ミカエル・中村 五作師

1919(大正8)年〜1928(昭和3)年


青年会(江袋)
 青年会はいつ頃から始まったのか定かではないが、少なくとも中村師の頃には江袋教会に男女の青年会があって、それぞれ別個に活動をして教会を支え、お互いの交流を深めていた。

 男女の青年会とも青年頭と呼ばれていた会長がいて会員の統率を計りながら、会計係もしていた。男子の青年は独自の活動をするだけではなく、教会奉仕として江袋集落に不幸が合ったときには遺族の悲しみを分かち合うために墓堀などの世話をしていた。また、教会での葬儀ミサのときにも男子の教え方を助けて教会に奉仕した。
会員は浜口五郎作、楠本富士夫、海辺光男、田端喜作、今野成義、山中卯八など10人程度であった。

 女子の青年は日曜日の昼から教会と墓地の草取り作業をした。
 正月には会長であった青年頭に会員が集まって新年会をしていたが、当時はこの新年会のことを「肌合わせ」と呼んでいた。
 そのときはそれぞれ自分の家で作った手料理を一皿ずつ持ち寄って日頃お世話になっていた主任司祭と宿老とを招待していた。

 中村師時代の青年頭は谷上トセ、谷上チヨの二人で会員は川端テル、楠本テル、上田タオ、谷中サト、島本マヤ、海辺シナ等であった。
 日曜日の午後は味噌を作るのに女子青年が3人ばかり雇われて、その収入のすべては会費に充てられ預金代わりにムジン講に加入していた。

 
 
江袋教会青年会主催クリスマス会 昭和10年12月24日
江袋教会姉妹会会員 昭和24年

井持浦ルルド巡礼  1926(大正15)年

 大正年間は上五島地区においても下五島最南端にある、玉之浦村井持浦教会にある「井持浦ルルド洞窟」への巡礼が盛んに行われていた。
マリア様への信心を深めるためだけでなく、病気の回復を祈願したり、子供の立派な成長を祈るためにも団体で漁船をチャーターして巡礼していた。

 仲知小教区で一番最初にルルド巡礼をしたのはいつ頃だったのか分かっていないけれども、1927(大正15)年夏、4泊5日の日程で江袋教会、青砂ヶ浦教会、曽根教会の信徒グループ30人ばかりが木造の機械船をチャーターして井持浦ルルド洞窟へ巡礼している。

 その参加者の一人であった海辺シミさんはちょうど奈摩内伝道学校を卒業し江袋の教え方になったばかりのときであったが、当時の江袋教会宿老をしていた川端喜八から薦められ参加することになった。
 費用は江袋教会の郷民から出してもらったが、食料の麦と芋は家から持参した。
 井持浦では教会の宿泊所に泊めてもらい、午前中はルルドに参詣し、午後は近くの磯に出かけミナを採り夕食のおかずにしていた。

 その頃井持浦小教区の主任司祭は江袋教会出身の島田喜蔵師で、巡礼団に江袋の信徒の1団がいる事を知ると、わざわざ会いに来られて江袋教会の様子を根掘り葉掘り聞いて懐かしがっていた。

剣道(大正8年〜昭和3年)
 中村師の時代の祝祭日はほとんど主任座教会であった仲知教会でミサが行われていたが、11月1日の諸聖人のお祝い日は剣道の試合が仲知と野首で交代であった。ミサが荘厳に行われた後、2チームの対抗戦で仲知では仲知尋常小学校の運動場が、野首では教会下の広場が会場となり、選手はそれぞれ剣道着を身に着け闘った。
 江袋教会の信徒・海辺シミさん(大正2年生まれ)に少女時代の思い出を語ってもらった。
 
 
海辺シミさん

楽しい思い出

 江袋の大人は月に1、2回凪になるのを見計らって、村船で当時この地区での物流の拠点となっていた北松浦郡小値賀に日用品の買出しに行っていて、そのときばかりはいつも家で留守番をしている子供たちに普段口にしない飴を土産に買ってくれていた。
 子供たちは子供たちで小値賀から帰る船が見えたらうれしくて浜まで急いで走り下っていた。

 運動会、遠足の時、普段食べることのなかった米のご飯をおにぎりにしてもらって食べたことも楽しみの一つであった。

 食事
 芋、カンコロ、半麦飯が主食で祝日と作じまいのときだけはお米のご飯とそうめんを食べていた。
 小学校の子供は仲知の子供だけが昼休みに家に食べに帰り、赤波江、江袋、一本松の子供は運動場で遊んでいた。帰宅してから昼食をとっていたが、男の子の中にはお腹がすいているため通り道の畑の芋を採って食べる子もいた。
 辛い思い出
 靴がなくわらぞうりを履いていたが、破れかけてから新しいのを履いて通学しようとすると、親からきつく「破れるまで履け」と言われ、下校のとき破れて裸足で石ころだらけの山道を歩き痛かった。特に雨の日などは、道がぬかるんでいて気持ちが悪くとても辛かった。

