ヨゼフ・道田 高吉師

1901(明治34)年〜1904(明治37)年
 
道田師顔写真道田師の顔写真
 青木師の後任となったヨゼフ・道田高吉師は1901(明治34)年5月、上五島地区に着任された。その当時、司牧区域が広かった上五島地区の内、師が担当された地区は北部の仲知地区であった。

 仲知地区での在任期間は3年2ヶ月だったが、師の人柄や司牧活動を知るための資料は乏しい。
現在、仲知教会に在籍している瀬戸脇教会出身の浜口(旧姓・瀬戸)ナセさんは、幼い頃母・瀬戸キヤから口ぐせのように言い聞かされたこととして次のように語ってくれた。

 「師は若くて、とてもやさしい人であった。青年時代には、クリスマスや復活祭が近づくと毎日のように野首教会までの山道を友達といっしょに歩いてラテン語の聖歌の練習に通っていたが、そのとき、歌の指導をされた方が道田師であった。」

 仲知小教区では最長老である江袋教会の尾上ミキ(旧姓・谷口)さん(99歳)も、両親(谷口栄吉・キヤ)から何度も聞かされたこととして次のように話してくれた。

 「師は、物静かな人だった。しかし、伝染病で若死にした。お葬式は明治37年7月23日、江袋教会で当時五島列島で司牧活動しておられた司祭たちと近隣の信徒集落から大勢の信徒が集まり、盛大に執り行われ、遺体も土葬で江袋教会の共同墓地に埋葬された。

後日、江袋の信徒は師に対する尊敬の心からその冥福を祈るため、すべての信徒の家から資金を出し合い、その頃の江袋墓地にはなかった高価な石材で墓碑を建立した。」
 
 当時江袋教会のすぐ隣に住み、生涯カテキスタ(教え方)として歴代の司祭と道田師に仕えた人に谷上仁吉氏がいる。彼は司祭をキリストの代理者として心から慕い、神から授かった子供は男の子も女の子もすべて神と教会への奉仕者にしたいという強い望みを持っていた。その彼は道田師が逝去された次の年の8月28日に生まれた5男に道田師の名前と同じ名前(高吉)を命名している。勝手な想像かもしれないが、これなども道田師を慕う心から命名したのではないだろうか。
そして、その願いはかない5男・谷上高吉は実兄の谷上梅吉、末作とともにトラピストの修道士となっている。

道田師の墓碑
仲知小教区専用の洗礼・死亡・結婚台帳
 

 仲知小教区には道田師の時代に記録された仲知小教区専用の洗礼台帳、死亡台帳、結婚台帳がある。

洗礼台帳は明治32年4月から当時青砂ヶ浦地区を担当していた大崎師が記録をはじめているが、明治34年5月から明治37年6月までの約3年間は道田師の記録となっている。
しかし、彼が洗礼を授けて記録した受洗者は非常に少なく、しかも最初の2年間の記録は野首と瀬戸脇の幼児に限られている。

 死亡台帳も仲知小教区の専用のものが、明治34年6月から道田師によって開始されている。しかし、死亡台帳に記録されている死亡者は、実際の死亡者より少ない。そればかりか、死亡者の出身と埋葬場所も野首と瀬戸脇とに限られている。

 結婚台帳も仲知小教区専用のものが明治36年2月から道田師によって開始されているが、その記録もわずか1組に過ぎない。

 当時仲知地区の大水、小瀬良、江袋、赤波江、仲知、米山、野首、瀬戸脇の信徒集落では、合計すると毎年40名前後の受洗者、10組前後の結婚式、8名前後の物故者があった。しかし、これらの洗礼、結婚、死亡の記録は青砂ヶ浦地区を担当されていた大崎八重師が記録している。

 これらの教会台帳により総合的に判断するなら、道田師は野首を主任座教会として、野首に常住し、仲知地区の信徒の司牧を担当されていたが、健康状態が思わしくないために、青砂ヶ浦の大崎師の応援を受けて、その司牧の任務を果たされたのではないかということである。


 
仲知小教区洗礼・死亡・結婚台帳
米山教会(2回目)建立 1903年(明治36)年

 道田師の3年余りの司牧活動の成果として忘れてならないのが2回目の米山教会改築である。1903(明治36)年、道田師の指導のもとに念願の教会の改築となった。

 それまで米山の信徒は祝祭日のたびに、雨の日も風の日も山の頂上付近に建てられていた旧教会までの狭い山道を歩いていた。ところが、道田師の頃には交通の便利な海岸の方に引っ越す信徒が相次ぎ、教会も信徒の便宜を図って集落のほぼ中央部に立て替えることになった。

 信徒の総意で敷地が竹谷佐吉氏の所有地(長崎県南松浦郡北魚目村津和崎郷中山584の7)に決定されると、にわかに教会建築の気運も高まった。建築資金も順調に集まり、同年9月6日、信徒の祈りと汗と犠牲とが実り、盛大なミサの中で祝別式がペルー師によって挙行された。建物の構造は木造瓦葺平屋建て、司祭館と炊事場も併設された。信徒戸数25戸、信徒数160名であった。

建設時の夫婦名
川端清八
川端トキ
又居初五郎
又居フミ
道下与作
道下キヨ
長浦宗次郎
長浦カヨ
瀬戸倉吉
瀬戸タケ
白浜光兵
白浜ユキ
白浜円太郎
白浜モセ
白浜八太郎
白浜ミツ

浦越ミキ
山田宇蔵
山田スナ
山田三蔵
山田トメ
山田嘉吉
山田サト
竹谷佐吉
竹谷シオ
竹谷富蔵
竹谷サキ
竹谷作太郎
竹谷キセ
浦越吉五郎
浦越キソ
松内富蔵
松内ミツ
道下百蔵
道下タケ
白浜茂三郎
白浜ユキ

