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洗者ヨハネ・永田 徳市師

 1914(大正3)年〜1919(大正8)年
 
顔写真
永田徳市師
◆出身地 紐差
1914.2.8叙階
叙階司教 コンパス司教
奈留島教会で司牧の途中トラピストへ転出
1975.1.13仙台で帰天
 
 上五島地区と仲知小教区で司牧を担当された歴代の司祭は外国人の司祭であろうと邦人司祭であろうと非常に若くて活力に満ち溢れた司祭が派遣されている。
 これは多分この地区の信徒集落が交通不便な離島のあちら、こちらに散在しているので担当地区をくまなく巡回し信徒に霊的満足を与えるにはそれに見合う体力が求められたからであろう。

 仲知小教区初代主任司祭であった中田師の後を継ぎ、第2代主任司祭として着任された永田徳市師も司祭になりたての若い司祭であった。

 
聖歌隊

 コンパス司教が長崎司教として祝聖されてから2年後の大正4年、仲知小教区初代主任司祭・中田藤吉師は8年間の司牧を終え田平教会へ転任され、第2代主任司祭として洗礼者・ヨハネ永田徳市師が着任された。

 永田師はフレノー師と同様音楽の才能に恵まれ、歌が上手な方であった。ミサ典礼を荘厳にして神を賛えるには楽器が欠かせない。師は江袋教会に続き、仲知教会にもオルガンを購入し、江袋にも仲知にも女子青年を集めて聖歌隊を結成し、その指導にあたられた。

 まず、自分でオルガンを弾きながら歌い、その後これを何度も繰りかえさせて練習させた。 聖歌の指導を受けた40代、50代の信徒は昔、フレノー師からみっちり聖歌を習った心得があり、ラテン語の聖歌の歌詞も音符も読みこなしていた。そこで、師は2部3部の合唱を折りこんでグレオレア聖歌を荘厳かつ荘重に歌えるように厳しく指導した。その結果、とくにクリスマスミサと復活祭のミサは教会いっぱいに歌声が響き渡り、ミサに出席していた信徒に深い感動を与えた。
  
 江袋教会の尾上ミキさんも師から厳しく指導された聖歌隊隊員の一人である

「聖歌隊の主な練習は3部合唱で、私はバスを担当した。最初の頃の聖歌隊には神父様の賄をしていた甥の永田義衛という人がいた。
 この人はすばらしい美声の持ち主でこの方が神父様と一緒に歌うとうっとりするほど見事であった。」
 
 
 
聖歌隊
現在の聖歌隊
ロザリオ会
 永田師は、宗教音楽で信仰生活の中心であるミサ典礼を荘厳にして信徒の情操と信仰とを深めると共に、ロザリオ会という信心業の普及にも貢献した。

 それまでに江袋には毎週金曜日に行う十字架の道行の信心業と6月に行う聖心の信心業とがあったが、それらの信心業に加え、若い娘たちがロザリオ信心会会員にすすんでなることによって聖母マリアに対する愛と尊敬の心を育てるように、また、神の母に選ばれたマリアの生涯の喜び、苦しみ、み栄に与ることによって、この厳しい人生を清く希望をもって生きて欲しいという思いで「ロザリオ会」を結成した。

 当時江袋教会の女子青年だった尾上ミキさんもその会員となった。
彼女の話によると、「会員となった信徒は1週間に個人で3回ロザリオを唱え、毎月の会費を納めていた。会計係は前長崎市長・本島等氏の伯母・本島セヨであった。」という。

 こうして、永田師のマリア信心から深い影響を受けてテレジア・真浦サヤ(18歳)、マグラレナ・谷口リュウ(26歳)、アガタ・真浦ユキ(26歳)がそれぞれ神からのお召しを受けて地元の「セシリア修女院」に入会し、生涯独身を守りながらこの地域の人々の福祉の向上と発展のため、さらには児童の信仰教育のため奉仕することとなった。 

