思い起こしながら、小教区史の持つ意味を理解したいと思います。

 現代社会では道は文化のバロメーターと言われていますが、当時の仲知への道はそれこそ昔の巡礼の道さながらでした。溝か道かわからないところも何ヶ所もあり、地形に沿って曲がりくねり、上り下りのきつい石ころだらけの道でした。ビンゴーチ・一本松の峠などは金粘土のない道だったようにさえ記憶しています。峠からは東は一本松の海辺まで、西は真浦の教会まで一直線に急勾配の石造りの道が走り降りていました。そんな道を歩いてこそ勤めを果たすことが出来、また秘跡に与かることを意味していました。

 しかし石ころの道にも野菊も咲けば、ツワブキも花をつけました。紫色の名もしれない小さな岩陰に顔を出し、山脈に岩ツツジ、日だまりに山百合、時期になれば椿の花が真っ赤に道を彩り、きびしい道の息づかいを和らげてくれました。

 時々実施された道普請。見違えるほど清楚になった道はさすがに人の心を感じさせました。一本しかない自分たちの道をいとおしむ心でしょうか、あしなかや草履を思いやる心情なのでしょうか、とても心なごむ気持ちで、ついつい足どりも軽く歩かされていました。

 日曜、大祝日、幾度あの道を往復(ある)いたことでしょうか。家族揃って、友達は連れ立ってミサへ急ぐ・・・・・・途中いくつもの小さい行列になり、かたまりになり、見えつ隠れつ教会まで続く。それは詩篇にでてくる「神に向かって歩む喜び」の風景にも似ていました。

 仲知に通じる一本の道には数本のとても楽しい「寄り道」がありました。ミサが終わると大勢の人が自分の親戚知人を訪ね、安否を問い健康を喜び合うのが習慣でした。どこの家に寄ってもご馳走が待っていました。「前夜十二時から何も飲食せず」の時代、骨身に沁みるような味を味わいながら空腹を満たしました。信頼の中で会話もはずみ、一致の確認やお互いの交流が深められていきました。

 一本道は神への道、寄り道は人と共に生きる道だったような気がします。

 あの道はもう存在(あり)ません。しかし振り返ってみるとあの道は、踏みつけられるたびごとに私達の心に新たな道を作りつづけていたのです。信仰、希望、愛の道を。

「仲知小教区史」より
 
米山教会
米山から仲知への県道。現在は開発が進み、道は全面舗装され車が通るようになっている。

仲知修道院100周年に当たって
     竹谷音吉師

 修道院百周年、おめでとうございます。神様のお恵み、人様のご恩を皆様と共に感謝いたします。
 黙々と祈り働き、好き日を天国で迎えられた方々に心から敬意を表します。
 修道院には何時も大変お世話になっていますので殊更にお礼を申上げたい気持ちです。

 「古きよき時代」と云うとお叱りを受けるかもしれませんが、あの頃の修道院が、とても懐かしい姿でよみがえって参ります。
 「部屋」と呼ばれた時代がありました。
 笑いやほほえみが特徴でした。いつも明るさが溢れていましたが、決して「修行」の雰囲気をこわしませんでした。今日では「相撲部屋」位しか残っていませんが、何と云っても「部屋」は明るい希望と修行、ということではなかったでしょうか。

 「あねさん」と云う言葉もありました。そのヒビキは今も耳染に残っています。部屋の頂点でしたが、きびしさよりも、温かさの頂点と云うのが相応かと思います。「院長様」では表現出来ないヌクモリのある、血の通った言葉だったような気がします。
 「はた」が幾台も並んでいました。
 「ヒ」が右へ左へ走るたびに音がして、布地が拡がっていきました。桑バタケ、カイコさん、糸ひき等の苦労の調がそこにはきこえていました。労働と犠牲が祈りの糸で織りなされ、十字架の愛の布地が出来上っていきました。

