ペトロ 永田 静一師

1975(昭和50)年〜1979(昭和54)年

 
追悼、1

いましばらくのお別れ
         長崎司教区司教団代表 浜口 庄八

 
 
  長崎大司教区 山口大司教
 
 山口大司教様  カトリック長崎大司教区の司祭団を代表して、私が、あなたに「しばらくのお別れ」のことばを申しあげる任を負わされました。

 私は、「しばらくのお別れ」と申します。それは、私たちは聖書の教えに従って、「地上の生活が終わったのち、神からくださる人間の手で作られない永遠の住いが天にあることを知っている」からで、私たちも、間もなく新しいいのちに生れかわり、永遠の生命を共にすることを信じているからです。

 「わたしは復活であり、いのちである。私を信じる者は、たとえ死んでも生きる」と教えてくださる救い主のお言葉を信頼し生涯、その信仰を生活の中に生かし続けた大司教さまが、今永遠のいのちのよろこびに迎え入れられていることを、私たちは確信しています。とは申しましても、か弱い私たちにとって、別離のかなしみはどうすることもできません。

 しかし、悲しみの中にも、主イエズスの御約束に対する絶対的な信仰と希望をもって、あなたがお残し下さった、神と隣人に対する愛の道跡を辿り、同じ復活の勝利を目ざして生き続けることこそ、今大司教さまが、何よりも強く私たちにお求めになることであり、およろこびになってくださることと信じます。

 山口大司教さま、あなたがお過しになった聖い御一生とはどんなものであったか。昨夜、盛大なお通夜の間に、私たちは、現教区長里脇大司教と副教区長中島神父様のお二方から色々お聞き致しました。

 山口大司教さまとは、どんなお方であったか。あなたのお人格をしのぶよすがとして二、三のエピソードを思い出してみたいと思います。

 最初に山口大司教様、私たち教区の司祭八十四名のほとんど全員が、あなたの直接の教え子か、あなたの手によって司祭に叙階されたものであることをおぼえていらっしゃいますでしょうね。

 昭和二年の四月、私たちが長崎公教神学校に入学した時、若い山口神父であったあなたは、ラテン語の先生兼舎監として神学校においでになりました。

 当時、私たちは、目の前では、「神父さま」とお呼びしていましたが、あなたの目のとどかない所では、「愛ちゃん」と呼び合っていたことを御存知でしょう。

 これ程あなたにふさわしいアダナはないと、今も私は思っています。

 あなたは文字通り「神と人との愛」を生き通したお方でした。そして、その愛の実践は「愛次郎」と言った堅苦しいものではなく、「愛ちゃん」にふさわしい、やわらかい、あたたかいものでした。

 あなたは、きびしさをやさしく表わす術を心得ておられました。
 私たち神学生は、中学四年生の時、あなたが四十年間お過しになった、あの赤レンガのお部屋の上の広間を、寝室としてあてがわれました。神学校の校則には、昼間許可なく寝室に入ること、道路に面した窓から外を見ることが禁じられていました。
 或日私は、この二つの校則を同時に破っている現場を、舎監の山口神父であったあなたに見つかってしまいました。

 あの時、あなたは一言もおっしゃらずに出て行かれました。十日ばかり経って、私は山口神父よりの呼び出しを受けました。どんな罰を受けるのか気にしながら、お部屋に入りました。

 その時、あなたは、やさしい笑顔で、「今の君には納得できないこともあろうが、校則は、それ相当の理由があって定められているのよ、だからこれから守るね。現場で直接注意しようかと思ったが、あの時は、少しでも感情的になってはいかんと思ったからやめた、分ったか」とおっしゃいました。そして「ハイ」と答えた私に「分ったらおみ堂に入って、つぐないの為メデタシを一ぺん唱えて、又ここに来なさい」と言われました。私は言われた通りしました。二度目にお部屋に入ったとき、たしかお菓子か何かを私の手ににぎらせ、私の肩に手をおいて「人間は感情に負けたら駄目だよ」とおっしゃって私を解放して下さいました。

 大司教様、あの時のことは今日まで私の心から離れたことはございません。
 私が神父になして頂いてから二十五年目の記念日に、このことを申しあげたら、あなたは、「そうかな、私には全然記憶はないよ」とお答えになりました。きっとそれは、本当だったのでしょう。私にとって一生忘れることのできない出来ごとでもあなたにとっては全く当り前のことだったのでしょうから。

 山口大司教様、このひとことなり私はあなたをまねたいと今日まで一生懸命努力して来たつもりです。そしてこれからも努力を重ねる覚悟でいます。
 山口大司教様、あなたについて話す人は皆、まるであなたは人の形をとった天使ででもあったかのように言います。
 しかし、あなたには人間らしさも少なくありませんでしたよね。