 当時漁業で繁栄していた立串の運動会の時は 見物に行っていたが、立串の子供たちから「芋くりゃどんが来た、汚れドンが来た。」とからかわれ悲しかった。

 その頃は水道はなく、あまりお風呂に入れなかった。底水を汲んでやっと近所の人と交代で沸かして入っていた。

 また、魚業で栄えていた立串とは違って、江袋は貧しいその日暮の百姓どころで未信徒の方からは江袋には嫁に行くもんじゃないとみられていた。しかし、親からはどんなに辛くても食うには困らんからと言われ、嫁に来ていた人もいた。
   
 エピソード

 彼女の生家は現在川端シゲ子さんが住んでいる家の隣接地だった。現在その場所は畑になっているが、かつては彼女の家が建っていた。
 川端シゲ子さんの所在地はかつて江袋の信徒21人がひどい迫害を受けた場所で屋敷にできるような平らな畑だった。

 彼女の家は大きくて家の後ろに数本のミカンの木があった。最初のころは渋いミカンであったが、立串にあった上五島農協職員の薦めで接木をしてみたら甘くて美味しいミカンがなるようになり、隣近所の子供たちはもちろんのこと、仲知の従姉妹たちにとっても羨望の的となっていた。

 平成10年の正月のことである。
仲知の修道院に楽隠居している従姉妹の真浦ミツ・シスターが何年かぶりに遊びに来てくれた時、例のミカンの木のことが話題になった。

 「あのミカンは美味しかったなあ。
仲知もんはうんがえ(あなたの家)行っても、いつも誰かが宿ばしとった。

 ばって、「一応川端がえ、行ってみよう。」と言い合って、ミカン食べたさな行っていた。

祝祭日などの機会に江袋に行くときは母から 

「芋は食うな。川端がえ行けば夜さりは半麦飯ぞ。朝は米ん飯ぞ。」

と言われて、行ってみるとそのとおり、ふとか5升釜で炊き込んだ純白のお米が米びついっぱい入っていた。

その後も祝祭日に江袋でミサがあるときは、米びつの純白に光り輝く米の飯が瞼に浮かび、

 「川端の家に泊まろう」

と言い合って行けば、たいてい仲知や他の集落の教え方や宿老ろんが客になっていて、
そっとんがおらんときは仲知の川端校長先生どんが親子で泊まっていて、こちらは遠慮して誰も泊まりえんじ、それでも夕食だけはもろうて食べ、今野ユキ伯母がえ(家)泊まりに行きよった。

早坂 久之助司教着任 1927(昭和2)年
 
早坂司教

 

 昭和2年、長崎の教会は大きな喜びに包まれた。
長崎教区が日本最初の邦人司教区として独立したのである。それまで仙台教区司祭として12年間司牧活動していた早坂神父が昭和2年7月16日付けで、初代邦人司教として長崎司教に任命され、10月30日ローマの聖ペトロ大聖堂で教皇ピオ11世によって司教に祝聖された。

 この年の長崎教区にはパリ外国宣教師によって養成された邦人司祭が30人となり、宣教師方とともに5万5千の信徒を司牧していた。

パリ外国宣教会はこの邦人司教区の誕生によって全員長崎教区を去り、福岡教区に移動された。

 宣教会の司祭たちはまだ弾圧の厳しい幕末、明治初期の迫害の中で交通不便な離島などにひっそりと隠れ潜んで信仰を守っていた潜伏キリシタンを命がけで探してまわりながらその信仰復活のために献身してくださった。

そして、邦人司祭や修道者を育て、独立できるようになるとすべてをおいて新しき宣教地の開拓へと出発された。何とすばらしい宣教魂であろう。
 
 早坂司教は昭和3年4月、長崎教区長に着任された。その10年間の在任期間に今日でも観光名所となっている紐差、下神崎、平戸、馬込、久賀、三浦町に鉄筋コンクリートの美しい教会を建設。

 長崎純心聖母会創立、長崎教区の情報誌「カトリック教報」と「聖母の騎士」の発刊、聖体行列、26聖人や他の殉教者への崇敬、各種のカトリック・アクションの設立など長崎教区の発展のため多くの業績を残された。

 これらの業績の中で着任後の最初の仕事であった5人の司祭叙階の内、古川重吉師を同年の12月、仲知小教区主任司祭として任命されたことと、その在任期間に2回仲知小教区を公式訪問されて、堅信式を司式してくださったこと 、地域の小教区にあった女部屋(セシリア修女院)を在俗修道会として充実させるために尽力されたことは仲知小教区の信徒にとって大きな喜びであった。

 

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