ペトロ 永田 静一師

1975(昭和50)年〜1979(昭和54)年

 
IV、赤波江モミさんの日記帖から

昭和50年2月11日
浜崎神父様、11時30分仲知ご出発。島ノ首までお見送り。

昭和50年7月6日
夕方、永田神父様と久志伝さんが十字架の御像を運んで来て下さった。

昭和50年7月7日
昨日の十字架の御像の祝別と御祝いをする。赤波江直吉さんが集落一同の為にとミサを依頼した。
 

赤波江教会の十字架。
最初の十字架は余りにも台座が大き過ぎたために現在のように
平成7年9月、十字架像に合わせて小さくした。

 
 前列右端が赤波江モミさん


昭和50年9月14日
子供堅信式、教え方に御礼、1000円ずつ集めて11000円になってさらに20円ずつ出して宿老に酒一升やる。教え方謝礼は一万円。

昭和51年2月1日
仲知で2番ミサが終わってから外のマリア様の祝別式。ファチマのマリア様、60万のを40万にまけてもらったとのこと。
昭和52年3月6日
今日はバンチョウつまみ一鉢。役員の改選をし、又、前の通りになった。その時教え方のことも清正さんが言った。3年だが江袋と違うので永田神父様が赤波江の者一人には教えきらんと言われた。それでもうなしにしよう、「おお、それがいい」ということになったが果たしてどうなるか?教え方今日から1000円になって(1戸当たり1ケ月)教会の出し金と一緒に入れる。

昭和52年9月29日
朝7時から常会を外でした。教え方のことと、米山教会の寄付は2万円に決まった。

昭和52年10月3日
米山教会の寄付を宿老さんが集めに来た。
昭和52年11月10日
午後5時から常会、永田神父様もおい出下さった。教え方の事や教え方のしまい(終わり)御礼に一戸当たり1500円出し。

昭和52年11月26日
夕方5時から教えじまい。つまみ2鉢。5時から7時まで行われた。7時に修道院の車が神父様を迎えに来ると言ったが来なかったので静夫が送って行ったら峠であった。

昭和53年2月23日
赤波江の司祭館と集合所の建設の為、積立一万円ずつ。

昭和53年2月23日
午後6時から常会。仲知教会建設寄付5万円、一時金でも分割でもよい。

昭和53年4月6日
午後1時30分からずっと、かわら運び。パンと缶コーヒーを永田神父様が持ってきてくださった。

昭和53年12月31日
11時から教え方のことで常会をして宿老たちが神父様のところへ行ったが聞いてもらえず、又すぐ寄って選挙したら、赤波江直吉方のみどり8票、あとは赤波江安巳方の赤波江カヨ子に入って赤波江カヨ子がなった。

昭和54年3月8日
仲知教会の仕事。公民館の建設で、昼までは基礎工事。コンクリート入れ、午後からは浜から材木揚げ。

昭和54年5月2日
永田神父様、外国へ。

昭和54年6月10日
永田神父様、帰国。今日からミサ。

昭和54年7月1日
今度の宿老は赤波江松市さんがなって、永田神父様から辞令をもらった。ミサが赤波江で6時。

昭和54年7月8日
赤波江松市さんから晩の9時過ぎ電話。明日、司祭館の建設の為、みんな仕事に出るように放送した。

昭和54年7月19日
又、仕事の放送を6時にした。朝8時から仕事、静夫方に材木積みに行く。夕方、又永田神父様がおい出になってパン一個、コーラ1本ずつ頂いて、ウィスキー一びんさし上げて建家終わり。バラ板など打ってしまった。

昭和54年7月23日
司祭館屋根ふき。カワラ150枚ばかり足らず、清正方のを借りて12時過ぎ終わった。缶ジュース、さしみ、菓子などでしまいをした。

V、思い出

(1)、ミサの司式がきれいな永田神父様
         福岡サン・スルピス大神学院 白浜満

 
 
古川ひとみさんの結婚式 旧仲知教会

 背がすらっとしてハンサムな永田神父様が、仲知小教区に赴任して来られたのは、私がちょうど小学校を卒業したばかりの頃だったと思います。永田神父様から私が受けた第一印象は、ミサの司式の動作がとてもきれいなことでした。大きく両手を横に広げながら、ていねいにミサを司式されるその様子は、からだ全体で、私たちにミサの素晴らしさを教えてくれているような気がしました。

 今でも、私の脳裏には、永田神父様がミサを司式していたときのお姿が鮮やかに蘇ってきます。説教のときには、祭壇の前に進み出て、私たちに語りかけるように、お話をしてくださいました。永田神父様はとてもお話が上手な方で、米山教会で日曜日(あるいは土曜日)にミサを司式された後にも、私たち小・中学生のために、教会で二〇〜三〇分ほど、いろいろなお話をしてくださいました。とくに、私たちがあまり聞いたことのなかった旧約聖書の物語は、興味深いものでした。この時間が私たちにとって、永田神父様と触れ合う機会となっていました。

