邦人司祭の司牧のページ

ミカエル・中村 五作師

1919(大正8)年〜1928(昭和3)年
 
初聖体と堅信の思い出
 永田師は5年間の司牧を終えて奈留島へ転任され、第3代主任司祭としてミカエル中村五作師が着任された。
師の頃から地元の各集落の後期高齢者の信徒(84歳から87歳)の皆さんが、それぞれ少年少女時代に初聖体と堅信を授かった時の司祭として良き思い出を持っておられる。
 
 そこで、私は4人の方にその思い出を聞いてみた。
浜口ナセさんの思い出
 大正8年、瀬戸脇生まれの浜口(旧姓・瀬戸)ナセさんの初聖体は7歳の時同郷の瀬戸ハセ、白濱ノシ、瀬戸国光、白濱信幸の4人と一緒に瀬戸脇教会で中村師から受けた。稽古の指導は地元の教え方であった瀬戸チエさんであった。
 初聖体の後、教会の役職についていた、多分宿老であった瀬戸忠吉さんの家に茶話会が予定されていて、初聖体を受けた5人の子供はみんなそれを楽しみにしていた。 
 しかし、初聖体を無事に済ませ、心躍らせながら教会の外に出ると貧血のためかにわかに気分が悪くなり、母・サキにおんぶされて家に帰り、簡単な食事をとると不思議と気分が良くなり、急ぎ足で忠吉さんの家へ行き初聖体を祝ってもらい、帰りにはお土産も貰った。
海辺シミさんの思い出
 大正2年生まれの海辺シミさんの初聖体も7歳の時仲知教会で仲知、江袋、赤波江の児童11人と一緒に中村師から授かった。私以外に江袋の同級生で一緒に初聖体の恵みを受けたのは山口好五郎、上田松三郎、尾上富三郎、海辺秀雄の4人であった。その準備の稽古は、その頃はまだ仲知に保育所がなかったので小学校1年生になってから地元の教え方をしていた海辺シナから教えてもらって、その年(大正9年)の8月1日に授かった。堅信も中村師が仲知小教区の主任司祭として活躍されていた時コンパス司教から仲知教会で授かった。
 江袋の郷民は百姓が多く、親は雨が降らない限り毎日、朝早くから日が沈むまで畑仕事をしていたので、子供たちにも子守りや夕食の準備を手伝ってもらいたいということで、堅信の準備の稽古は学校に登校する前の早朝5時半から6時まで教え方の海辺シナの家でしていた。
堅信が近づくと各教会単位で要理のテストがあり、50点以上取らないと落第になるのでみんな頑張って要理を覚えていた。
 堅信の直前の3日間は中村師の指導により仲知教会で黙想会があった。そのときは仲知教会の近くの子供の少ない家に泊めてもらい、江袋の子供たちにはお母さんたちが交代でご飯を炊いて持って行き、米山の子供たちにはお母さんたちが仲知まで行って炊いて食べさせていた。
久志半助さんの思い出
 大正6年、仲知生まれの久志半助さんの初聖体も中村師から7歳の時(大正14年8月2日)、赤波江、江袋の同級生と一緒に仲知教会で授かった。その準備の稽古は小学校に入学後、仲知の教え方をしていた真浦シオさんからしてもらった。その頃は初聖体を受ける子供も23人と多くなり、男の子も女の子も全員和服姿で首から色リボンで飾られたメダイをかけ、女の子はさらにその日のために新調した真新しい白色のベールをかぶり、ぎっしりと祭壇近くに整列して受けていた。
瀬戸国作さんの思い出
 浜口ナセさんの実兄で、大正3年瀬戸脇生まれの瀬戸国作さんは初聖体も堅信も中村師の導きによって受けている。彼には中村師が仲知小教区に着任して瀬戸脇教会を巡回して来られた頃の印象が忘れられない。
 中村神父様は瀬戸脇教会に巡回するとよく父・瀬戸丈作の家に遊びに来ておられたが、そのとき彼はまだ小学校入学前であった。最初のうちは長い髭を生やしている神父様がこわくて部屋の片隅に隠れていた。しかし、少しづつ懐いた。神父様も膝のうえに抱いて可愛がってくれるようになった。 
 両親が神父様とどんな会話をしておられたか全く覚えてはいないが、「瀬戸家の先祖と黒島出身の神父様の先祖とは親戚になる」とかいって交際をしていた、と後で父が話してくれた。  
 瀬戸脇教会巡回のときは最初のころ妹の順子さんを賄いに連れて来ていた。その後、仲知の浜口五郎八に変わった。普段は1泊して野首に巡回するか、仲知の方に戻っていたが、年の黙想の時は4日ばかり泊り込んで信徒の信仰教育に励んでくださった。   
 神父様の賄いをしていた浜口五郎八は後で黒島の女性と結婚し、戦後は中学を卒業した仲知、江袋、赤波江、米山教会の子供のため就職の斡旋をしていた。                 

 晩年は奥さんの古里・黒島で過ごした。10年前佐世保の病院で逝去し、その遺体は中村師と同じ黒島教会墓地に埋葬された。

4人の幼い頃の思い出は、中村師が髭を生やし物静かで優しい方であったという点で一致している。
今日、少子高齢化が社会問題の一つになっている。どちらかというと、後期高齢者はこの能力社会の中で邪魔者あつかいにされる傾向がないとはいえない。

 しかし、仲知地区の高齢者の皆さんは少なくとも歴史の生き証人であり、この方々の貴重な信仰体験は混迷と混沌の中に生きる現代の私たちに、信仰によって生きることこそが人の幸せの道であり知恵であることを教えてくれているのではないでしょうか。
 
