洗者ヨハネ・永田 徳市師
 

永田師の回想
 
 
神戸少年の家でミサを執行している山口師

 昭和44年に出版された山口正師著「浦上の使徒―フレノー神父― 」の中で、87歳の老司であった永田師はフレノー師について回想しながら、ほんの少し御自分の司祭としての歩みについても回想している個所がある。

 ここではそのさわりの個所を紹介することにいたします。

 「過ぎ去った昔を振り返ってみますと、私とフレノー師とは縁遠いものではなかったような気がします。明治29年(1896年)9月に大浦の神学校に入学しましたが、3年目から毎年秋口になると脚気が出ました。医者から転地療養をすすめられ、「平(長崎市浦上)」のオセキ伯母さんの家に2、3ヵ月おいてもらったのです。
一人住まいの大きな家でした。そうしたことが3回ほどありました。そこから、毎朝のミサには山里(長崎市浦上)」の古み堂(教会)に通っていたのです。
 
―中略―

 小生は大正3年(1914年)に司祭になって、上五島に赴任しました。そこの信者たちは、みな素朴で熱心でした。

ところが、40歳50歳になる婦人たちがラテン語の聖歌の歌詞と音符をサラサラと読みこなし、グレゴリアンもムジカも自由自在に歌うのです。驚いて聞きただしたところ、昔フレノー師に習ったという答えでした。クリスマスや復活祭の聖歌は2部3部の合唱を折りこんで、この婦人たちで難なく荘厳に過ごすことが出来ました。
みなフレノー師の置き土産だったのです。
私は上五島に6年余、それから中五島(奈留島)に転任、次に浦上に参りました。来てみると音楽隊が立派なバンドに育っていたのです。

 3年後、北九州の八幡に教会を創設すべく派遣され、小倉に参りました。そこには、フレノー師の生きた置き土産で九州伝道を手伝った志村伝道師がいまして、臼杵(大分県)あたりでの布教談を昼夜ぶっ通しで聞かされたものです。

 私はフレノー師の形見としていただいたバイオリンを神学生時代からトラピスト(修道院)に行くまでもてあそびました。」
 
 

トラピスト時代の永田徳一師 左側

 ―後略―

 達筆家であった永田師
 さらに、永田師はフレノー師を回想して次のように述べている。
「 フレノー師は八代や熊本などから頼まれた教会、修道院、個人邸宅の設計図を作成しておりました。ミサ後は、設計図の写しを書かされたり、浦上天主堂の聖堂建設の寄付金を願うベルギーやフランス宛の手紙の清書など頼まれたのです( 永田師はヨーロッパ文字の達筆家)。
 それで、正午過ぎてから帰ることもしばしばでした。」 

 下線は多分「浦上の使徒」の著者である山口師が先輩司祭への尊敬を込めて書き添えたものであろう。

 仲知教会司祭館には永田師が遺した文書は残っていない。しかし、師の記した洗礼、堅信、死亡、結婚、家族台帳なら今も保存されている。

 ここでは師が記した結婚台帳を紹介しておくことにする。


 

 
永田師の時代の結婚の統計
 
1906年に永田師司式により結婚した16組の紹介
 月 日 新郎の姓、出身、年齢 新婦の姓、出身、年齢   場所
5月9日  白濱、(野首)、25 竹谷、(仲知)、20 赤波江教会 
5月11日 瀬戸、(瀬戸脇)、23 山田、(米山)、21 仲知教会
5月15日 久志、(仲知)、21 井手淵、(仲知)、20 仲知教会
5月23日 真浦、(仲知)、23 白濱、(野首)、21 仲知教会
5月23日 大水、(大水)、26 大水、(大水)、20 仲知教会
6月2日 山下、(大浦)、24 本島、(江袋)、24 江袋教会
6月29日 白濱、(野首)、28 竹谷、(仲知)、24 仲知教会
8月10日 川端、(江袋)、23 真浦、(仲知)、21 仲知教会
8月17日 島本、(仲知)、25 谷口、(江袋)、20 江袋教会
9月21日 瀬戸、(瀬戸脇)、26 瀬戸、(江袋)、21 仲知教会
9月26日 白濱、(野首)、23 尾上、(江袋)、24 江袋教会
10月4日 布津木、(頭ヵ島)、37 船倉、(小瀬良)、29 赤波江教会
10月10日 白濱、(米山)、26 山田、(米山)、19 米山教会
10月25日 水元、(仲知)、23 真浦、(仲知)、24 仲知教会
11月4日 白濱、(野首)、23 田端、(江袋)、21 江袋教会
11月15日 白濱、(瀬戸脇)、25 山田、(米山)、21 米山教会
 
