ペトロ 永田 静一師

1975(昭和50)年〜1979(昭和54)年

 
VI、永田師の言葉
 
 
 
昭和53年12月、仲知教会献堂式ミサ
中央が里脇大司教でそのすぐ右側が永田静一師
 
 
 あなた百まで、わしゃ九十九まで・・・・・・長命を希う人間の願望を表すものとして、酒の席などでよく歌われる歌詩の一部ですが、人生わずか50年と云われた時代ならいざ知らず、平均寿命が大幅にのびた現今では、少々迫力に欠けるきらいの百ですが、それでも尚、百歳まで生きると云うことは、まれな長命ですし、百年という数は、一世紀を生きるものとして、重要な意義の数字です。

 仲知小学校がはじまってから百年、このたび、創立百周年の輝かしい歴史の節目の年を迎えたことを心からお祝い申し上げ、皆さんと、喜びを共にしたいと思います。
この、すぎた百年といっても、激動する歴史の中で、最も大きな変遷進歩、発展のあった時代です。この時代に存在した、仲知小学校も、この時代の苦しみと共に苦しみ、この時代の喜びを、自らの喜びとして、今日まで歩いて参りました。

 一口に百年といっても、激動する歴史のなか、いろいろの波乱をのりこえて、今日のよき日を迎えることが出来ました。ここ数年来、あちこちの学校で、しきりに百年祭の記念すべき行事がおこなわれておりますが、我が国が長い間の鎖国の扉の開いて、明治の新政府が誕生し、世界にはじめて目をむけた時、真っ先に力を入れて手がけた事が、学校教育制度の普及にあったことは、まさに大英断で、当時の為政者の賢明な施策であったと思います。

 そして次から次へと学校が建てられ、どんな山奥でも、どんな離島、奥地でも教育の場がととのえられて、すべての人に教育の機会が与えられていったことは、すでにその時、今日のこのすばらしい日本の繁栄の礎が築かれたと云っても過言ではありません。

 現在では、9年もの間義務教育が行われ、そのため多少なり読み、書き、計算の出来ない人は一人もいませんし、これ程教育のゆきわたった国は世界にその類を見ない位です。

 然し、現在でこそ学校はどこも立派な建物になり、設備は整備されておりますが、昔は決してそうではありませんでした。我々の大先輩たちは、それこそ寺子屋式の恵まれない不満な環境の中、しかも交通の甚だ不便な所を長い間歩いて、学校に通ったものでしょう。特にこの仲知では一しおその程度が強かったと思われます。
 

手前が旧校舎。永田師の時代に解体され、その一部は仲知教会公民館として建て替えられた。

 しかし、そんな中にも、毎年毎年、沢山の先輩達が次々と立派に巣立っていき、一年一年が積み重なって、今日の百年と云う年を迎えたわけです。そしてこの百年祭を迎えるに当たって、私達が特に思いをはせなければならないのは、現在でも相当にへんぴなこの土地に、昔の不便な時代に赴任して働いて下さった歴代の校長先生や、沢山の先生方の一方ならぬ御苦労と涙があったことを忘れてはなりません。

 学校と云う所は、単に知識だけの吸収の場ではなく、もっともっと大切な人間形成の場であります。
木の良し悪しは、その結ぶ実によってわかる、と云われます。

 仲知小学校のねうちは、その実である卒業生の皆さん一人一人によって評価されるでしょう。家に家風と云うものがあるように、学校には校風があります。百年の記念すべき年を祝うことの出来た皆さんは、先人達が営々として築きあげたこの学校の伝統と校風を受けついで、益々これをみがきあげて、よりよいものにし、又次の百年に向かって、あとの世代にバトン・タッチしなければなりません。

     「仲知小中学校百周年記念誌」より

ペトロ・永田静一師帰天

 ペトロ永田静一師(前仲知教会主任)が昭和61年6月10日午前6時34分、長崎市聖フランシスコ病院で帰天された。59歳。
永田師は、昭和2年3月、南松浦郡有川町鯛ノ浦に生まれ、昭和27年3月に大浦天主堂で司祭に叙階された。
その後、平戸教会を始め4教会で助任司祭を務められたが、肺を煩い、暫く療養生活を余儀なくされた。

 病気回復後は大田尾教会主任を経て、昭和50年仲知教会主任として働いておられたが、米山教会、仲知教会、司祭館、信徒会館新築工事などで東奔西走する内病に倒れ、その後は、恵みの丘・ときわ荘(長崎市三ツ山町)で再び療養生活を送る身となった。
 
 

 ここで6年の間、懸命な努力でリハビリに励み、順調に回復へ向かっていたが、今年2月から病状が急に悪化。危篤状態が続いていた。

略歴

昭和2年3月、南松浦郡有川町鯛ノ浦に生まれる。
昭和27年3月司祭叙階
昭和29年1月平戸教会助任
昭和30年6月三浦町教会助任
昭和33年11月聖フランシスコ病院、東京桜町病院、大司教館にて療養。
昭和37年5月大田尾教会主任
昭和50年2月仲知教会主任
昭和55年9月ときわ荘にて療養
昭和61年6月10日聖フランシスコ病院で帰天
昭和61年6月11日、浦上教会にて教区葬。
赤城聖職者墓地に埋葬。
 

パウロ・山口愛次郎大司教ご帰天
    人間味豊かなお人柄

 前教区長パウロ山口大司教は、昭和51年9月24日午後11時7分、入院中の聖フランシスコ病院で帰天された。
現役引退後は大浦の大司教館で祈りと黙想の日々を過ごしておられたが、高齢のうえに肺炎を併発、ついに神のもとに召された。享年82歳。

略歴と活動

長崎教区長(1937〜1969)
出身 長崎市橋口町
叙階 1923年12月 司祭叙階
    1937年11月 司教祝聖
活動

 1924年、鯛ノ浦教会主任司祭として司牧に当たる。1926年、長崎公教神学校教授として神学生教育に専念。1930年中町教会主任。1936年、鹿児島教区長に任命され、鹿児島へ赴任。翌年9月15日、長崎教区長に任命され、11月司教に任命される。

 第二次大戦中、1943年には日本海軍要員としてインドネシアに赴任し、現地信徒の司牧にあたり、終戦を迎える。帰国後は原爆で崩壊した浦上天主堂の再建、中町天主堂、大浦天主堂の修復にとりかかる。信徒の活動の活性化を図り、男女の修道会を招請する。邦人修道会の育成にも意を注ぎ、汚れなき聖母の騎士聖フランシスコ修道会の創立、聖碑姉妹会の統合などを果たす。1959年大司教に任命される。1962年から1965年まで開催された第二バチカン公会議に参加。長崎県公安委員長、学校法人純心学園理事長なども歴任された。

 人間味豊かな人柄は、信徒たちと非信徒たるを問わず、深く慕われ、包容力のある柔和な人として広く知られていた。1969年大司教館に引退されてからは、リュウマチに病む不自由な身ながらも痛みに耐えて規則正しい生活を送られた。妹さまのお世話を受けながらきちんと椅子に座りロザリオを手にしながら祈りと黙想に専念された。
 

 

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