ミカエル・中村 五作師
1919(大正8)年〜1928(昭和3)年
仲知小教区には昭和初期に奈摩内伝道学校を卒業し、中村師と古川師に地元の教会で教え方として奉仕した海辺(旧姓・川端)シミさんと、浜口(旧姓・瀬戸)さんがおられるので、2人教え方としての活動を紹介しておきます。江袋教会教え方・海辺シミ
海辺シミさん(左) 海辺シミさんは大正2年4月11日、北魚目村江袋に川端福松・サヤの末っ子として生まれる。洗礼は幼児洗礼で生後4日目に初代の主任司祭であった中田師より受洗。洗礼名は彼女の代母であった谷口ナツと同じマリア。
彼女は素朴な信仰深い両親のもとで育ち、明るく、屈託のない少女として信仰生活を送っていた。仲知尋常小学校卒業が間近になると、実姉の川端テルを頼って大阪の紡績会社に入社することを希望していた。大正15年のことである。ところが、江袋郷民の選挙で教え方の志願者に決まりがっかりして泣いた。というのはその頃、江袋教会では教え方の志願者は小学校の6年生を卒業してから郷民の選挙で決められ、3年間青砂ヶ浦にあった奈摩内伝道学校で勉強し、卒業すると地元で女子は6年間、男子は12年間教え方をしていた。だから、それまで希望していた就職は断念しなければならなくなったからである。
こうして、やむなくシミは伝道学校に入学することになった。伝道学校の学生時代の3年間は江袋郷民の人から芋、カンコロをもらって食べていたが、卒業してからは無給で奉仕した。
当時、男子教え方は葬式の時の世話、ミサや稽古前のほら貝吹き、ミサのときの祈りの先唱を担当し、女の教え方は教会の内外の掃除、子供の稽古を担当していた。
シミの場合もそれまで通りのしきたりで、その年の小学校卒業生と前年の卒業生中から札入札で決まった。前年卒の上田トワと楠本マサ子がいたが、楠本マサ子はその兄・楠本房吉が教え方をしていたのでのがれた。2人の選挙となり1票さで上田トワに決まり、父・福松が「のがれたぞ、のがれたぞ」といって喜んで帰宅しほっとしていたら、中村師が「私にも2票の投票の権利がある。」と主張されて彼女に決まってしまった。(本当はそんな権利などなかったのでしょうけど、師の裁量で決めたのであろう。)
彼女が入学した頃の奈摩内伝道学校の学生は青砂ヶ浦、鯛ノ浦、大曾、丸尾、曽根、仲知の各小教区に所在する信徒の各集落から選抜された尋常小学校卒の少女22人で、その内仲知小教区の各集落の学生は白濱シマ(野首)、瀬戸チエ(瀬戸脇)、竹谷シミ(米山)、真倉セオ(仲知・一本松)、久志キク(仲知)、川端シミ(江袋)、大水ユキ(大水)、大瀬良サミ(小瀬良)の8人で全員めでたく卒業し地元で教え方を勤めた。
「伝道学校では朝5時起床、共同の祈り、ミサ、朝食、掃除の後9時から授業が始まり、主に要理と国語の勉強でその他、聖歌の練習や病院見舞いもしていた。
月に1度要理のテストがあった。
先生は山下トミといって秋田の女子修道院へ行っていたが、帰郷していたので雇われたらしい。私の兄・川端喜三郎のときも山下トミ先生であったが、もう一人男の先生がいた。私のときも1年間その先生から読み方と綴りかたを教えてもらった。昼食後30分くらい休憩して、聖体訪問とロザリオを唱え、その後授業。
夜は読み方と綴りかたの自習と1日の究明と黙想をしてやっと床につくことが出来た。
日曜日は休み、木曜日は作業日で元気な学生は畑仕事をし、体の弱い学生はハタ作り(堅信式の時受堅者の首にかけていた信心道具で、黒色のラシャに刺繍を施したもの)をしていた。
楽しかった夏休みも2回は交代で歩いて登校し、草取りや味噌つきをしていた。
楽しかったのは年に2回あった遠足で、有川の蛤の浜まで貝掘りに行っていた。歩いて行っていたので当地についてもゆっくり遊ぶ暇はなかったが、みんなと一緒におしゃべりしながら歩くのが楽しかった。
夏休みと冬休みに家に帰るのが何よりの楽しみで指折り数えて待っていた。
