イグナチオ 中田 藤吉師

1906(明治39)年〜1914(大正3)年

 
野首教会新築工事
 北松浦郡田平町に所在する田平カトリック教会は、中田師の汗と苦労とが染み込んだ教会で今も現役で使用されているが、小値賀町野崎島にある煉瓦造りの野首カトリック教会も、中田師の作品である。
この教会は今では廃堂となり、その管理も小値賀町に委ねられてはいるが、中田師が当時のわずか17戸の貧しい信徒とともに苦労を重ねながら、やっとの思いで造った教会である。

 設計施工は魚目村(現新魚目町)丸尾の大工鉄川与助である。彼はフランス人宣教師ド・ロ師に西洋建築の指導を受け、長年大工の修行を積み、後日「天主堂なら鉄川」といわれた人である。

 彼が手がけた教会堂は長崎県五島列島だけでも15ヵ所もある。
野首教会は洋式の煉瓦つくりで彼が造った天主堂としては最初の作品である。

 この後、同じ彼の手によって造られた上五島町の青砂ヶ浦教会、福岡県三井郡大刀洗町の今村教会、田平町の田平教会に比べると、構造にしても、装飾にしても、建物の大きさにしても見劣りするが、わずか17戸の信徒が生活を切り詰めながら、中田師の指揮のもと力を合わせてあのような美しい洋式の教会を造りあげたことは実に賞賛に値することであり、信仰のすばらしい成果である。

 


◆ 野首教会
平成13年3月3日、撮影
 
幻(まぼろし)となった仲知教会
 
大曽教会

 
 
 中田師は同じ鉄川与助に設計施工を依頼して北魚目村仲知の久志(樫の木山)に赤煉瓦造りの美しい聖堂を計画した。資金の援助を教区から受けて建設資材の煉瓦、木材も購入し着工の準備が進んでいた。

 ところが、敷地の候補地が狭く建設は中止となり、建設資材は現在の大曾教会の建設資材として使用されることとなった。その大曾教会竣工は大正5年で中田師が仲知を離れて2年後であった。

 この話は、仲知の長老・久志半助さん(82歳)が語ってくれた伝承でいくらかその真実性が問題となる。しかし、中田師は大正7年に田平教会へ転任した後まもなく鉄川与助に依頼してあの大きな煉瓦造りの田平教会を造っていることを考慮するなら、長老によって伝承されている話もまんざら嘘とは思えない部分もある.。

 
伝道学校廃校となる  1911(明治44)年
 
 中田師は野首教会建設後、地元の男女の教え方の協力を得て児童の信仰教育に力を入れた。江袋と仲知にあった伝道学校でも自ら教師となって、両校の創立者であるフレノー師の志を引き継ぎその養成に努めた。

 しかし、仲知と江袋の伝道学校は人材面でも制度面でも経済面でも以前にまして困難に直面していた。
 そのような状況である時、青砂ヶ浦小教区の中心であった青砂ヶ浦に主任司祭の大崎八重師によって伝道学校が新たに設立された。明治44年のことであった。
 
 設立当時の青砂ヶ浦伝道学校の校舎は小さく、とても仲知小教区の教え方志願者を受け入れて養成するには難しい状況であった。

 しかし、中田師は大崎師に仲知と江袋の現状を説明し、無理を承知の上で仲知小教区の教え方志願者を入校させてくれるように交渉した。
その結果仲知と江袋の伝道学校は一時的に廃校となり、仲知小教区の男女の教え方志願者は明治44年より青砂ヶ浦伝道学校で3年毎に交代で養成されることとなった。

 当時からこの青砂ヶ浦伝道学校は一般に所在地が奈摩郷であったことから奈摩内伝道学校と呼ばれて信徒から親しまれていた。

 この奈摩内伝道学校時代から制度は明確となった。
男女とも3年間の勉強が終了すると、出身地に帰り所属している自分の教会で男子は12年、女子は6年間の義務年限を教え方として奉仕し主任司祭の司牧を助けた。
 
