ミカエル・中村 五作師

1919(大正8)年〜1928(昭和3)年







I、堅信

 早坂司教在任10年間の堅信式の年月日、場所、受堅者名、主任司祭名は下記のとおりである。
 
 
年月日 場所 受堅者数 司式者名 主任司祭名
1928(昭和3)年10月13日 仲知教会 114 早坂司教 中村師
1931(昭和6)年5月10日 仲知教会 137 早坂司教 古川師
1934(昭和9)年8月20日 野首教会  43 浦川和三郎司教総代理 古川師
1934(昭和9)年8月20日 仲知教会 127 浦川和三郎司教総代理 古川師
1937(昭和12)年8月25日 仲知教会 180 浦川司教総代理 岩永師
(仲知小教区堅信台帳より)

 
 
 

 

II、早坂司教の思い出
 
1)  偉大な説教師、温情豊かな人柄
   長崎教区司祭 鶴田源次郎

 故早坂司教様の追憶を記すようにとのことであるが、小生の文筆ではあるいは不敬にあたる記述に終わるかもしれない。

 今から満31年前の1927年10月30日、王たるキリストの祝日に聖都ローマにおいて、時の教皇ピオ11世より日本人最初の司教として叙階された司教様は、超えて1928年4月29日、長崎教区司教としての着座式を行われた。同年7月1日 くしくも同司教様によって、最初の叙品式を受ける光栄に浴したのは、小生と浜田師、山口師、古川師、片岡師の5人である。

当時は国粋保存主義、日本精神高揚の時代であっただけに、邦人司教の輩出は、異郷日本の少なからぬ好感が寄せられ、早坂司教様の長崎入りは、日本カトリックに新たな曙をしのばせるような歓迎振りであった。

 博識、多才、かつ雄弁家であった司教様は、その自負と、絶大なる精力を以って、良く時代に即応した布教陣を張られ、内にあっては名説教家であり、外に対してはその雄弁に物を言わせて、矢継ぎ早に布教講演会を試みられた。

 しかもそれは都市中心部ばかりでなく、離島、僻地までも足を延ばされ、一度は北松浦郡小値賀の曙座とかいう劇場で講演会を開き、小生も同行して、司教様のしっぽ持ちと、講演をやらされたことがある。
剛腹、果断で司教としては勿論、社会人としての貫禄も余すところなく、軍政日本の官憲に対しても、いささかも教会の主張を曲げなかった。

 一度司教様のお伴をして正月の年始まわりをしたことがある。当時の長崎県知事の礼服は金モールに、はいとうという出で立ちであったが、司教様も司教の正装で堂々乗り込まれ、いささかも引けを捕らぬ態度を示された。

 またあるときは佐世保の駅前でのことであるが、官憲から職務質問を受けたとき、その官憲を司祭館に連れ戻り、そこで御自分の名刺をだして「私はこういう者である。用事があるなら公衆の面前ではなく家に来て聞いてくれ」と言って相手をたじたじさせそのため一汽車を遅れたという話がある。

 小生は叙品と同時に司教様の小使いを命じられ、9ヶ月間起居を共にしたのであるが、司教様は精力絶倫、目の回るような多忙の中にも折り目正しい一面があり、夜半、1時2時ごろまでお仕事をなされても、朝は既定の時間にミサを捧げられ、特に聖務日課を几帳面に果たされ、聴罪司祭を規則的にお呼びになっておられたようである。

 談話は司教様のレクリエーションで、食堂で、知恵者の片岡高俊師とつばぜりをするのを楽しみとしておられた。
 喜怒哀楽は極めて淡白で決して尾を引くことはなかった。

 一度小生は夜ふかして睡魔に襲われ、自室に大の字になっているところに入って来られ、「若い者のくせに午睡でもして」と怒声一発、それで勤務評定が0点になったわけではないが、一ヶ月程たったある朝の食堂で「君は明日から神の島へ行け」と仰せられる。「何か向こうに仕事があるのですか」と聞くと、「明日から神の島の神父だよ、さあこれを持って行け」とおっしゃって美しいカリスを下さった。

小生は1929年5月2日神の島教会に転勤したが、その夏小生の不在中に司教様は神の島にお休みに来られて教会下のお店からビールを借りて飲まれ「金は神父から取れ」と言ってお帰りになったそうである。部下に対する親近感を示すエピソードである。

