ペトロ 永田 静一師

1975(昭和50)年〜1979(昭和54)年
仲知公民館


漢方薬治療について

 永田師は病弱であったので、日頃漢方薬を常用していたが、べンチを使わないと割ることの出来ない固い漢方薬の原料があった。賄いは少しでもこの漢方薬で元気になって欲しいという願いを込めて一生懸命に漢方薬を作って飲ませていたが、永田師の方はいっこうに効果の現れないことに不満を持ち、その気持ちを宿老の久志氏にもことあるごとに漏らしていた。

 そこで、久志氏は永田師と酒を飲んでいてかなり酒に酔い、しかも師のご機嫌が良いのを見計らって師に「祈りとかけてなんと解く」と問いかけた。師は答えが直ぐに見つからない風であったので、久志氏が「漢方薬と解く」と解答を教える。

 次に「そのこころは」と問う。この質問もわからない風であったので、この時も久志氏が「じわじわと効く」と答える。
神父様は私どもには「何時も祈りばせろ。神様に『今すぐ助けてください』、と祈りの効果を期待してもすぐに効果があるものではない。

 しかし、忍耐強く、辛抱して祈りつづけていると必ず神はあなたの願いを聞き入れて下さるであろう。」と説教されています。それなのに「漢方薬は効かない」というのはおかしいじゃありませんか。漢方薬だって祈りと同じく忍耐強く常用していると、じわじわ効果が現れてくる薬である。だから、神父様もせっかく賄いさんが愛情を込めて作っている漢方薬なのだから、毎日薬と思って一日も欠かすことなく常用してください。そうすれば効果が現れてくるでしょう。

 このことがあってから間もなく米山教会で長崎から里脇司教を迎えて献堂式があり、その祝賀会の席上で永田師は隣りに座っておられる司教様に「仲知の宿老は酒ば飲まないときには馬鹿みたいな顔をしているが、いったん酒を飲むと知恵者になる。」と言ってこの漢方薬のことを話した。司教様は言った。「なるほどね、彼が話したことは本当よ」と司教様も納得された。
 

 司教様は落成式当日午後から奈良尾から長崎へ帰る途中、お土産のお魚を受け取るために江袋の大敷き網事務所に立ち寄ったさい、見送る江袋経営団の団長と漁夫の皆さんにニコニコ笑いながらこう話された。「大漁するようにお祈りしています。しかし、じきには効かないかも」と。
久志氏は仕事で米山教会の落成式には欠席であったが、この話を落成式に出席していた江袋経営団団長の谷口康夫氏から後で聞いたのだという。
 
 

下五島地区司祭の訪問

 昭和54年の秋頃の出来事である。この頃の永田師は体調を崩し、あまりからだの状態は良くなかった。この後、2ヵ月して脳卒中で倒れることになるが、そんな永田師の所へ下五島からひょっこり3人の訪問者があった。

 3人とは福江教会の主任司祭岩永薫師、貝津教会主任司祭の堤好治師、浜脇教会主任司祭の前田万葉主任司祭である。その日、3人は上五島の教会巡りをしていたが、丁度仲知に来た時分に昼ご飯の時間になったので仲知出身の前田師が江袋の大敷き網の責任者である谷口団長から貰ったカツオを仲知の司祭館で食べることになった。

 永田師はもちろん同僚の3人を心より歓迎し、カツオの調理は宿老の久志伝氏を電話で呼び寄せてさせた。魚の調理を任された久志氏が司祭館に来てみると、魚は4キロ余りもあるのではないかと思われる大きなカツオであった。刺身にしてお客の3人と主任司祭の永田師の4人に食べていただき、彼はすぐ側でその様子を見ていた。なっぱ服姿の方が、ものすごく美味しそうに食べていたのがとても印象的で、側でその食べる様子を見ていてとても気持ちよく食わせがいがあると思った。その方とは堤好治師のことである。
 
 

江袋経営団の大敷網風景

 堤師は最初、顔が色黒く、服装もなっぱ服風の姿であったので、どこかの船乗りで車の運転を頼まれて、仲知まで来たのであろうと考えていた。しかし、賄いの中村さんが直ぐにその方は「下五島の神父様ですよ」と教えてくれた。

 その後、仲知教会落成式かなにかの機会に仲知で再会した時に堤師は開口一番こう言った。「久志宿老さん、あの時のカツオの刺身の美味しかったこと、そして、ぺろーとまたたくまに一皿たいらげたことは今でも忘れきらん。また、食べたかよ。仲知は、信者は信心深いし、鮮度のよい高級魚はただで毎日のように食えるし、長崎教区で一番好きな小教区だ。おれば仲知に呼べ。いつでも喜んで来るから。」

