ペトロ 永田 静一師

1975(昭和50)年〜1979(昭和54)年

 
 
奇跡を起こした仲知教会信徒

 仲知教会信徒は、教会と司祭館建設のために昭和51年9月から翌年の7月までの10ヵ月間教会と司祭館建設に備えて積み立てを開始したが、7ヵ月後には建設委員会が発足し10ヵ月後にはもう着工している。その期間は2年弱である。

 教会工事代金が8 400万円と司祭館工事代金2 440万円を合わせるとはるかに1億円を突破するにもかかわらず、教区からの援助金なしでわずか72戸の信徒だけの力で教会も司祭館も完成させただけでなく、教会と司祭館を完成させた昭和54年2月の時点で建設費の殆どを完納している。一戸当たりの総負担額は145万円であった。
 
 

昭和53年12月、建設当時の仲知教会

 
 
平成9年、仲知教会

 建設当時から教区の援助金なしで自主的に信徒の力だけで1億円もの教会を造ったと言うことは長崎教区内外で話題になった。例えば、昭和53年12月号「カトリック教報」では建設委員会発足後、わずか12ヵ月の猛スピードで教会を造ったことが時の話題として報道されている。

 どうして奇跡に近いことが実現できたのか、信徒の生の声を聞いてみた。
仲知の信徒が異口同音に言われることはその頃まで遠洋巻き網船の漁があったからだという。

 その頃、大部分の仲知の信徒の職業は漁業であった。
奈良尾、青方、新潟を基地としている遠洋巻網船の漁船員として親子で働き現金収入を確保出来た。特に三陸を主な漁場としている巻き網船が大漁していた。半年に一度しか帰郷出来ないハンディがあったものの、1ヵ月毎に40万円、50万円単位で稼ぎその殆どを家に仕送りしていた。

事例

(1)、山添正人(当時31歳) 職業は漁業
一時金と積立金で納める。
(2)、真倉善四郎(当時40歳)職業は漁業
一回目に40万円、2回目に43万円、後は積立金で
完納する。
(3)、山添正義(当時50歳) 職業は漁業
本人の給料は生活費にあて、長男の給料を貯え、
30万、40万、50万の3回で完納した。
   
 それにしても、現金収入があっただけでは教会は出来ない。仲知は信徒だけの集落であることから一致団結出来たこと、建設の陣頭指揮をとられた永田師がタイミング良く仲知小教区に着任されて、建設においては見事なリーダーシップを取られたこと、それに1年前に米山に鉄筋コンクリートの教会が建設されたことも建設への力となった。しかし、それにもまして、わずか75戸で1億円の教会を建立できたのは信徒一人一人の信仰の結晶であった。

 仲知にもその日暮しの小漁師がいたし、サラリーマンの家庭もあったから彼らにとって短期間に145万円の負担額の支払いは大変でその苦労は筆舌に尽くせないものがあったであろう。それでも短期間に支払いを完了させているのは犠牲心と信仰心とがあったからであり、建設当時建設委員長をしていた久志半助氏(84)の言葉は仲知の信徒の信仰心の素晴らしさを代弁している。

 「自分の家の修理でも100万や200万はかかるものである。その頃の仲知の信徒はそれぞれ自分の家を改修工事したと思って神様のために喜んで捧げた。」

 
II、建設時の仲知教会宿老久志伝氏(72)の思い出

 略歴

昭和2年1月1日北魚目村曽根郷赤波江に生まれる。
昭和2年1月3日仲知教会で洗礼、霊名はヨゼフ
昭和14年8月18日仲知教会で堅信
昭和24年9月30日仲知の久志フジさんと結婚
昭和40年ごろから昭和57年ごろまで仲知教会の宿老
 
 
落成祝賀会では司会者の大任を果たした久志伝宿労。すぐ隣の
若い方は現場責任者の濱松祐一氏。

 久志伝氏は今も尚元気で仲知の自宅で隠居生活を送っておられるが、入口師、浜崎師、永田師、佐藤師の4人の主任司祭に仲知教会宿老として仕えている。このことから、これらの4人の司祭についての思い出を持っておられるが、その中でも特に忘れることの出来ない司祭は永田師である。

