イグナチオ 中田 藤吉師

1906(明治39)年〜1914(大正3)年

補足
田平での司牧活動

 既に記述したが、仲知に着任された主任司祭は圧倒的に叙階されたばかりの司祭であるか、そうでなくても叙階後他の小教区で数年の司牧経験後仲知に派遣されている若い司祭ばかりである。これらの歴代の主任司祭は仲知での司牧経験を土台としてその後派遣された小教区で個性を発揮されてそれぞれが大活躍をしておられる司祭が多い。

 例えば邦人司祭としては1番最初に仲知地区で司牧された本田藤五郎師は、仲知から福岡県太刀洗の今村教会の主任司祭になってから現在の今村教会を建設された。今村教会は大正12年2月12日完工の煉瓦造り。八角柱の双塔。内部構成の荘厳さ、高さも、施工主・鉄川与助作品の中で、最も優れた教会堂の一つ。専門家の調査で、重要文化財級の折り紙つきだが、この天主堂こそ本田神父が司祭生活25年の銀祝にと教会堂建設を思い立たれ、ドイツの資金で建立された教会なのである。
 
 仲知小教区の初代の主任司祭であった中田藤吉師も鉄川与助に依頼して野首教会を建立しただけでなく、その司牧生活が33年にも及んだ田平教会では同じ鉄川与助に依頼して現在の田平教会を建立されている。
 
 

しかし、中田師の貢献は決して教会建設というハードな面だけでなく、信仰面でも、社会福祉の面でも多大の貢献をしておられ、その足跡は浜崎伝著「瀬戸の十字架」に詳しく紹介されている。
そこで、ここでは浜崎伝師の「瀬戸の十字架」から田平での司牧活動を紹介しておくことにする。
 

「瀬戸の十字架」よりの引用文(p、65〜69)

 師が卒業して司祭の聖位を受けたとき、母は「おまえは司祭になったけれども、将来司祭の聖職を汚すようでは、神様に対して、また世間に対して申し訳がない。一生りっぱに聖務を成し遂げる自信がなければ、今のうちに衣を脱いだらどうか」と言ったそうである。師の日常は厳禁そのもので、33年の司牧中、酒に酔っている姿など一度も見た人はいなかった。母は「酒は3合以上は絶対に飲んではいけないと諭されていた。この母の教訓は、一生師の胸に脈打っていたらしい。己を以って他を律するわけでもあるまいが、信者が飲食店や料理屋などで深酔いして、醜い姿を演じることをきつく戒められ、酒が欲しければ自宅に取り寄せ、妻のお酌で飲むようにと勧められていた。

 師は活動派の人で、聖堂建設が一通り済んだ後は借金の返済に全力を注いだ。工事中から食事も朝夕二回にし、乳山羊を飼育して、昼食に少量の乳を飲む程度だった。これは借金の返済や罪の償い、保母養成のための節約の意味も含まれていたのだろうが、おそらく一生続けられていたものと思う。また、修道院の体制を整えるためには特別に力を尽くされたが、これは別項で述べることにしよう。

師は、特に信徒の信仰生活と宗教教育の充実のために、巡回教会を設立された。昭和11年に御厨町大崎米の山免に西木場教会を設立し、さらに昭和15年には、田平町岳崎に岳崎教会を、同年永久保にも巡回教会を設立された。
 
 

さらに、今の若葉保育園の建物を買い入れて伝道館とし、農繁期にはそこで託児所を開いた。平戸口にも保育所設立の計画を立て、まず現在の社会館の屋敷と背後の平戸口教会の敷地を買収した。一方、保母養成のために昭和9年、修道院の友永キクノさんを東京保母専修学校へ送って勉強させた。昭和10年、早坂司教の応援を受けて社会館を建設し、保育事業を始めた。さらに保母養成と助産婦養成のため、3人の修院の子女を平戸高女に通学させた。

 こうした社会事業の功績に対し、昭和11年5月、朝日新聞社より表彰状並びに慈愛旗を授与され、昭和14年3月には長崎県知事より感謝状が与えられた。また、昭和14年12月昭和15年2月に、県知事よりご下腸金が伝達された。その他にも助成金、表彰状など数回与えられている。
 