 
2回目の米山教会
新しい情報

 今日においては、道田師は幻の人である。
このたびのホームページ開設にあたり、2000年12月20日、まる1日を費やしてもう一度道田師が作成した洗礼台帳を調査して新しい情報を読者の皆さんへ提供してみることにした。

1、道田師の司牧活動の変化について

 書体には本人の性格とか心が反映されるものであると言われています。
道田師の書体を見ると師はたぶん音楽のセンスのある繊細なお人柄であられたのではないかと思われる。師の顔写真を見ても同様に感じる。こんな勝手な想像は余計なこと であるかもしれないが、師の洗礼記録を見ていると、明らかに1903年12月からその司牧活動の変化が見られる。

 それまでの約3年間の司牧活動は主に野崎島に所在する野首と瀬戸脇、そして瀬戸脇のすぐ目の前にあるキリシタン集落・米山に限定されていた。

 ところが、1903年12月から病没する1904年6月までの約6ヶ月間は曽根、大水、赤波江、仲知、江袋にも巡回し広範囲な司牧活動を展開している。
これは何を意味するのだろうか。

 はっきりしたことは分からないが、多分、健康状態が良くなって来たので同僚司祭であった大崎師の応援を受けなくても、自分の足で自分にゆだねられた信徒の司牧をできるようになったからではないだろうか。そうであれば、やっと洗礼、赦しの秘跡、ミサなどのすばらしい聖務を果たす喜びを味わうことができるようになったのだ。しかし、その喜びもつかの間のことで1904年7月23日には病死している。
洗礼簿では病死する30日前(1904年6月22日)、仲知の久志久米五郎とタケの新生児に洗礼を授けたことが最後となっている。
 

2、道田師の宣教・救済活動

 宣教活動と救済活動はどの司祭にとっても大切な聖務の一つであったが、道田師はどんな宣教活動と救済活動をしておられるかごく簡単に調査してみた。
師の在任期間の3年7ヵ月の間に3人の未信徒の成人と4人の未信徒の新生児に洗礼を授けている。この数字はこの地区での宣教活動も救済活動も困難を極めていたことの表れである。

 しかし、収穫の束は決して大きくはないが、新しく改宗した人の心構えはすばらしいものであったようだ。
というのは新しく改宗した成人受洗者の一人は仲知の前田家の先祖の前田峰太郎であった。小値賀村・六島出身の前田峰太郎は若い頃から大工として数回仲知の信徒の家で働く機会があったとき、彼らのキリスト教的生活状態や良い行いに感動しキリスト教を学ぶこととなったと、その子孫に伝えられている。洗礼は1901年8月6日野首教会で道田師から受けている。

 4人の未信徒の新生児は洗礼簿には孤児として記されているが、そのうち3名は洗礼の後、鯛ノ浦の養育院に引き取られ、残りの1人は仲知の信徒の家に養子として引き取られている。
そして、4人の洗礼のときの代母は共同生活しながら道田師の宣教活動と救済活動に奉仕していた仲知のセシリア修女院の会員の植村フデ、真浦ソノ、山添マキであった。


   

光世さんのコーヒーブレイク
 2000年は少年による凶悪事件が相次ぎ、「17歳」の犯罪ということが社会問題になりました。

そのなかで

  • 人を殺すという意味が、少年たちの中でどんどん希薄になっている。
  • 人を殺すことは単なるテレビゲームと同じ感覚になっている。
  • 強盗殺人をまるで万引きと同じ程度のことのように考え、どういうことが悪いことなのか分からなくなっている。
  •  このような現在の日本の社会的状況の中で、昔のフランス人宣教師たちと道田師をはじめ邦人司祭たちがどのような事情があれ、 人は神のみ姿として創造され、その命は神聖で不可侵の尊厳であること、人の命は結婚の絆で結ばれた男女がつくる家庭において養い育てられること、 したがって、家庭では堕胎(中絶)は絶対にあってはならない悪であることを主張しその主張を即実践した。
     このような伝統的なキリスト教のもっとも基本的な教えにも基づき堕胎を防ぎ、孤児を救うため救済事業に真正面から取り組み、信徒もそれに協力したことは大きな意義があるのではないでしょうか。
    補足 道田師についての情報

     最初に今日道田師について直接知っている人は誰もいないということを書いたが、その後(平成13年3月21日)大阪 の見知らぬ人から仲知の司祭館に電話があった。その方は天草出身であるが現在大阪の方に住んでいて道田姓を名乗る人であった。用件を聞くと「今年の5月のゴールデン休暇を利用して道田師の墓参りをしたいと計画しているが、確かに江袋に道田師のお墓が存在するのですか。」という問い合わせであった。私は「あります。あるだけでなく、道田師の墓碑は江袋の共同墓地でも一等地にあり、毎月江袋の信徒たちは墓地清掃する時に道田師の墓碑の周囲の草取り作業をしてその冥福を祈り続けている。
    それに私も不完全ながら道田師が活躍された頃の足跡の調査をしているので彼については少しばかり知っているからお話が出来ますよ」と答えた。

     その後、私は転任になり彼と合うことが出来なかったけれども、見知らぬ彼から電話先で聞いた話はあらまし次ぎの通りであった。
    「天草出身の道田師には2人の姉がいたそうですが、2人とも結婚せず熊本地区でフランス人宣教師が創設した養護施設で奉仕していたそうです。一人の姉は施設から孤児を一人引き取り育てた。成人した孤児はやがて道田姓を名乗り結婚してできた子供が自分である。だから道田師とは血のつながりはないけれども道田姓を名乗っていることから道田師のことを知りたいし、その冥福を祈りたい」

       
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