 私はかって、あなたの命により、前のカトリックセンターの責任者として、十年間の年月を過ごしました。赤レンガ造りの三階にあった私の寝室は、東と南がふさがり、西と北だけがあいていました。太陽が部屋に入るのは真夏の午後だけでした。後で気についたのでしたが、あなたが四十年間お過しになったお部屋と全く同じ条件でした。

 私は夜もねむれず、その苦しみを訴えて大浦にあなたのお部屋を訪ねた事があります。その時、あなたはこうおっしゃいました。「私の所も同じよ私はね、或人に教えてもらって、寝る前に、少しずつウィスキーを飲むことにしたら、ねむれるようになったから、あなたもやってごらん」と。

 大司教様、この御指導も私は忠実に守って参りました。ただひとこと忠実でないのはあなたは「少し」とおっしゃったのに、その「少し」が段々沢山になったことだけです。
最後に、御引退になる時まで私は大司教様と生活を共にしていましたね。

 私は時々魚釣りに行き、自分がつったのより、人が釣った真鯛をもらい、夕食の間に合うよう急いで帰っていました。釣り立ての鯛のサシ身が食卓に出ると、あなたは「これだけでは淋しいね、一本つけて出しなさい」と炊事場の方に声をかけてくださる程に人間味豊かなお方でもありましたよね。

 山口大司教様、もっともっと思い出話しを続けたいのですが、あまり長過ぎて、御列席の方々に迷わくをおかけしますので、ここでやめさせて頂きます。

 最後にこれだけはつけ加えさせて下さい。
 あなたの洗礼名はパウロです。かって、第一のパウロは、御自分が信仰に導き入れた、コリントやフィリッピの信者に向って、「私がキリストを真似て生きているように、あなたたちも、私をまねて生きなさい」と、何べんも繰りかえして書き送っています。

 私たち教区司祭一同は、この世での、最後のお別れに際して、全員心を一つにして、「山口大司教様、あなたがキリストをまねて一生を生き抜かれたように、私たちもあなたを真似て生きるよう努力します」と申しあげます。

 これから天の御父のおひざの上から私たちを見守り、導き、私たちのため、全能の神である御父のお助けをお取り次ぎ下さい。
 では大司教様、いましばらくさようなら。
                        

一九七六年九月二十七日
「カトリック教報」 昭和51年10月15日発行号より
 
追悼、2

あの柔和な眼差しで
         長崎大司教区信徒代表  浜口 澄衛

 山口大司教様 あなたは、とうとう私たちのところから旅立っておいでになりました。あなたの訃報に接し、私たち信徒一同は、深い惜別の情を禁じ得ません。

 大司教様は、その五十三年の司牧生活、とくにその三十五年間の教区長としての重責にあって、数百年の風雪に耐えてきた尊い信仰の遺産を、不足の多い私たちが受け継ぎ、さらにそれを成長させていくよう、その柔和な心で激励、指導してくださいました。本当にありがとうございました。

 あの宗教的にも社会的にも困難の多かった第二次世界大戦と、それに続く戦後の混乱期に、その責務を全うしてこられたことを考えますとき、ただ、ただ、頭の下がる思いでございます。

 大司教様は、このようなご苦労の中で私たちの教区長としての任を果たしておられながら、そのことを顔にも口にも表わさず、ひたすら、神様の栄光と人への奉仕に生きられる柔和な慈父の姿で私たちに接してくださいました。にもかかわらず大司教様に満足に応え得なかった不肖な私たちは今、深く恥いっております。心からお許しをお願いいたします。

 また、ご勇退なさいましてから今日までの七年間も、私たち信徒の上を案じ、不健康なお体にもかかわらず、すべてを私たちのために捧げ、毎日お祈りしてくださっていたと聞き及んでいますが、そのご配慮、その愛情の深さに心から感謝いたしますと共に、大司教様のお心を、十分にお慰めできなかったことを、おわびいたします。

 大司教様、私たち信徒は、里脇大司教様を始め、あなたが育んで下さった、そしてあなたの足跡を辿ろうと努めていらっしゃる神父様方のご指導のもとに、信仰の遺産をいつまでも伝え、あなたと、相まみえる日まで、神の国建設のため努力する決意でございます。

 どうぞ、あの柔和な眼差しで、私たち長崎教区の信徒一人ひとりを、いつまでも、見守り続けてください。
 完成された神の国でまたお逢い出来るようこれからも努力いたします。

昭和51年9月27日
「カトリック教報」 昭和51年10月15日発行号より
 
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