ペトロ 永田 静一師

1975(昭和50)年〜1979(昭和54)年
 
古川ひとみさんの結婚式 仲知教会

礼儀作法

 お祝い日にミサ(秘跡)にあずかる時には祈る姿勢できちんとした態度で参加することが重要である。服装も男は背広とネクタイで、婦人もそれの相応しい服装をして、小学生は清潔な服装で、中学生と高校生は制服姿の最高の行儀で参加するのでなければ神に対して失礼である。

 「神さまは形のない精神的なものだから、形とかどんな服装をしてミサに与るかは自由である」、と考える人もいるが、その考えは間違っているのではないかと考える。

 天使ではない人間の心は、形によって刺激され育ち、成長していきます。心に育ったものが自然に形となって外にあふれてくるものである。身体的な表現と服装を通して信仰が育つという原則は、特に小教区の信徒が参加するミサにおいて表現されて神への心からの礼拝行為になる。この原則をいつも忘れないようにしてミサに与るように導くことが永田師の大切な教育方針であった。

 彼の場合、この教育方針を口で言うだけでなく、自らそれを実践していた。つまり、ミサをいつも丁寧に美しく捧げるという決意で捧げていたので、信徒もシスターも神父様に見習ってミサに与ればよいような雰囲気があった。

 教育委員をしていたので、教育に熱心であっただけでなく、司祭として一番大切な神への基本的なエチケットを司牧の基本方針として常に心がけて指導していたのが印象的である。

永田師と佐藤師の説教

 真浦タシシスターが、昭和52年4月から昭和62年3月までの10年間に仲知修道院院長として仕えた主任司祭は、永田師と佐藤師である。ある時、ある司祭から「どちらの司祭が説教が上手であるのか」と聞かれたことがあった。
結論を言えばどちらの方が上手であるかの返事は出来ない。強いて言えばどちらも持ち味があり上手であった、と言わざるを得ない。
 
 浦上出身の佐藤師は、黙想会の説教によく現れているように、他の司祭が持たない召命体験や原爆体験など家族を巻き込んだ壮絶な信仰体験をなさっていたので、それらの経験をもとに話される信仰体験談はそれを聞く信徒に深い感銘を与えた。

 また、そうでなくても、聞く信徒の顎がはずれるほどの面白い話や泣崩れるほどの話をするのが得意であった。普段の日曜日の説教でも難しい話はせず、一般の信徒にもよくわかるように工夫されて楽しくてユーモアのある話をしていたかので、その話は聞き飽かなかったし次ぎの話の続きはどうなるのかと、待ちとおしいほどすばらしい話をなさっていた。

 他方、佐藤師とは無二の親友であった永田師の方はよく準備された説教で内容のある理路整然とした説教であった。
 
 

 

世間の面白い話よりもミサの時に朗読される福音の説明に力を注いでいた。その説明も教育的かつ福音的な内容の説教であった。だから算数の数字のように上手下手の区別をつけることは出来ない、というのがタシ院長の考えであり、答えであった。
 
 
 
米山教会
米山の素直な子供達(右側より道下・山田姉妹)

見舞い

 真浦タシシスターは三ツ山の老人ホームで療養しておられる永田師を何度か見舞っておられ、その時の印象は「あんなにきれいなすばらしい心を持っておられていたのかと感動した」という印象であった。それでは、具体的にどんな印象であったのであろうか。

 いつ見舞った時の思い出なのかはっきりはしないけれども、神父様はタシシスターを見るなり泣かれた。そして、言われた。「私は米山教会を新築工事したことは失敗であった。米山教会建設促進委員をしていた丸田信次=(仮称)=は教会建設に反対であったが、彼の意見を尊重しないで自分の考えを貫いてしまった。その結果、彼は教会から離れてしまった。今考えるに、その時はもっともっと彼の意見を尊重すべきであった。」こう話しながらも師はオンオンとしきりに泣かれた。びっくりしたタシシスターは泣き崩れる師を慰めて「米山の信者はみんな喜んでいるのにどうしてですか。神父様が陣頭指揮をとられたからこそ完成できたのですよ。

