邦人司祭のぺージ
イグナチオ 中田 藤吉師

1906(明治39)年〜1914(大正3)年

 
顔写真
 明治39年、上五島地区では青砂ヶ浦小教区に次いで仲知小教区が2番目の小教区として設立され、仲知教会が主任座教会となった。これまで仲知地区では江袋教会が主任座教会であったが、交通の便と地理的な諸事情から仲知小教区の各信徒集落の便宜を図って、真浦浜から近いところに建てられている仲知教会に主任座が移された。
 そして、イグナチオ・中田藤吉師が仲知小教区の最初の主任司祭として着任された。

 この頃の仲知小教区は大水、大瀬良、小瀬良、江袋、赤波江、仲知、米山、瀬戸脇、野首の9つの信徒集落を擁していた。

 師については、江袋教会の長老・尾上ミキ(99才)さんが、初聖体を授かり、堅信の秘跡準備をしてくださった司祭として、今でも少女時代の懐かしい思い出としてはっきりと記憶に留めておられる。

 そこで、この彼女の貴重な信仰体験を当時の教会の資料によって補いながら、その頃の初聖体と堅信の秘跡はどのように行われていたのかを考えてみることにしたい。
 

初聖体のエピソード

 
 
◆初聖体記念 昭和38年

 

 現在の教会では、初聖体は保育所か幼稚園卒業後の7歳の頃に授かるのが一般的であるが、明治の末期までは長年の準備をしつけられた後12歳か13歳になってやっと授かっていた。

 明治32年生まれの尾上ミキさんの初聖体は12歳(明治44年8月20日)の時であった。その何日か前には初告白があった。
初聖体を受けるためには何十年も江袋教会の教え方(カテキスタ)をしていた浜上カヨさんから厳しい宗教教育(公教要理)をまる3年間も受けた。

 ところが、尾上さんは初告白を受ける際、「御聖体の中に本当に復活されたイエス様がいらっしゃるのだろうか」とキリスト教の教義に疑問を抱いた。そう思ったことに罪悪感を覚えながらも少女は恐れつつ司祭がおられる告白部屋に入り、そのことを正直に告白した。

 彼女の告白を聞いて下さった青砂ヶ浦教会の大崎神父様は彼女の告白のことを曽根教会でのミサの説教で取り上げられた。
「復活されたイエス様を今私たちの手で触れることは出来ません。目で見ることも出来ません。

 しかし、感覚ではなく、信仰の心で復活のイエス様を信じることができます。聖書をよく読み、イエス様がこの地上の生活で話されたことや行われたことを黙想することによってイエス様が御聖体にましますことを少しづつ信じることが出来るようになるのです。

 しかし、御聖体への信仰に疑いの心が生じたとしても、それだけでは罪にはならないから安心して差し支えありません。」

 このミサの説教を聴いた曽根の親戚の信徒が、後日江袋に来て話すのを側でじっと聞いていたミキさんは心の中で「それは私のことたい」と思ったそうです。

 
堅信の思い出
 
 
◆江袋教会で祈る在りし日の尾上ミキさん 平成2年

 

 尾上ミキさんは、初聖体を受けて1年9ヵ月後(大正2年5月3日)、江袋教会で堅信の秘跡を受けている。

 「教え方は初聖体のときと同じ浜上カヨさんで、堅信の秘跡の執行者は体の大きな外国人の司教様だった。

 司教様を乗せた村船を先導にして、各集落の村船が5、6曹大漁旗をたなびかせながら一塊になって高峰の鼻に見えると、小さな胸は感激でいっぱいになった。いよいよ舟が近づくと、それまで司教様を迎えるために朝から長いこと江袋の海岸に待機していた受堅生とその親、それに全信徒がラテン語で「ビーバ、パパ」の歌を歌って出迎えた。

 堅信式は8つの巡回教会の子供たちも一緒だったので大変荘厳であった。そのときばかりは教会の内と外も立錐の余地のないほど人で溢れた。2階の楽廊に上る段階もすでに人でいっぱいで聖歌隊は樂廊に上れなくなる事態が発生し、江袋集落の青年たちが梯子を持ってきて上らせた。

 また、教会の下の庭には、堅信式の時に人が大勢集まることを誰から聞いて知ったのか知らないが、立串集落の駄菓子屋のおばさんがアメを売りに来ていた。
 堅信式が終わると、受堅生の親たちはアメを買って、子供たちに食べさせていた。」

 当時の堅信簿を見ると、そのときの堅信式の執行者は、コンパス司教で、受堅生はミキさんがおっしゃる通り、瀬戸脇、野首、米山、赤波江、仲知、大水、小瀬良の児童124人だった。

 ところで、江袋教会の受堅生の代母は浜上カヨではなく、山中ユキとなっている。それはどうしてなのだろうか。これについても尾上ミキさんに聞いてみた。

 「当時江袋教会には浜上カヨとは別に本島ミカ、楠本スゲ、山中ユキの3人の若い教え方がいた。教え方の責任者であった浜上カヨは高齢であったので若い3人が彼女を補佐して教会に奉仕していた。堅信簿で、私の代母が山中ユキとなっているのはこのような事情によるものである。

 それにしても、ベテランであった浜上カヨの稽古は非常に厳しく、子供たちは公教要理一冊、どこからかけられても答えることが出来るようになるまで徹底的に鍛えられた。」


 
 
 ◆聖体訪問 旧友と一緒に
左より:海辺シミ、楠本テル、尾上ミキ
3人にとって日課としていた朝と昼の聖体訪問は老後の唯一の楽しみであり、生きがいでした。この写真は聖体訪問後に教会前でくつろいでいる3人を見かけた巡礼者の方がたまたま撮ってくれた写真です。 
 
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