 「バッチ」と云う言葉が「部屋」の外で聞かれました。
 「オサバッチが来た」――父はそう云って、「部屋」のおばさんが家に来るのをとても喜んでいました。父のただ一人の妹でしたから。

 「なでしこ」「はぎ」を用意するのも忘れませんでした。椿の青い葉ッパを火であたためて、クルクルッと巻くのがとても上手なオサおばさんでした。私の司祭職への道の途中に、いつも何処でも立っていてくれたことを今も感謝し続けています。

 修道院創設百周年にあたり、シスターの皆様にお喜び申上げるとともに、聖職への召出しの増加のため、よろしくお願いしまして、お祝いのことばと致します。

「仲知修道院100年」の歩みより
 
思い出(2)

 竹谷富士雄師
 仲知修道院100周年にあたり
 

 仲知の修道院がいつ創立されたものか、これまで考えたこともなかったが、百周年を迎えるときいて深い感慨をおぼえる。

 仲知教会の墓地は真浦の浜から少し上ったところ、海に面して段々に開けている。小学校の帰りにまわり道をして墓地の下を通ったり、時にはそこで遊んだりした。墓地から見る真浦の海が、静かで青く澄んでいる時、または暗く、白い波頭が強風にしぶきをあげていたけしきを、今でも思い出すことが出来る。

 大人になってから帰省の折、親戚知人の墓を訪ねて祈りをささげ、ついでに墓地をめぐって墓碑の前で過去の思いにふけることもあった。そんな墓碑の一つに――多分、下段中央あたりに――「野口ふく之墓」がある。

 仲知には、真浦、久志、山添などの姓は多いが、野口という家は一軒もない。どうしてこの墓がここにあるのか不思議に思い、それで記憶に残っている。後で聞いたところでは、他所から来た「部屋の昔の姉さん」の墓であるという。

 浦上切支丹史によると、「野口ふくは明治初期、浦上に創立された十字会の岩永マキから、北魚目村仲知に遣わされた人」である。百年前の仲知がどんなにへんぴで貧しかったか。宣教師の仕事をたすける目的で、ここに生きた若い女性の生活がどんなものであったか。その苦労と完き自己奉献をある程度察することが出来る。

 墓がここにあることを思えば、郷里に帰ることもなく、何十年かの生涯を仲知で終えたものであろう。昔の姉さんと呼ばれているからには、生前すでに土地の娘たちを集めて、修道院の形をした共同生活を営み、その院長を務めていたのであろう。私はこの初期の修道女たちにも興味を引かれる。またあの墓碑の下に静かに眠る人が、仲知修道院の設立に深く関った人であることを思うと、何となく身近な親しみを覚えるのです。

 ふるい「野口ふく之墓」と、十字会を母院とするお告げの姉妹会の分院として、百周年を迎える現在の仲知修道院を思い合わせて、縁の糸がくり寄せられ、近くなった気がする。遠く離れていた親戚が再び近くに、或は一緒に住むようになった、そんな感じがするのです。神の摂理というものでしょう。

 百年の長い時の流れに沿って、修道院も種々変わってきた。名称も人も、仕事の内容も建物も。然し創立者の完き自己奉献の精神は、今日も一貫して受け継がれ生き続けている。この精神に生きる修道院は土地の人々には親しいところ、心の安らぎの家である。このこころをゆたかにして頂きたいと思う。そして増々人々の信仰生活の模範、支えであって欲しいと願うものである。

 百周年にあたり、心からお慶び申し上げ、神の祝福をお祈りいたします。

「仲知修道院100年の歩み」より
 
1936年に建立された旧仲知修道院

やまもも、さざえ
           前田 朴師

 「かしの木山に行こう、やまももがなっとる。」勇次郎、もりえ、初義その他おおぜい。ひるの休み、校門を出て山に入る。しっ、静かに。家の人に聞こえてはならない。だが、木が高い。のぼるのにひと苦労だ。ざわざわ、ぶつぶつ、ばりばり。いつのまにか木の下に、修一郎が立って、こらっ。どなっている。びっくり。こわい。そばの木に飛びのって一目散に学校へ。見つかった。えらいことになった。家に帰ったらひどい目にあうだろう。恐る恐る帰ってみると修一郎は、ひるまのことは、なんにも言わない。有難い兄きだ。