 それからおよそ一年後、中学一年の三学期に、私の心の中にどのような変化があったのか、「司祭になりたい」という気持ちを、私は永田神父様に打ち明けることになりました。米山教会で、ある土曜日のミサが終わった後、いったん家に帰って風呂に入っていた私は、永田神父様から呼ばれてすぐに飛び出し、神父様のところへ行きました。神父様はミサを終えて、仲知の司祭館に帰ろうとしているところでしたが、道端で私が来るのを待っていました。永田神父様は、私が神学校に行くことをとても喜んでくださり、小神学校への編入手続きをしてくださることになりました。

 永田神父様の種々のご配慮で、その編入試験を受けることができた私は、中学二年生の時から神学生としての生活をスタートしました。何も分からない私が、召命の道を歩み始める上で、永田神父様から受けた影響は大きかったような気がします。その中でも、私はとくに「ミサを大切にする」ことを、永田神父様から教えられました。
 
サン・スルピス大神学院で

 私が冬休みで帰省していた時のことです。仲知教会での朝のミサが終わった後、永田神父様は私に、司祭館で少し暖まって行くように声をかけてくださったことがありました。神学校の休みで家に帰ってくると、巡回教会に所属していた私は、毎朝のミサのために、実家がある米山から仲知の教会まで、約4キロの道のりを歩かなければなりませんでした。朝6時から始まるミサのために、その1時間前には家を出なければなりませんでした。

 このような私のことを、永田神父様は心にかけてくださっていたのでした。永田神父様のお言葉に甘えて、賄いの中村さんが準備してくれた朝御飯を一緒に食べていたときのこと、永田神父様は私に「冬になるとミサに来るのはたいへんでしょう。でも頑張りなさい。お恵みは大きいですよ!」と励ましてくださいました。永田神父様のこのような温かい言葉と共に、永田神父様がきれいな動作で熱心にミサを司式されるその姿が、「ミサを大切にする」心構えを、私の心の中に植え付けてくださったような気がします。
 
左側が白浜満師

 それから永田神父様は、召命を育てることに力を注いでくださり、休みで帰ってきた神学生や志願者のために、聖母被昇天のころやクリスマスには、司祭館に私たちを集めてくださいました。またとくに私たち神学生には、休み中に教会関係の色々な奉仕の機会を準備してくださいました。永田神父様と一緒に信徒会館のペンキ塗りをしたこともありました。召命の道を歩み始めるときに、私をこのような永田神父様と出会わせてくださった神様に心から感謝したいと思います。

 今、私自身も司祭となる恵みを受けて、大神学校という召命を育てる場所で働かせていただいています。「本当に司祭になってよかった」と心からそう思います。私を神学校へ送り出してくれた永田神父様が、召命のために力を注いでおられたこと、またミサを大切にしておられたことを心に留め、永田神父様の後ろ姿から私が学んだことを、一緒に生活をしている神学生の皆さんにも伝えていくことができればと願っています。

(2)、仲知教会建設のこと
      仲知教会信徒 久志半助氏 

 
 
仲知教会

天国で如何お過ごしでしょうか。亡くなられて早や8年が過ぎましたが、昨日のことのような感が致します。
神父様は、仲知に赴任されて息つく暇もなく、たくさんの仕事を手がけられ素晴らしい業績を残されました。てきぱきと物事を処理された在りし日のことが思われます。そのころ仲知では教会墓地の改修が話題となっておりました。神父様は、早速これを手掛けられ見事に成し遂げられました。
巡回地の米山では、教会の新築の話が持ち上がり、見事な教会が完成しました。津和崎瀬戸を通過する船の上から緑の中に白い教会の塔がのぞまれます。
 
 

工事経過報告をする久志半助氏

 仲知では戦後、教会が新築されましたが、材料等粗悪なうえ白蟻におかされ、立て直しを余儀なくされておりました。神父様の卓越した手腕とご指導により、立派な教会の完成を見る事ができました。献堂式が行われたのは、昭和53年12月4日のことでした。明けて6月頃から公民館の建設に取り掛かり、8月、お盆前に完成したように記憶しています。

 8月21日、暑い日でした。ペンキ塗りが残っていましたので、神学生と一緒に神父様御自ら、ペンキ塗りをなさったそうですね。それまでの過労も重なり、その晩に倒れ半身不随となられ、7年間の闘病生活も空しく帰らぬ人となってしまわれました。誠に残念でなりません。忘れもしません。献堂式が終わって間もない正月の御ミサを終わった時、玄関に二斗樽が用意され、神父様御自ら注いで、信者に振舞われました。「教会に酒」と少し違和感がありましたが、献堂式に与かれなかった人や里帰りの人達のための心遣いに感じ入りました。

 神父様は時々、ユーモアを交えて「光は仲知から」と言って笑わせておられました。「物入れは出来たが、中身が大切だ」とも言っておられました。建物に恥じないよう信仰生活においても充実した日々を送らねばと思います。私達は「あの時、教会を建てていてよかった。今ではなかなかできないかもね。漁はないし」と異口同音に感謝を込めて言っております。只今仲知では、教会を中心に生活が営まれている感が致します。常に祈りの声のこだまする里となるよう頑張りたいと思います。神父様、有難うございました。

「要理教師の友」冬 88号 拝啓主任神父様より
 
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