ペトロ 永田 静一師

1975(昭和50)年〜1979(昭和54)年
 
(3)、父なる神の御手の中で
     宮崎カリタス修道会シスター 真浦直美

 ”この道の広さよ!”そうつぶやきながら宮崎カリタス会志願院の前の道路を横切ったのは、今からもう23年前。今思い出してもおかしくなる仲知から初めて都会に足を踏み入れた田舎娘のつぶやきでした。

 入会して1週間は楽しく過ごしているかに思えたのですが、その後ホームシックにかかり、布団の中でシクシク泣きました。父母、兄弟姉妹を思い、快く見送ってくださった神父様、信者の皆さん、話し相手、遊び相手をして下さったシスター方、そして12年の間お付き合い下さった沢山の友達を思い泣きました。

 「仲知からわざわざこんな都会に来てしまったのは、やっぱり間違いだったかな。」悪魔のささやきが一、二年続いたでしょうか。新しい環境になかなか打ち解けられないまま誰に相談することもできず、とても大きな苦しみでした。いつの頃からか気付かぬうちにその苦しみを乗り越え、都会での学生生活をも楽しめるようになりました。

 破目を外しては先生やシスター方にしかられることも度々ありました。また、もともと茶髪の私は不良に間違えられ呼び止められることもありました。今思えばあれもこれも楽しい思いでであり、今こうして修道生活を送っている私にとって必要な体験の一つ一つとなっているように思います。

 学生時代、年に一度の帰省は志願者にとって一番の楽しみでした。東京駅始発の新幹線に乗るために、朝3時ごろからごそごそし始め4時ごろには志願院を後にしていたでしょうか。大きな荷物をその日に限り軽々と持ち上げていたのは私だけではなかったようです。名古屋、大阪、小倉の組は、それぞれの駅で満面の笑顔に迎えられ、帰っていきました。

 長崎組は、6時間揺られた後、博多で乗り換え長崎に向けて3時間。さらに五島組は親戚の家に一泊して明日の船を待ちます。船に乗り込んだ瞬間から胸の鼓動が高鳴ります。3時間あまりの船旅はほとんど潮風にうたれながら甲板で過ごしました。地平線に浮かんでくる島を一番に見つけるために。乗り物に弱い私でしたが、仲知に向かう乗り物の上では一切酔いを感じることはありませんでした。

 仲知を離れ22年の間、休暇を頂いて帰る度に仲知教会の変化を見ることができました。22年前、前で祈る子供たちの祈る声大勢の声が響き合ってたのもしく、後では母親たちが子供たちの動きに目を光らせながら祈る声には力がありました。
 

 10年位前でしたか、答唱詩編など子供たちの歌声が響き仲知教会の新風を感じました。5年前子供たちの少なさに驚き、後では少し腰の曲がった母親たちの声にもちょっぴり寂しさを感じるものでした。そしてついこの間帰った時は子供たちの数を補うように、これまでちらほらしかみえていなかった父親達の姿が沢山ありました。なんだか不思議な光景でした。その祈る後ろ姿を見るときまた違った意味で仲知教会の力強さが感じられました。
 
平成10年、仲知教会でのクリスマスミサ風景写真
同上

 
同上

 祝い日に喜びの酒を一緒にと寄って下さる伯父さん達、酔いが回ってきた頃には必ずといってよいほど、信仰だの聖書だの、修道女の会話を上回るものを聞かされたものです。

 今から200年前どんな思いで何を希望してここ仲知に移り住んだのでしょうか。先祖たちの血と汗と涙で築き上げ守られてきた教会、そして、受け継がれてきた信仰、仲知に生まれ育った私達にとって無償で受けた最高の宝だと思います。200年を期してこの恵みを思うとき、父なる神の御手のぬくもりを強く感じます。それと同時に、200年前の先祖たちの思いが伝わってくるようです。

 また先祖への感謝と共に、信仰共同体としてのすばらしい環境を守り続けてこられた皆さんへの感謝で一杯になります。受け継いだ宝を私なりに磨きながら、その輝きで多くの人にも神の愛を伝える道具として生きてまいりたいと思います。父なる神の豊かな祝福がお一人お一人の上にありますように。