大水教会改築(大正6年)
 永田師が仲知小教区に着任された大正年間は主任座の置かれている仲知の信徒だけでなく、巡回教会の信徒も毎月のように定期的に司祭の巡回を受け、ミサ聖祭や告白の秘跡を受けることが出来るようになり、その信仰が質的に向上した、いわば、信仰の形成期にあたる。

 その信仰の育成の場として教会の果たす役割は大きく、どの信徒集落にもその中心部に教会が建てられていた。
 大水でも、信徒集落のほぼ中央部に民家風の小さな教会を建て、信仰生活のよりどころとして使用していた。

 ところが、信徒数の増加によって教会が手狭となったため改築することとなった。
 しかし、信徒の生活はあいも変わらず貧しく建設資金を信徒の力だけで調達することは容易なことでなかった。
 それでも教会建設のためならどのような犠牲もいとわないという信徒の思いが実り、永田師の指導のもとで1917(大正6)年着工となった。

 設計施工は丸尾の鉄川与助であった。28坪ほどの木造建築物であったが、柱は大きな木材が使用され、天井とステンドグラスが美しい窓は洋式であった。
 
 
 

旧教会
大水教会 (上:大正6年に完成した旧教会/下:現在の教会)
現在の教会

 
児童と地域をこよなく愛した永田師
 永田師は音楽に卓越した指導力を発揮されただけでなく、児童の情操教育と信仰教育にも貢献があったようだ。

 仲知小学校は今でも全国でもめずらしいカトリック信徒だけの公立小学校であるが、永田師は仲知小学校の先生たちとの交流があった司祭の一人である。
 もちろん、今となってはどのような交流だったか詳しく知っている人は一人もいない。
多分、当時師が置かれていた教会の忙しい司牧状況を考慮するならば、北魚目村村長から依頼されて直接教壇に立ったわけではないだろう。
 それにもかかわらず、師はこの仲知という地域を愛し、学校の先生にも生徒にも人気があった。若いうえに思いやりのある、人間的にも温かい彼の人柄が人々を慕わせたのであろう。

 現在、仲知小教区には永田師の思い出を持っている信徒は2 3人しかいない。そのうちの一人である1908(明治41)年3月27日生まれの宮脇(旧姓・山添)キクさんは永田師についての思い出を次のように語ってくれた。

 「永田神父様のお名前は徳市といいます。私はこの神父様から初聖体を授かりました。
 神父様についての思い出はほとんど忘れてしまい、思い起こすことが出来ませんが、神父様が学校のグランドで私たち子供たちといっしょにブランコ遊びをして下さったことと、仲知小学校の校歌の歌詞を作詞してくださったことだけは今でも覚えています。」 


永田師作詞の仲知小学校の校歌

 1、五島のはてなる 北の端に   
   前はびょう びょう 支な海の
   潮寄せ来る 小島をば
   ひかえて威ある わが母校
 

 2、いらかの波を 見おろして
   二百の健児  義を結ぶ
   望みは深し  西の海
   理想は高し  北斗星
 

 3、げにも努力は 有終の
   勝利をわれに 教えたり
   共に手をとり  いざや友
   道にいそしめ  国のため
 

仲知小学校の沿革

 明治12年9月、北魚目村小串郷公立学校仲知分舎として創立。後、校舎を江袋に移して、津和崎分校江袋分舎となる。
明治25年、島ノ首に移転し、仲知尋常小学校となる。
大正2年現在の地に移る。

 永田師が仲知に着任した大正3年は仲知尋常小学校が島ノ首から仲知へ移転した年の翌年にあたる。

 仲知教会と地域社会の顔となっている濱口種蔵氏はこの永田師の賄いを5年間勤め、永田師が奈留島へ転任になってからも2年間くらい師に仕えた。
 濱口氏は昭和14年頃、仲知小学校の教師になってから永田師が作詞した校歌に曲を作り、現在歌われている曲にした。

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