 師はまたよき社交家であり、村長、有志、警察官、その他知名の士と交誼深く、元村長山口実太郎、同福田多八、在郷軍人分会長橋場政太の諸氏は、師の社会的活動にもいろいろと援助を与えた。ことに橋場氏は伝道館の工事の時など材木数本を寄贈してくれた。また、師は信者の産業教育や衛生思想の普及のためにも配慮し、県立種畜場の技師や平戸警察署長を招聘し、信者を教育した。

 その他、学校卒業後信者の子弟が家事や出漁などの都合で村の補修学校に出席する機会が少なかったので、村当局や先生に相談して旧聖堂と旧司祭館を補修し、日曜日のごミサ後、これらの子弟のため日曜補修教室を開いて公民、家事の教育にも力を入れた。そのため師の部屋にはよくお客が出入りしたが、師はこれらのお客を快く接待された。当時は冷蔵庫がなかったが、深い井戸に刺身を吊るして、夏でも新鮮な肴を振舞った。

 また、師の部屋には時折、大学生と名乗る男が現れ、司祭がどんな教育を受けているかも知らず、横柄な態度で議論を吹きかける者もいた。ある時、そのような大学生が、師に宗教論を吹きかけて来た。師は先方の話を一応聞いた後、「では君に少し尋ねるが、人とはどんなものですかね」と質問された。その男はぐっとつまって返答が出来ない。そこで師は「私が牧する信者は小学生の子供でも、これに解答できますよ。ご希望なら子供を呼びましょうか」とやり返した。その男は「いやもう結構です」と言って立ち去ったと言われる。これは師が日曜日の説教の時に話したことである。

早坂司教は、ことのほか中田師を信頼していたらしく、時折お見えになった。その頃の師は教区顧問にも上げられていた。戦争が激しくなり、聖堂まで兵隊の宿舎として横門から後ろが接収され、ずいぶん苦しいことにもあわれた。また戦争末期の頃、敵の飛行機の機銃掃射を受け、煉瓦や瓦などを少々壊された。

 師は司祭、修道士、修道女養成のためにも力を尽くされた。第二次世界大戦後、原爆で一部被害を受けた大神学校の修理のため、授業が中断されるのを心配して大神学生30人ばかりと、教授の司祭を田平教会に受け入れ、今の若葉保育園を臨時の大神学校とされた。終戦直後だったので、食糧事情が非常に悪い時だったが、師は修道院や信者に協力を求め、神学校再開までの数ヵ月間を、ひもじい思いをさせることなく、無事神学校生活を継続させたのである。これらは師がいかに神学校、あるいは神学生を大事にしていたかを示すものである。

 師は自らも、田平小教区内の素質の良い、勉強の出来る子女を神学校や修道会に送った。今村悦夫師が当教会第1号であるが、師の後に19人計20人の司祭と、130人の修道士・修道女が輩出している。師の霊名はイグナチオで、祝日は7月31日だったが、夏休みに帰省中の神学生や修道志願者達は師を喜ばせるため、毎年、ささやかな演芸会を催した。師は大変喜んで、これら神学生をはじめ、ごミサの侍者をする子供も呼び、ご馳走を振舞った。また、師はミナ、サザエなどの磯物が大変好きだったので、これらの学生は海に出かけて磯物を捕って来て師を喜ばせた。学生の帰校するときは、ひとりひとりに餞別を贈って励ました。師は厳格な反面情深く、悲境にある信者を慰め、人知れず救援の手を差し伸べていた。

 しかし、信者に対する態度は甘い方でなく、教会の出費、霊的な務めについては厳しかった。その他服装が華美に流されるのを戒め、質素倹約の道を説かれた。信者の生活が次第に向上するに従い、結婚の披露宴なども派手になったので、規則をつくり、招待客も結婚者の親兄弟、姉妹と、叔父、叔母までに限定した。酒もお客の男子一人当たり3合までとし、この規制を忠実に履行するように監視役として集落の教会役員を立ち会わせた。