 誉められて嬉しくない人はいないもの。久志宿老は「あの神父様がもう一度仲知に来るならまた食べさせてあげたかな」と思うのであった。

 
III、仲知修道院 真浦タシシスターの思い出

仲知教会建設のこと

 
          右側より3人目が真浦タシシスター
真浦タシシスターは、昭和52年4月1日、鯛ノ浦修道院より10年ぶりに古巣である仲知修道院に第8代院長としての重責を担って戻って来た。  

 院長としての最初の大事業は、お告げのマリア修道会として財産統合の仕事をすることであったが、仲知修道院ではさらにより交通の便利のよい所(新魚目町津和崎郷991番地付近一帯の土地で現在は仲知教会敷地となっている)に修道院とその事業所である青空保育所を新築移転することであった。ところが、修道院とその事業所が予定されている土地の大部分は何人もの仲知集落信徒の所有地となっていたので、新築移転のためには所有者と交渉して土地を購入し名義変更をお願いしなければならなかった。 

 幸いにも敷地の交渉はすべて順調に行ったが、名義変更のためにかなりの時間と労力がかかった。というのは、その頃の仲知ではまだ車の免許を持っている人が少なかったので、免許を持っているタシシスターが土地売却予定者の名義変更の手続きをしてあげなければならなかったからである。

 このために着任後のタシシスターは毎日のように新魚目町榎津にある役場に行って籍を取り、それから有川町有川の登記所に行って登記手続きに必要な総ての書類を作成してもらってから、今度はさらに、土地所有者の家に行って印鑑を押してもらい登記所に提出するという面倒な仕事を繰り返していた。

 昭和53年2月になると、どうにか名義変更の煩わしい仕事もひとだんらくしたので、新魚目町浜田組に依頼し仲知修道院とその事業所の敷地の造成工事を開始した。同時にタシ院長は本部から当修道院の顧問であったシスター宮地シメ子に同行して、主任司祭の永田師に修道院の事業の計画を報告しその了解を願おうとした。

 ところが、この席上で、永田師は宮地顧問とタシシスターが思ってもいなかったことを口にされたのである。「あなた方が、修道院とその事業所を造ろうしている敷地と、現在の仲知教会の敷地とを交換してくれないか。しかも、教会の敷地は既に宗教法人になっているので、あなたがたも名義変更がすべて完了してから交換してくれないか。」
この願いの返事は、後日することになったものの宮地顧問もタシシスターも大いに迷うことになった。
 

ここは最初仲知修道院と付属保育所建設予定地であった。

 人間的に言えば永田師のこの願いは厚かましいし、ずる賢い願いである。修道院にとってこの永田師の願いをそのまま受諾することは明らかに大きな損失であることはよくわかっていた。それでも修道院は教会の利益を最優先させた。

 つまり、譲歩されるところは総て譲歩する方針を採ることにして、永田師の願いをそのまま受け入れることにした。このお告げのマリアの本部会長と理事たちの当時の判断を現在タシシスターは回顧して「非常に偉い決断であった」と思っている。というのは、交換する場所の旧教会跡地は交通の便の悪い所であるだけでなく、敷地も狭い上に湿地帯であるため住居には極めて不適当な場所であるからである。そのことをよく解っていながら教会の便宜と利益と優先させての英断であったが、このような英断は信仰がなければできないことである。

 ところで、永田師には永田師の思いと計画とがあった。はっきり心に思うことを遠慮なく口にされる方であったが、この度の発言ばかりは彼が軽はずみに言った言葉ではない。

まず、彼は新魚目町の教育委員をしていてタシシスターがしばしば役場に来て戸籍のことで町民課の課長に相談をしている様子を見ていた。だから、早くから修道院の事業計画を察していた。

 また、その頃は仲知教会の建設が決定していたが、その敷地については旧教会の跡地が狭すぎて敷地として適していないことに頭を痛めていた。他方、修道院が新しい敷地として計画している場所こそが教会の敷地として1番相応しいと考えておられた。だから、永田師としてはそれを口にする機会を待っておられたのである。

 このような経緯で修道院敷地は教会の敷地となったが、教会の敷地はその中央部のみが宗教法人の名義であって、その周辺の土地は個人の所有地のままで名義変更はまだなされていなかった。そこでまたタシシスターは名義変更で皮肉にも東奔西走しなければならない日々が続くことになったが、それでも、教会の利益を優先するというお告げのマリア修道会の精神を考え、これについても何も不平をこぼすことなく受け入れることにした。
 

永田師(その5)へ
 
ホームへ戻る                    
邦人司祭のページへ
inserted by FC2 system