 3年間の伝道学校養成期間の食費、学費、生活費はすべて地元集落の信徒が負担した。伝道学校の教師は大崎八重師と鯛ノ浦出身の山下トミさんであった。彼女は伝道学校の生徒たちと起居を共にしながら公教要理、修徳の勉強だけでなく、一般の教養である国文、作文、礼儀作法、ソロバンにも力を注いで下さった。 

 
 
 ◆奈摩内伝道学校
右端建物は昭和23年増改築の食堂・炊事場
 
第1次集団移住
上神崎(平戸)と田平への移住
 中田師が司牧された明治末から大正初めの頃の仲知小教区の各集落の信徒は貧しい半農半漁の自給自足の生活をしていた。
 しかし、ここはどの集落も急勾配の山間地であるうえ、狭すぎる段々畑では子供に畑を分けてあげると、親子とも倒れの心配もあった。
 そこで、やむなく新たな生計の道を立てるため移住を余儀なくされていく家族が多くなって来た。

当時の教会台帳、特に家族台帳を見ると、転出先の所在地は平戸市の上神崎と北松浦郡田平町となっている。

 上神崎には明治41年に不津木六松、小瀬良益恵門、大水末作、真浦栄助、真浦又助の5家族が移住している。

 田平には明治41年に赤波江熊吉、赤波江助市、赤波江金作、肥喜里半次郎、久志越五郎の5家族が移住し、さらに明治43年には真浦末造、真浦長八、真浦吉平、島向与吉、山下留蔵の5家族が移住している。

 田平の移住開拓は明治19年、出津教会主任であったド・ロ師が信徒の貧しい生活を見て、その解決策として2 3の信徒の家族に田平の原野を買い与え移住させたことが始まりで、その後この情報を聞きつけた信徒が県内の各地から私費で移住開拓する信徒が出てきた。

 中田師が五島列島の仲知教会から田平教会へ転任となった大正3年ごろには、田平の原野はそれまで移住した信徒たちの苦難の開拓によってかなりのキリシタン集落へと発展していた。

 仲知小教区各集落の田平への集団移住は、どのような経済事情によるものなのか詳しいことは分からないのが実情であるが、
移住した信徒にとっては狭すぎる仲知の土地に比べれば広々とした田平はたとえ未開拓のままの原野だとしても魅力だったのではないかと想像される。
あるいは、先に移住していった信徒や田平へ転任された中田師の呼び掛けや誘いがあったかもしれない。

赤波江出身 赤波江カノの活躍

 「北魚目村出身の赤波江カノは明治40年12月24日、夫の金作と共に子供5人を連れ、五島北魚目村曽根郷赤波江より、旧田平村下里に移住して来た。性格が温順で信仰厚く、他人を良く愛し、天国婆さんと言われるくらい人から慕われる人であった。教え方でもなく、平信者であったが、折に触れて異教者に教えを説き聞かせ、病人を見舞って信仰の道に引き入れた。死に臨んだ成人、子供を含め、洗礼を授けた人数は16人、この中には知名の人もいる。また教理を教え、中田師や熊谷師に紹介して入信せしめた者も数名いる。

 異教者の私生児で、処置に困っている幼児をもらい受け、五島鯛ノ浦の養育院に送った子供が13人、その内7人は自分が連れて行った。ある時など船の都合で1日で行けずに、小値賀に一泊した。そのとき、自分にも乳幼児がいたので、子守りを連れて宿に泊まったら、もらい子の不具合のために宿の人から不平を言われ一睡も出来ないこともあった。またある時は、中田師の許可を受ける暇がなかったので、異郷者の私生児を貰い受けた跡で、中田師に通告したらさんざんに叱られた。そこで、夫の金作氏が抱いて自費で五島に渡り、養育院の院長に事情を話し受け取ってもらったこともあった。

 彼女は実に信徒使徒職の良き模範であり、使徒的な愛に燃え、自分の霊魂と同じく、人の霊魂も愛する良いお婆さんであったが、昭和44年1月28日、88歳の高齢で帰天した。」

浜崎 伝著「瀬戸の十字架」より引用 p、102
 
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