 また、子女が大阪方面の紡績女工に出稼ぎに行くのも戒められたが、これには深い理由がある。それは低賃金に深夜作業などを強いられて抜け出すことも出来ずに自殺する人もあり、いわゆる女工哀史の悲劇を避けることも信仰の保護のためであったからである。田舎の貧しい生活の中に育った彼女達は、親の膝元を離れると、あたかも籠から放たれた鳥の如く、信仰から離れ、自由結婚する例もあったからである。

 また、男子青年の頭髪を伸ばすことや結婚の時に紅・おしろいなども禁じ、戒められた。これらのことは、あまり酷過ぎると評する信者もいたが、師は方々から移住して来た信者達が、あらゆる苦労と戦って今日の運命を開拓していることを考え、昔の堅実な気風を忘れず、さらに世の乱れ行く風潮に流されるのを警戒する親心であり、いわゆるブレーキとなったのである。

  


 
中田藤吉師の概略
 
 中田師は平戸市戸石川町に生まれ、明治19年長崎神学校に入学された。
 
 司祭叙階は浦川司教と一緒であった。叙階前に奄美大島に1年間宣教見習として勤務。叙階後は上五島北魚目村仲知教会、北松浦郡南田平村小手田教会(田平教会)、平戸口教会などで活躍された。

 ことに南田平村における活動は23年の長期間にわたり、信徒司牧のかたわら、平戸口社会館や託児所を設立したり、各方面の役職や委員を嘱託されたりして社会事業にも尽力。教会内外の信頼と思慕の的となっていた。

 晩年、大浦天主堂で静養しておられたが、昨年(昭和30年)春から病床に就かれたままであった。
 昨年(昭和30年)夏、浦川司教様は同師の重態の報を聞かれ、任地の仙台からわざわざお見舞いに来られたのに、同年11月忽然として司教様が先に帰天されたので、非常に力を落としておられたが、いまここに司教様の後を追って神のもとに帰られた。
 
 浦川司教様も中田師も本年(昭和31年)は叙階50年の金祝を祝われることになっていたのにその喜びを待たずに2人とも次々に逝去されたのはまことに惜しまれる。

  昭和31年1月8日午後1時30分、大浦司教館で病臥中のところ永遠の安息に入られた。
 享年84歳。大浦天主堂で追悼ミサの後、遺骸は第二の故郷であられた南田平に移され、10日9時から小手田教会で盛大に葬儀が営まれた。
 

                             

コンパス司教着座 1913(大正2)年
 明治44年はクザン司教と上五島キリシタンの信仰復活の生みの親であるフレノー師が相次いで世を去り、中田師にとっても悲しみの年となった。
しかし、その悲しみは明治時代が終わり大正時代の幕が開けるとやがて喜びと希望の時を迎えることになる。
 というのは大正2年に3代目の長崎教区長としてコンパス司教が着座されたからである。

プロフィール

所属  パリ外国宣教会
     長崎教区長(1912−1926)
出身  1586年 フランス
     サン・ベリー教区
叙階  1877年  パリ外国宣教会入会
     1880年  司祭叙階
     1912年  司教祝聖
活動  

 司祭叙階後間もなく、日本宣教に派遣される。大阪で日本語を学んだ後、大阪の神学校設立に携わる。1882年、長崎の神学校に派遣され、ボンヌ神父のもとに32年間神学校教師として働く。長崎司教に祝聖されてからも教壇にたって神学生教育に直接関わる。1926年8月18日長崎で帰天、赤城聖職者墓地に埋葬される。

 青砂ヶ浦教会に保存されている堅信台帳を見ると、コンパス司教は司教祝聖の直後上五島地区を公式訪問され青砂ヶ浦小教区と仲知小教区で堅信式を挙行している。
大正2年5月3日には仲知小教区を訪問し江袋教会で盛大に堅信を執行しているが、江袋教会の長老・尾上ミキさんはこのときの受堅者であった。

 その後も、大正5年10月17日は仲知教会で、大正8年 5月16日は江袋教会で、大正11年5月16日は仲知教会で、大正14年5月 5日は江袋教会で堅信式を執行し、合計すると5回もこの交通不便なところであった仲知小教区を訪問し、信徒の信仰育成に力を注いでくださった。

 
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