「仲知小教区史」より
 
(4)、「仲知・江袋の重み」
      江袋教会出身・サレジアンシスターズ 尾上昭子

 
純朴な江袋の子供達
 
 私は故郷の江袋に里帰りするたびに、いつも「不思議な感覚」に襲われる場所がある。そこは地名通り袋のように江になっている「江袋」の一番端にある墓地である。そこには、祖父や祖母、親戚、知人など江袋で信仰に生きて来た多くの人々が、安らかな眠りについている。なぜ、「不思議な感覚」なのかと言うと、1番上の段から村を眺めたときに、自分自身の中に歴史の重みのようなものを感じるからだと思う。そこに立つと、百年以上も信仰の拠り所となっている「江袋教会」(カリタス会の叔母のシスター曰く、「江袋の教会は独特の香がする」とのこと。

 それ以来、私も味わうようにしている)を取り囲むように家々が建っているのが見え、先祖の代から「神を中心」に生きて来たということが分かる。そして、信仰を守り、語り継いで来た先祖の方々が今の江袋の人々を守って下さっていることを感じ、また今は江袋に住んでいなくてもここで育った人々を守って下さっているということを強く感じるからである。

 墓地の階段を登りつめた段のすぐ右側に、江袋に信仰を根付かせた先祖の遺骨と共同の墓地がある。小学生の時に先生が、「今の墓地とは違う、反対側の山の中にお墓があるというのを聞いたがどのあたりなのか?」と母に聞いていたが、山とは言っても大きいし、連れて行けるような所ではないらしく、母もはっきりとは答えていなかったように思うが、「どうして墓地ではなく、山の中にあるんだろう?」と思っていた。話によると江袋のかつての信者が赤痢にかかり山の中に埋葬されたそうである。
 

江袋キリシタン先祖の碑

 そして私が中学生の頃、佐藤神父様の許可を得てその山の中のお骨を掘り出し、信者の墓地に移し変えることにし私も父たちについて行った。

 お墓はひんの首と高峰の真ん中辺りで、海側からではなく、山道から降りて行った。ものすごい年月が過ぎているということで「骨があるかどうかも分からない」と話しながら、その山の中の墓地に辿り着いた。そこには四角い小さな石で出来たお墓が幾つかあり、村からこんなに離れた場所に本当に人知れず埋葬された感があった。

 そして、それを見たときに不思議に思ったことは、「信者なのにどうして『南無阿弥陀仏』と彫られているんだろう?」ということだった。その時代信仰を隠すためだったのか、または信者でない人が埋葬してくれたからなのか分からないが、この地に生きていたということは、まぎれもなくカトリック信者であったということである。掘り起こしてみると少しばかりの骨が残っており、「あったぞ!」と宝物を探し当てたようなおじさんたちの嬉しそうな声が聞こえてきた。

 そこにはお酒を持って来ているおじさんもいて、祝い酒のように座り込んで飲んでいた。拾った骨はすぐに、教会下の公民館に安置され、「お帰りなさい」というような思いで江袋の信者・子孫たちが集まり、祈りを捧げた。そして、日を置かずに現在の共同墓地に埋葬された。

 昔から、仲知に住む人が全員信者であると言うことは、神の恵みの中に生かされているという証である。そして、その信仰は教会の中心に、村の人達の祈りと労働、神父様や宿老さん、教え方さんの労苦と犠牲の上にあるのだと思う。私はこうしたすばらしい土地に生を受け、育てられ、そして修道召命をいただいたことに感謝している。

 そして、この仲知・江袋のように神をいつも真ん中に据えた生き方をして行きたいと思いながら、今置かれた場所で子供達のためにサレジアンシスターズとして生きている。

 「主よ、あなたからいただいた大きな恵み(お金では買えないものばかり)に感謝いたします。命を賭けて信仰を伝えて下さった宣教師、神父様方、宿老や教え方さん、お告げのマリア修道会のシスター方、先祖、村の人たち、両親に沢山の祝福をお与え下さい。そして、これからも感謝の心を持ち続け、信仰の生命をたくましく育て、今生かされている場所で実らせることができますようにお助け下さい。主・キリストによって。アーメン」

 主の平安

  神様のご保護を祈りつつ
 下口神父様、いかがお過ごしでしょうか。
 深堀教会でのお仕事は大分なれましたでしょうか。
 仲知教会での7年間の司牧はどうも有り難う御座いました 。そしてお疲れ様でした。
 母たちは神父様のご指導のお陰で聖書をとって読み親しみイエスさまへの信仰を身近に感じることが出来るようになっているようです。

 仲知教会に設置されたステンドグラスを見るたびに私達は神父様のことを思い出すことでしょう。また、この度はさらに歴史に残る「仲知小教区史 姉妹編」を出版されるということで本当にご苦労さまでございます。
 思い出を辿り少し書いてみました。このような思い出でもよろしいでしょうか。
これからも神父様の上に豊かな祝福がありますように心よりお祈り致します。

 
尾上昭子
 

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