 学校がひけると、浜へ。クーヤン鼻で、クサビを釣り、あらかぶを釣り、また、ゲソミナを茹で、そして苫屋まがいの小屋を崖の下に建てる。青い海の水に浸り、西日に染まりながら。

 海外に出ているとき、この遊びの仲間がどんなに懐かしかったことだろう。真浦のドブ川は、テーベ川より大きくわたしの心にひろがり、磯の香が胸一杯に満ち溢れた。

 わたくしは、このようなふるさとが大好きだ。昔のものを残してほしい。だから新しい道をつくるために、あの山桃の木が切られそうな運命になったとき、私は猛然と反対した。内容説明の手紙を三回も中元町長に送ったので町会でも問題になった。しかし、あの小さな島で、百年の木は歴史を刻んでいる。あの出来事のおかげで、私は中元前町長にご親交をいただいた。

 昨年、ふるさとの海に潜ったとき、サザエがみつからなかった。水は清くても、サザエのいない故郷の海は、故郷の海ではない。ああ。

「ちゅうち」  創立百周年記念誌より
 
小島 仲知集落のすぐ目の前にある小島である。写真は新魚目町立仲知中学校「思いでの記」より

ふるさとの修道院
             前田 朴師

 もの心のついたときから、ハツおばの、はたの音を聞きながら、わたしは育った。わが家の前から、「みはたまえかけ」をつけて、はたの前にすわっているハツおばの姿が見えた。カッタン、カッタン。ひねもすはたの音が、むらの静けさを、いやがうえにも静かにしていた。

 カトリック信者ばかりの六十戸が、五島北端の西海と東海に住みついていた。日本中でも奇しい現象であったろう。教会と修道院が生活の中心になっていた。暗いうちにはじまるミサの、おみ堂の床下から夜が明けてくるほど古い教会であった。毎朝、大ぜいの人がミサに出席し、聖歌は、修道女たちが中心になって歌っていた。

 司祭のため、修道女たちは、野菜をつくり、イチゴをうえた。ふるさとの祈りの雰囲気を修道院がつくった。未信者のTさんは、夕べのお告げの鐘が響いて来た時、畑にひざまずいて祈る修道女たちの姿を、仲知の浜から見ていて、感動したと語っていた。

 仲知墓地を通って、わたしは小学校にかよった。ヨハンナ野口ふく之墓。それは初代修道院長と聞かされた。赤波江トセ姉さん(修道院長をそう呼んでいた)から、わたしは知っている。真浦ソノ姉さん。その実姉キミおばさん。ユーモアのリエおば。歌のフデおば。その頃は、修道服のない修道女達であった。
 
野口フクの墓碑

 山添ユキ院長、真浦ノブ院長。両人に多大なご恩を受けた。真浦キク院長。いつとはなくそのころは、院長さんと呼んでいた。
 現院長、真浦たしさん。生字引のように、仲知の歴史にくわしい。

 みな、温厚篤実なお方である。もう一つの特徴。五十年間、長崎神学校の賄い方として奉仕し続けて来たこと。
 私の弟の墓碑に、「かえりたや/ふるさと仲知わが宿に/つばき花咲き目白鳴くらん/」と刻んでいる。彼は小学教諭として、あちこち転任し、仲知が懐かしかったのであろう。