 それにまた、神父様は米山の信者を愛してそのために働き過ぎ、このように病気までしたのですよ。何も後悔する必要はありません。」こう言ってタシシスターは懸命に神父様を励ますように努めたが、その効果もなく、師はますます泣き崩れた。それは脳卒中後遺症から来るものでもあったが、それにしても師の司祭としての純粋な信仰心に触れて深く感動した。

事件の経緯

 永田師に限らず、教会建設というハードな仕事においては司祭と信徒の間で悶着が発生することがよくあるもの。
だからこそ、そのようなことに巻き込まれたくないことを恐れて最初から建設に関ろうとしない司祭もいるくらいである。
基本的に司祭は信徒の霊的な面の指導者であって教会建設など金銭が絡む仕事は宿老(経済評議員)に委ねた方がよいことが多い。しかし、司祭は同時に教会の建物、その付属建築物の管理者でもあるので必要によっては建設にかかわり中心的な役割を果たさなければならないときもある。

 関る時にどの程度のかかわりをすべきなのか、それは司祭によって異なる場合があるが、米山教会の場合、確かに永田師はその建設に深く関り中心的な役割を果たしておられるが、それは信徒の要請があったことと神を愛し、信徒を思う気持ちが強かったからこそである。決して名誉とか野心を求めて建設に関ってはいない。

 そのことを前提に平成13年4月21日米山教会建設委員で会計をしていた山田常喜氏に事件のトラブルの経緯について聞いてみた。

 「仲知小教区史」で紹介しているように米山の信徒にとって教会の新築は夢であったので、昭和43年の入口師の時代からその実現に向けて自主的に積み立てを開始していた。昭和51年4月5日に永田師が着任すると、さっそく7人から構成される新築工事建設準備委員会を発足させ、同年の6月13日に主任司祭永田師の出席のもと下記のことを協議し内定している。

(1)、教会の構造は鉄筋コンクリートとする。
(2)、建設資金 一戸当たり50万円とする。
その内20万円は、昭和52年3月31日まで納入し、残りの30万円は銀行から借りる。
(3)、借入金は、積立金によって支払ってもよいことにする。
 
 

 この後、信徒総会、建設準備委員会が何回も繰り返し開催された。さらに、昭和52年5月12日には、信徒会館で再度建設準備委員会が開催されて主任司祭と建設委員との間で設計図の見直しが行われたが、この席で建設そのものに反対していた建設委員の丸谷信次氏が遅れて出席し隅の方に座った。永田師は鉢巻を被ったままの彼に「信おんちゃん、もっとこちらのほうに来て設計図を見なさい」と声かけをした。するとどう思ったのか「何を言うか、永田、」と、とても厳しい剣幕である。

 その場にいた建設委員の一人が諌めて「何をはらかいとるのか、これから私たちが造ろうとしているのは神父様の教会じゃないのに」「私はこの神父がいる限り金は一文も出さない」と。すると、もう一人の建設委員が「あなたの家族の生活力は私の家族の生活力よりも高いのにどうしてそんな冷たい態度をとるのですか」と。

 立腹しているこの建設委員を説得するには一対一で対話をした方が良いとの判断で永田師は建設委員会終了後に彼とだけ対面し彼の言い分を聞くことにした。その時の話し合いはどうだったのか山田常喜氏も聞いていないが、その後、この信徒は教会から離れた。

 後年この人は永田師の死後、病気で長崎の病院に入院治療をしていたが、回復せず昭和61年ごろに長崎の病院で死亡し、そのお葬式が地元の米山教会で行われた。その司式をした地元の司祭はその説教の中で「私は長崎の病院に入院中の彼を何回か見舞ったが、その時に彼が言い残した言葉は『米山教会建設では大変米山の信徒に特に永田神父様にご迷惑をおかけした。心から後悔している。お許しをお願いしたい。』ということであった。」
天国で永田師はきっと彼の過ちを許しておられるでしょう。
 

 

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