 小生はここ2、3年修道女の告白のため純心修道会に行くことがあるが、司教様は食事を共にすることをとても喜ばれ秘蔵のブドー酒などを惜しげもなくふるまって頂いたのである。

 ある時、「飽ノ浦教会建設のために司教様も寄付してください」と冗談を言ったのであるが、次の訪問の時には「さあ飽ノ浦の寄付だよ」とおっしゃって袋を渡された。小生は面食らって「いや司教様あれは冗談でしたのですよ」と断ると「よしよし持って行きなさい」ポケットに押し込んでくださった。誠に温情豊かなお父さんであった。今も真のご慈眼が自分の目から離れない。

2) 偉人の最後
    長崎教区司祭 浜口庄八師

 故早坂司教様のご臨終に居合わせる幸いを恵まれた私は、教区の皆様に「聖人らしく昇天なさいました」とご報告申し上げたいが、幾度考え直しても、やはり感じたまま「偉人らしい最後でした」と申し上げたい。

 ご永眠の直後、小林仙台司教は評して、「大往生だね」と言われたが、それでも感じは出ているような気がする。
 昭和34年10月22日夜、山口大司教よりの要請により仙台へ急行した私が、病床の司教と顔を合わせたのは翌23日の午後9時ごろであった。

 私の第一の使命は生きた司教のお供をして長崎まで連れ出すことであった。
 しかし、時は既に遅かったのである。
病室に入って数分とたたないうちに、私は付き添いの人から室外へ追い出されてしまった。
数日前、仙台まで見舞いに来られた山口大司教が、「健康の回復に努めてくれ、そして長崎から神父を迎えにやるから、いっしょに長崎へ来てくれ。信者も神父も皆々待っているから」と言い残しておられたとか。
 それで私の顔を見るなり、迎えに来たとばかり思い込み、「今すぐ長崎へ行く」と付き添いの方々を困らせるのだった。
 その後苦しみの3日、2、3回ほど「長崎へ帰る」と周囲の人を困らせただけ、後に実に筆舌につくせない平穏な苦しみであった。
 
 東北大学付属病院を退院され、仙台教区経営の「スパルマン病院」に入院されたのが、10月21日だった。そのときからそうだが、絶え間なく、どす黒い血液を吐き続ける。嚥下(えんか)能力はまったくなく、水滴さえ喉を通らない。24日昼前、聖体極小片を注射器による水滴の注ぎ込みで、何とか体内に送り込んだのが、外部から物を入れた最後であった。

輸血、輸液、強心剤など、司教の右腕右脚は注射の跡で隙間のない位。衰弱は深まるばかり。血痰は意のままに出ず、呼吸も苦しい。その上生きた右半身のいづれかの部分からは常に何かの注射の針が差し込まれている。

特に最後の4時間前からは、自然呼吸不可能と見た医師たちが、窒息によって死が早まることを恐れ、口から管を押し入れ、気管内呼吸を行い、同時にゴム管を入れて機械による血液の吸出を続けた。

 かたわらに立つ者が思わず目を背けずにはおれないのに、本人は落ちつき払っている。それでいて意識は最後まではっきりしている。

 4時間の間3度「管を取り除いてくれ」とゼスチャーで要求したが、「司教様、もう少しの辛抱ですよ」と言い終わらぬうちに顔は平穏に帰る。
 先日から、常に側の人々に祈りをしてくれと求める。ゆっくり唱える祈りに最後まで唇を動かして合 わせた。
 ロザリオの玄義のかわり、救い主の十字架上の言葉、
 "in manus tuas domine commendo spiritum meum"
 「主よ、わが魂を御手に委ね奉る」を唱えれば、ご自分も特に力をこめて唇を動かす。

 医師が「最後です」と宣告する最後まで唇は祈りに合わされた。宣告後、3回ほど下唇がかすかに動いたが、私には祈りの続きとしか見えなかった。死ぬまででなく、死んだ後まで祈っておられた。
 (昭和34年10月26日死去、ご遺体は長崎赤城聖職者墓地に埋葬)

昭和34年11月1日発行 「長崎カトリック教報」より


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