仲知教会着任早々のこと

 昭和50年2月10日着任後、仲知教会で行われた最初のミサの時である。ミサの準備の祈りが終わりに近づきミサが始まろうしていた時、香部屋から祭服を着用した永田師が現れ、教会内陣用の電燈のスイッチが何処にあるのか、分からない様子で探しておられた。宿老の久志伝氏もスイッチが何処にあるのか分かっていなかった。

 しかし、なんとなく気になったものだから永田師の近くに行ってみた。すると、師は何とかかんとか口ごもりながら「スイッチのあるところば知らんか」と小声でささやくように尋ねた。久志氏は気の毒に思いながら低い小さな声で「知らん」と申し訳なさそうに答えると「宿老もなんも止めてしまえ」と大声で怒鳴られた。これが永田師との最初の出会いで「この神父はやおいかんぞ」と思ったそうである。

電動ノコと花壇の整備

 入口師のときか、田中師のときかははっきりしないが、旧教会前庭にロザリオの聖母像を建立していたが、その周辺はただ土を盛り上げて花壇にしていただけであった。

 ところが、機械仕事、大工仕事など何でも自分で出来た永田師が着任してから約1年くらい経った昭和51年の夏時分のことである。宿老の久志氏が永田師に何かの用件があって司祭館に行った。すると、永田師が賄いの中村さんをこま使いにしてロザリオの聖母像の花壇つくりの基礎工事をしていた。花壇の周辺に鉄製の手摺を取り付ける作業である。このような作業は本来庭つくりを職業にしている人がすることで司祭の出来るような仕事ではない。
 
永田師ころの旧仲知教会 手前は司祭館

 司祭が手が器用であるとしても、そのためには生コンを作る心得、電動ノコなどの大工道具一式を揃えていなければならない。手先の器用な永田師はこれらの道具をすべてご自分で持っておられたが、電動ノコは肝心なノコの刃先が錆びていてなかなか思うように木材を切りことが出来ない様子で仕事をしていた。仕事はきびきびスピーディにこなしていくのが彼の信条なのに、なかなか思うようにいかないので、こま使いの中村さんを怒り飛ばしながら無理やりに電動ノコを押し込んで作業していた。

 結局その日は彼も賄いも師の庭つくりに加勢させられ終了したときには日がどっぷり暮れてしまっていた。永田師は夕食でもしていけとおっしゃって下さったが、昼間の重労働で疲れていた上、夕食の準備に時間がかかり、かなり待たされることが分かっていたので、その招待は断って我が家に帰った。

仲知教会建設のこと

 永田師はご自分で何でも出来る人であったので、ご自分で出来ることは何もかもしていたが、そうであったゆえに師に側で仕えた賄いの中村さんを始め肉親の兄弟たちも久志宿老も何かにつけ呼び出されてこき使われ、ちょっとでもしようの悪(要領の悪いこと)ければ直ぐに怒られていた。だから、仲知教会建設、司祭館建設、公民館建設のときは「こがんせよ、そうすんな」といろいろと細かいことにも口を出して指示していたので、職業であった雑貨屋の仕事はほとんどかか(妻)任せであった。それどころか、長崎に行って教会前に植え付ける芝を購入して運んで来るからと、商売には毎日欠かせない軽トラックを持って行かれたりした。

 仲知教会工事は請負であったので、辻組の現場監督であった林田氏が辻組の職員3、4人、下請け業者の職人7、8人、それに辻組に雇われて工事現場で働いていた地元の信徒たちを上手に使って手際よく仕事を進めていた。
このため、信徒が手伝う必要はなかった。しかし、職人は旧修道院と竹谷明氏宅の間にあった小さな小屋に寝泊りしていたので、この方々の為の食事の世話をするのは婦人会の仕事であったし、宿老も毎日現場に出かけて、気配りをしなければならなかった。
 
旧教会と司祭館

 永田師の司祭館には工事の関係者がしょっちゅう出入りしていたので、その接待をしていた永田師と賄いの中村さんは大変な忙しさであったが、食事の接待の時などは宿老の私も呼ばれて接待に努めた。完成間際になると、足場の撤去作業と教会内外の掃除の奉仕作業が婦人会によって行われたが、これは竹谷、一本松を一組、久志を一組、真浦、島ノ首を一組として二人づつ奉仕させた。

 また、公民館は旧仲知小中学校の校舎を町から払い下げしたもので解体作業、運搬、建築工事においては信徒に労力奉仕をお願いしたが、そのときにもトラックで古材を運ぶ仕事は宿老の私の仕事であった。

 
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