 
ミニ解説
1. カトリック信徒同士の結婚  

 この頃、信徒が未信徒との結婚を希望した場合、結婚相手がカトリックの洗礼を受けないと結婚出来ない時代であった。このような制約があってか、この年は幼児洗礼を受けたカトリック信徒同士の結婚ばかりで、未信徒が結婚前に洗礼を受けた後、カトリック信徒と結婚したケースは見られない。

しかも、結婚相手は相変わらず、近隣のカトリック信徒集落の信徒同士の結婚で(近隣婚)、同じ集落に住んでいる者同士の結婚(村内婚)も3組ある。 この統計で言えることは当時の信徒は教会の教えに忠実に従ったことである。しかし、見方を変えれば、地域社会に対してはまだ閉鎖的であり、依然として孤立した共同体と見られていたのかもしれない。                   

2. 結婚年齢

 結婚年齢は1組を除けば非常に若い。それに男女の年齢のバランスが偶然だとしても実に良く取れている。      
3. 結婚の季節 

 今日では仏教から受け継いだ習慣でカトリックでも仏滅の日に結婚式を控える信徒は多くなった。 同じようにキリスト教でもキリストが十字架上で亡くなられたことを悲しむ季節を「四旬節」と呼んでいるが、この季節にはキリスト信徒はキリストの受難死を思い、祈りと断食を行い、結婚式をしないというしきたりがある。1906年の1月から4月まで結婚式が無いのはこの理由によるものである。

4. 結婚の場所      

 今日長崎ではカトリック信徒同士の結婚は女性の所属する小教区で挙式をするという習慣がある。この習慣はいつ頃から始まったのは分からないが、永田師が結んだ結婚の場所を見ると、師の頃すでにこの習慣が定着していたようだ。もちろん、信徒の側の便利と司祭の側の都合で新郎・新婦の所属しない教会でけっこう結婚式を挙行した場合もあった。

現代日本の社会ではシングルマザーとか、パラサイト(寄生)シングルとかいうハイカラな言葉が流行っている。
 女性の地位も向上して来ている。男性に頼らなくても自立できるようになった。男性は男性で結婚して自分の時間や自由を失うより、したいことを行い、仕事や自己能力の開発に自由に専念した方がよいと考える若者も多くなった。

確かに結婚は良い事ばかりではないし、きっと失うものもある。

しかし、結婚は女性だけでなく、男性にとっても幸せにいたる基本的な神が定めた道ではないだろうか。

いつの時代も変わることなく人々が求める家族像とは「安らぎ」であろう。その家族に安らぎをもたらすものは一体なんだろうか。
 
 それは妻が夫を思い、夫が妻をいたわる家庭内での夫婦愛や思いやり、絆だろう。そのような愛情に満ちあふれた夫婦の姿を見て子供も温かい家族を感じ、社会の秩序を学びながら健全に育っていくのではないでしょうか。
それだけでない。さらに、教会の伝統は信徒同士の結婚を秘跡として高め、信徒が救いと幸せに至る道としていつも高く評価している。
神が与えてくださった妻、夫、子供、親を愛して、神の心を生き、信仰を子供たちに伝えていく。   
 これが永田師が当時の若い結婚婚約者たちに説いた教えであった。

 私は焦ることなく時間をかけて信仰と愛に満ちた明るい家庭をつくっていければよいな、と思う。

 今、日本の社会では核家族化が進み、離婚が増加し、とりわけ少年や母親による凶悪な事件に象徴されているように、家族は曲がり角に立っている。
 このような厳しい社会状況の中で、単に「昔の家族は良かった」と懐古主義に終わらせず、現代にマッチした明るいキリスト教的な家族をつくっていくことはもちろん易しいことではないかもしれない。

 問題はいかにして、キリスト教の価値観にもとづく夫婦愛を育てていくかにかかっているものと考えるが、この点において私たちは永田師の時代の家族から学ぶこともあるのではないだろうか。

 
 
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