 十五歳にして仲知を出、七十五歳の今日まで、大阪教区で働いているわたしにしても、思いは同じである。
 ふるさとの修道院よ、健やかなれ。

「仲知修道院100年の歩み」より
 
試練に遭遇
         扶助者聖母会シスター 真倉文子

 聖フランシスコ・ザビエルによって日本に蒔かれた信仰の種を上五島の北の端の仲知小教区にもたらしてくださった先祖に心から感謝します。今はこの世での難儀の報いとして天国で御父を仰ぎ見る幸いな日々でございましょう。昭和24年、ザビエル渡来400年にあたり、その聖腕が長崎に来た時に私も長崎に出向き、何日間も発動船生活をして、聖腕の大行列と荘厳ミサに与かったことが懐かしく、鮮明に思い出されます。

 仲知の信徒の皆様が下口主任神父様を中心に、私たちの先祖の「五島移住200年」の歴史を編纂するという大事業を知り、感謝すると共に、何となく生きてきた長い信仰生活を改めて考えるチャンスを与えていただいたことを嬉しく思います。

 私たちの先祖が上五島に移住して200年、考えてみれば幕末にさかのぼる歴史の変遷が思い出されます。信仰を守るためにいろいろな試練に遭遇した話を聞いていましたが、その話が身近な出来事としてよみがえってきました。

 小さな島に先祖代々から受け継がれた信仰を何よりも大切にして肩を寄せ合い、ひっそりと住んでいたキリシタンがいた。ある時、一つの触れが伝えられました。「あなたがたが自分の信仰を守りたいなら今夜、夜の明けないうちにこの島を出て行くように」ということでした。一見、親切に聞こえるこの言葉もキリシタンにとっては重大でした。開拓した土地や家を残して、全員離郷を決め、その晩のうちに島を逃げ出す話し合いをしました。

 彼らは夜の明け染めぬうち2隻の舟に生活必需品を運び入れ、声を出すこともひかえ、手まね足まねで話し合いながら住み慣れた島をあとにしました。その2隻の舟は朝になっても落ち着くあてもなく風の吹くままに流されて行く間に別れ離れになった。1隻の舟はどこに流れついたかわかりませんが、もう1隻の舟は再び上五島に流れついたそうです。

 この一族離散の苦しい体験をされたキリシタンの中に母の親が入っていたということで、私にとっては自慢のエピソードです。これほどにしてまでも守り抜いた信仰を大きなことではなく、ありふれた日常生活の中でより喜びをもって生きていきたいと念じております。

「仲知小教区史」より
メルキオール岩永静雄師の略歴
1909年7月11日、長崎県西彼杵郡外海町牧野に生まれる。
1936年3月19日、大浦天主堂にて司祭叙階。
1936年5月、 三浦町教会助任。
同年12月、   仲知教会主任。
1940年9月、 井持浦教会主任
1947年10月、三井楽教会主任
1968年3月、 神の島教会主任
1969年9月、 福江教会主任
1971年1月、 出津教会主任
 
出津教会主任司祭であったときの記念写真、前列中央

 信仰篤い家庭に育ち、5人兄弟の次男。その内弟2人はいずれも司祭。妹はカリタス宮崎修道会の総会長など要職を歴任。

 先の大戦に召集され、敗戦後、ソ連での過酷な抑留生活を体験し肉体的にも精神的にも痛手を受けた。

 帰国後は下五島の三井楽教会に着任。20余年の司牧生活を始め、師自らの出身教会であった出津教会では13年間信徒の司牧・育成に全力を注いでこられていた。

 物静かな人であったが、読書、信心など内的生活を大切にし教区司祭の中では筋金入りの司祭として高い評価を受けていた。
 内に神への燃えるような愛を秘めており、口よりもその生活姿勢で信徒を指導した。

1984年2月12日、狭心症のため聖フランシスコ病院にて帰天。行年74歳。

 葬儀は浦上教会で2月14日、里脇枢機卿司式により荘厳に行われた。葬儀ミサには松永司教ほか、司祭約100人、一般信徒や修道者約1300人が参列。
 この後、遺体は赤城聖職者墓地に丁重に葬られた。

 
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