辛かったのは朝5時に起床しなければならないことで眠たくてたまらなかった。食料は各地区からお母さんたちがいろんな物を差し入れて食べさせてもらっていた。
教え方になってからは無給だったが、堅信式と初聖体式の日は弁当を作ってもらって食べたし、祝日など仲知教会でミサがあるときはセシリア修女院に泊めてもらっていた。1927(昭和2)年、伝道学校を卒業すると郷里・江袋教会の教え方として6年間奉仕した。
担当した子供は小学5 6年の男女で毎日、自分の家で早朝5時30分から6時まで教えたが、夏場は早くから来る子供がいて家の周りで遊んだり、騒いだりしていた。子供たちは全員出席し、素直な子供たちばかりで教え甲斐があった。教育方針は「よく要理を説明した上で暗記させること」であった。この教育方針を徹底するために何度も何度も同じ教えを繰り返させて暗記させた。
男子の教え方であった兄・喜三郎に倣い、厳しさより、愛情を持って教えるように務めた。6年間を振りかえるといろんな苦労もあったが、それ以上に教えることの喜びが大きかった。
クリスマス、復活祭、諸聖人祭、聖母被昇天祭などの祝祭日には仲知教会でミサがあることが多かったが、そのようなとき、宿泊先の修道院で同期の教え方とお茶を飲み交わしながら教え子やそれぞれの教会の出来事を語り合ったことは非常に楽しかった。
時には修道院の会員が作ってくれたドーナツやツキアゲを茶桶にしながら夜遅くまで語り合うこともあった。瀬戸脇教会教え方・浜口ナセ
浜口ナセさん 浜口ナセさんは大正8年12月15日北松浦郡小値賀村の瀬戸脇に瀬戸丈作・サキの末っ子として生まれる。ナセさんも海辺さんと同様に幼児洗礼で生後3日目に仲知教会で中村師から受洗。洗礼名は代母であった瀬戸ヨノと同じマリアである。
彼女は沿岸で刺し網、延縄、一本釣りなどの小漁師をしていた丈作・サキ夫婦の手伝いをしながら育ち、他の少女のように将来は都会の大きな会社に就職することを夢見ていた。ところが、当時野首にあった尋常小学校卒業間近かになると郷民の投票で教え方の志願者に決められてしまった。11歳になったばかりの彼女は教え方になることなど思いもかけていなかったことなので心の整理がつかず、親に反抗し、すねたり、泣いたりして親を困らせた。
しかし、もともと読み書きや教理の学習をすることは好きだった方だから、いやいやながら奈摩内伝道学校に入学しても、すぐに勉強が楽しくなって、あっという間に3年間が過ぎた。
教師は最初の1年間は丸尾の立花先生、後の2年間は青砂ヶ浦修道院のシスター・杉本トクであった。時々修道院の院長のシスターも来校されて音楽の指導をしてくださった。3年間の養成期間中の食費、学費、生活費のすべては瀬戸脇教会の信徒が負担してくれた 。
学校では主に公教要理の勉強で綴りかたや作文など一般教養の授業もあった。
鯛ノ浦小教区を除いて上五島の各小教区から18人の生徒がいて、18人とも全員卒業できた。
この内、仲知小教区の卒業生は白濱チマ(野首)、瀬戸ナセ(瀬戸脇)、川端チズ(米山)、山下ジセ子(仲知)、瀬戸ミキ(一本松)、大瀬良キオ(赤波江)、谷口八重(江袋)、大水トミ(大水)、大瀬良ミキ(小瀬良)の10人で、この10人が奈摩内伝道学校の最後の卒業生となった。卒業して地元の瀬戸脇教会で6年間教え方をした。最初の2年間は古川重吉師に、後の4年間は岩永静雄師に仕えた。
稽古は公教要理を暗記をさせるようにし、いつ主任司祭からテストされても正確に答えられるように厳しく育てることをモットーとした。
同級生の中でも山下房三郎神父様の妹で、仲知の教え方をしていた山下ジセ子とは親しく交際をしていたが、彼女は家族と一緒に昭和14年長崎へ引っ越していかれた。
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