イグナチオ 中田 藤吉師

1906(明治39)年〜1914(大正3)年

 
司祭、修道者の召命(しょうめい)
 
 中田師について思い浮かぶイメージは何といっても北松浦郡田平町にある田平教会の信徒の恩人であるということである。
仲知教会からの転任後、その在任期間が実に33年にも及んだ田平教会では、司祭、修道者の養成と国宝級の価値があり、今なお礼拝に使用されている田平教会建築(大正7年)で豊かな才能を発揮された。

 司祭、修道者の養成において師は自ら26聖人殉教者に捧げた田平教会の守護の聖人の取次ぎにより、教会と社会に献身する司祭を26人育てるという大きな目標を立てて、尽力されその通り実行された。

 そこで、師の仲知での在任期間の8年間を司祭、修道者の召命促進という視点にたって調査してみると、偶然にも仲知でも数多くの聖職者と修道者がうまれていることを発見して驚いている。

 仲知小教区の召命は、その時代の必要に応じて、仲知のセシリア修女院、鯛ノ浦の養育院、北海道のトラピスト修道院への三つの流れが自然と出来ている。
 
 仲知のセシリア修女院の共同体は、上五島で最初に司牧・宣教されたフレノー師が1887年頃創設されたが、中田師の頃にはそれまでの9人の会員に加えて、田中ハツが明治33年に、赤波江トセが明治35年に、竹谷リエが明治39年にそれぞれ入会し、野口フク院長のもとで、いっそう児童の宗教教育と教会奉仕に貢献できるようになった。
 それも熱心に会員の指導にあたった中田師の人徳によるものである。

 他方、ブレル師によって創設された鯛ノ浦養育院の初期の会員に仲知小教区出身の会員が多いのは、初代院長であった谷中セヨと2代目院長であった楠本カナが仲知小教区出身であったことと深く結びついている。
中田師時代の鯛ノ浦養育院入会者は2代目院長の楠本カナ(江袋)、高尾キワ(米山)、滝下リス(米山)、白濱ユキ(野首)の4人であった。
 また、江袋の谷口末作師と赤波江の赤波江雪好師も中田師の時代に北海道のトラピストに入会している。

 このように、中田師が仲知に着任された明治後期の仲知小教区の信徒は、それぞれの召し出された地において児童の宗教教育、恵まれない新生児の救済、ひいては、祈りと労働によって世界平和と人々の幸福のために生涯を捧げていく信徒が多く輩出した。

 その先頭にたって指導されたのが歴代の主任司祭であり、中田師もその中のお一人である。                    
 

何百年もの伝統を誇る精進料理
(トラピストのクリスマス)

                    

地元出身修道女の活躍
 
 中田師が仲知小教区で働かれたのは、明治39年から大正2年までの8年間である。この間に長崎教区司教も2代目のクザン司教から3代目のコンパス司教に引き継がれている。
 そのような教会の状況の中で、仲知小教区出身の修道者たちは、召された地でどのような活躍をされたのだろうか。
 ここでは明治後期、鯛ノ浦養育院の会員となった人から4人を選び、その活躍の跡を紹介することにする。
1、ヨアンナ・大水トキ
 
 
 明治元年北魚目村(現新魚目町)大水生まれの 彼女は、大水の開拓者である大水安五郎の孫にあたる。23歳の時に鯛ノ浦の養育院に入会する。

小柄であった彼女は底抜けに柔和で、その顔から笑顔の絶えたのを見ることはなかったという。そのため子供たちからもなつかれた。何十年も長い間赤ん坊を背負っては、出産のあった親切な信徒、未信徒の家庭の母親を訪れ、貰い乳をしてまわった。

高齢になってもらい乳の奉仕が出来なくなった後も養育院に留まって子供たちと一緒に余生を過ごした。子供たちはいつも縁側に座っている小柄の背の曲がっているトキばあちゃんを慕い、その胸に抱かれて遊んだり、安らかに眠ったりしていた。

 生涯幼子のように素朴に生きた彼女は昭和19年5月17日、68歳で帰天した。
 

2、ユリアナ・高尾キワ

 1878年5月13日北魚目村赤波江に生まれる。 家族は彼女が 6歳の時同村・米山へ移住。29歳の時(明治40年)養育院へ入会。
 彼女は敬虔で観想的な人だった。自作のお祈りを神父様に見てもらったりしていたという。
教理にも良く通じていた。売薬行商の主任としてその道中、病人や老人を慰問し、辺鄙なところで死にかかっている未信徒をねんごろにあつかい洗礼の恵みに導いた。

 看護婦の心得もあり、身寄りのない患者には付き添い婦として奉仕し、病む人の友となり、慰めを与えた。
養育院では長い間会計係としての務めを果たし、昭和10年11月3日帰天した。

 
3、ヨゼフィナ・楠本カナ。 

 明治23年北魚目村江袋に生まれる。「子供は親 の後姿で育つ」、「子は父のごとし」の諺通り、彼女は父・楠本三吉の信仰から強い影響を受ける。父がどんな迫害にも屈しなかったように、また、教会の宿老、北魚目村会議員として教会と社会に献身したように、彼女も薄幸な孤児の魂の救いと幸せのために生涯を捧げた。
 折り目正しい性格で、どのような困難にもめげず、絶えず神の心を優先して生きる人だった。

 父と同じく強い信仰と意志の持ち主で、人の嫌がる養蚕や、忍耐のいるうどん作りに率先して従事した。昭和2年長崎教区が邦人司教区となると、長崎公教神学校に賄いとして仲知の植村フデ、谷口リュウとともに最初に派遣された。

 昭和5年から23年間、養育院院長としてその重責を全うし、晩年も足腰がしっかりしている間は養鶏などをして勤勉に働いた。
昭和45年5月21日、84歳で帰天。

 
4、マリア・白濱ユキ
 小値賀村野首出身。彼女の生年月日はわからない。彼女は仲知の伝道学校の卒業生で、後に野首で教え方をしていたが、明治34年5月6日養育院に入会。
信仰にも仕事にも大変まじめな人で、いつも勤勉に働き、静かに祈っていた。育児にも携わっていたが、大崎師の賄いとしての務めに従事することが多かった。大崎師の飽の浦教会への転任後は、賄いとして派遣され、師の最後を看取って帰ってきた。

 その後、鶴田師と梅木師に賄い婦として奉仕し、梅木師の青砂ヶ浦教会転任後も師に賄いとして派遣された。老後は修道院の賄いなどを手伝い、昭和44年4月12日、81歳で帰天した。

 
 
昭和25年頃のお告げのマリア
仲知修道院の会員たち
中田師(その3)へ













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