 
初聖体集合写真
初聖体記念 昭和39年

 
1920(大正9)年頃の全五島の司祭団
三列左から:山川清師(水の浦) 出口市太郎師(福江)
二列左から:山頭源太郎師(三井楽) 平田善次郎師(玉之浦) 島田喜蔵師(久賀島)
前列左二人目から:大崎八重師(青砂ヶ浦) 平松貞一師(桐) 中村五作師(仲知)

 
 教え方と宿老(教会顧問)
 上五島の信徒の信仰育成に大きな力となったのは何といっても歴代のフランス人司祭と邦人司祭の貢献があったことである。

 しかし、キリシタン集落があちらこちらに分散している仲知小教区内での司牧においては、司祭も宿老と教え方の協力と理解なしには効果的に信徒の指導を組織的に行うことは出来なかったであろう。

 ところが、今までは信徒の信仰育成に貢献のあった各教会の宿老と教え方は誰だったのか、また、どのような活躍をしていたのか、分からないことが多かった。
 しかし、教え方については1891(明治24)年ごろから、宿老についても1906(明治39)年頃から少しづつではあるが、分かるようになってきた。

 ここでは仲知教会が主任座教会となった1906(明治39)年から1928(昭和3)年まで、仲知小教区主任司祭であった中田師、永田師、中村師に奉仕した宿老と教え方を紹介しておくこととする。

 すでに記したように、明治初期に江袋に男子の伝道学校が、仲知に女子の伝道学校があって、上五島地区の各キリシタン集落から選抜された少年少女たちが学んでいた。(「江袋教会 100年」記念誌参照) しかし、明治44年、諸事情によって仲知と江袋の伝道学校は廃校となり、その後の教え方の養成は奈摩内伝道学校で行われることになった。

 教え方は神父、宿老に次ぐ要職で主として大人の信徒の教理指導、子供の要理指導を勤める。その他、司祭のミサなどの典礼儀式の準備や信徒の祈りや賛美歌の先唱をし、司祭不在の折は祈りの先唱者となった。

 普通、各集落に男女1 2名ずつの教え方がいて、女の教え方は、生け花を習って祭壇の飾りつけ、オルガン奏者、司祭の巡回のときは食事の世話もすることがあった。
 伝道学校卒業後、男子は12年、女子は6年という制度になっていた。

 
教え方と宿老の一覧表
○中田師(1906年〜1914年)に仕えた男女の教え方
野首教会 白濱作太郎 白濱ユキ
白濱タセ
瀬戸脇教会 瀬戸喜五郎 瀬戸マシ
江袋教会 谷上仁吉 浜上カヨ
谷上栄作 山中ユキ
仲知教会 水元喜蔵 真浦スミ
   山添ユキ
赤波江教会 赤波栄次郎 赤波江シマ
川端セキ
大水教会 大水庄作 大水ミエ
米山教会 白濱茂三郎 竹谷シミ
山田ソメ
○永田師(1914年〜1919年)に仕えた男女の教え方
野首教会 白濱作太郎 白濱タセ
瀬戸脇教会 白濱喜五郎 瀬戸マシ
瀬戸茂吉
米山教会 竹谷朝五郎 又居タヤ
仲知教会 水元喜蔵 真浦スミ、山添ユキ
竹谷イト、久志セオ
江袋教会 川端喜三郎 浜上カヨ
本島スヨ
赤波江教会 赤波江幸右衛門 川端セキ
赤波江栄次郎 江口ウキ
大水教会 大水庄作 大水ミエ
大水ソメ
小瀬良教会 小瀬良リキ
小瀬良セイ
○中村師(1919年〜1928年)に仕えた男女の教え方
野首教会 白濱作太郎 白濱ハツ
白濱ノシ
瀬戸脇教会 瀬戸茂吉 白濱サキ
瀬戸スナ
米山教会 竹谷朝五郎 浦越ソメ
道下タオ
仲知教会 水元喜蔵 山添ユキ、竹谷イト
真浦シオ、真倉ノブ
江袋教会 川端喜三郎 瀬戸カヨ
海辺シナ
赤波江教会 赤波江幸右衛門 赤波江シマ
大水教会 大水庄作 大水ソメ
大水シオ
小瀬良教会 小瀬良スマ
○宿老の紹介(1906年頃1928年頃まで)
江袋教会 谷上栄作、田端喜八
仲知教会 真浦泰蔵、山添忠五郎
瀬戸脇教会 瀬戸久太郎、瀬戸辰衛門
米山教会 竹谷富蔵
大水教会 大水庄作
 

 上の教え方の一覧表を見て印象付けられることは、男子の教え方の中には仲知教会の水元喜蔵、野首教会の白濱作太郎、大水教会の大水庄作、江袋教会の川端喜三郎のように義務年限の12年を過ぎても生涯教え方として教会に奉仕している信徒がいたことと、女子の教え方は各集落に大勢いたにもかかわらず、仲知集落に所在していたセシリア修女院への入会者は山添ユキ、竹谷イト、真倉ノブ、真浦シオといずれも仲知地区出身の教え方に限られていて、他の集落からの入会者がまったくいないということである。

 また、永田、中村両師に仕えた男女の教え方の中には奈摩内伝道学校で養成を受けた教え方が大勢おられる。
 
 男子では川端喜三郎、竹谷朝五郎、赤波江幸右衛門の3人に過ぎないが、女子の教え方のほとんどは奈摩内伝道学校の卒業生となっている。
 しかし、その多くの方は物故されておられる。

 

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