ミカエル・中村 五作師

 

III、女部屋の刷新
 
 早坂司教は各小教区で主任司祭の司牧を手伝うために信徒の信仰教育と典礼奉仕をしている女部屋をさらに充実させることを望まれていた。
 そこで、この共同体の規律の草案を作成することと、若い会員の養成とを呼びかけられた。
 
 

旧修道院食堂兼応接間 旧修道院

 仲知修女院規則書についても仲知修女院の派遣についても「仲知修道院100年の歩み」にかなり詳しく紹介されている。

1) 仲知修女院規則

 仲知修女院の規則は昭和4年6月6日、早坂司教によって発布されているが、その草案は、仲知小教区主任司祭で仲知修女院の指導司祭であった古川師の指導によって作成されたものである。
 ここでは所々紹介してみる。
第1条
 1、本会は仲知修女院と称す。
 2、目的
  本会は天主の御思召のままに残らず身を捧げ天主の光栄のため、キリストの御国の拡大のために自ら進んで犠牲たらんとするカトリック婦人の未婚者を以って組織とす。
 3、本会員は皆共同生活をなしつ、修徳進善に努力し、かつ信者に秘跡を準備させ、子女に公教要理を教えるなど司祭を助けて教会発展に力を尽くし、併せて聖堂を整理し装飾して御聖体にまします御主のために捧侍するを以ってその目的とする。
 4、・・・・・
第2条・・・・・
第3条
 1、・・・男子は子供たりと有配者たりともいかなる事情のもとにも絶対に之を院内に宿泊せしむべからず、婦人たりとも自由に之を宿泊せしめることを得ず。
 2、・・・
 3、本会員は単独にて労働に行くを許さず何処に行くにも必ず2人以上たるべし。
 4、本会員はたとえ実家と言えども外泊を許さず、但し、重大な理由に限り時として許可することあるべし(親兄姉の危篤の時など)
 5、本会員は院長の許可無くして他家へ加勢に行くことを得ず
 6、祈り、黙想その他一日の労働は8時間を定めて行うものとす。時間割は会長および副会長および会計の協議の上にて定め季節により多少変更することあるべし。
 7、本会員は少なくとも二週間ごとに必ず告白し事情の許す限り毎朝聖体を拝領すべし。

 この規則は勿論会憲ではない。
女部屋の規則が長崎教区在俗修道会「聖碑姉妹会」の会憲となり県内各地の共同体が統合されるのは昭和31年である。
 仲知の女部屋の特徴はなんといっても地域の人々に溶け込んでいることである。修道院が教会に隣接しているだけでなく、会員も全員が地元出身でありその奉仕活動も地元の信徒のために行われていた。

 従って、会員はトラピスト修道院へ入会した信徒たちのように、世から断絶した世界に生きている意識はなく、信者も彼女らのことを姉さん、その住居のことを修院と呼んで慕っていた。この地元の信徒との親密な触れ合いはとても素晴らしいことであり、だからこそ、ここ仲知では彼女たちに感化されて多くの信徒の子弟が修道女や司祭となったのである。
 しかし、地域の人とのかかわりが密接であるだけに、それだけ女性だけの共同生活を健全に維持するには厳しい規律が必要となってくる。
 このような思いでうら若き古川師は、早坂司教様への従順の心から姉さんと呼ばれていた院長や姉妹たちの声に耳を傾けつつ規則を草案し司教に提出したのであろう。
 
 
旧修道院落成時(昭和11年6月)

 

2) 女部屋会員の養成

 仲知修道院では早坂司教の会員養成に応えて井手淵ルシア(13歳)を派遣している。
 「仲知修道院100年の歩み」によると、当時の仲知修道院は長崎で勉強させる経済的余裕はなかった。仲知の会員が神学校の奉仕の仕事に招かれたのは彼女らの学費を稼ぐためであり、また学業と公的奉仕を通して奉献生活を高めようとする早坂司教のご配慮よるものであった。
詳しくは「仲知修道院100年の歩み」p28参照

IV、 教区立公教神学校へ賄いの奉仕

 早坂司教は長崎教区の司牧の中で、長崎教区内の各地に散在していた「女部屋」の将来を見通され、会員たちの内的養成だけでなく、経済的援助も配慮して下さった。その一つが教区立公教神学校の賄いの奉仕である。
 当時の日本はすでに紹介したように金融恐慌の風が吹きまくり、多くの人が不安と焦燥にさらされていた。仲知修道院のその頃の生活は相変わらず貧しく、姉妹たちは少しでも生活の足しにするため近くの民家に雇われて日雇い労働をしていた。

 大浦神学校の賄いの仕事に仲知修道院から植村フデ、谷口リュウの2人、鯛ノ浦の修道院から滝下リス、谷中カナ、中田スミの3人が携わることになった。
そのとき以来、仲知修道院では昭和52年まで神学校の移転に伴う運命を共にしながら五十余年の「神学校賄の奉仕を続けることになる。

 昭和5年3月、鯛ノ浦の谷中カナは院長に任命され、鯛ノ浦修道院に帰ることとなった。
 またこの年から鯛ノ浦修道院の養育院事業の拡張発展に伴って人員が不足し、鯛ノ浦修道院の会員が引き上げることになり、大浦神学校の賄いは仲知修道院の会員によって奉仕が続けられた。仲知修道院から真浦ユキ、真浦イト、そして前年度入会した若手の真浦ミツの3人が加わって、5人の会員で賄い奉仕を担当することになった。
 
 
長崎教区立小神学校賄いの会員 昭和15年頃、神学校で奉仕した会員
昭和15年頃の会員姉妹たち 大浦神学校時代の会員(昭和18年頃)

 「賄いの仕事はおもに炊事、洗濯、掃除であったが、これらの仕事は目立たない、隠れた仕事で、実際的に心身を酷使する重労働である。
 朝早くから食事の準備をし、片付け、掃除、洗濯、雑役などなどの単調な仕事の繰り返しで一日があわただしく終わる。祈り、かつ働く修道者として一つひとつの仕事に心をこめて果たすとき、大きな希望と喜びとが沸くのであった。常に5人から6人の姉妹たちがこの務めに携わるようにし、仲知修道院のどの仕事よりも神学校の賄いの奉仕を優先させた。またこの奉仕に支障を来たさないよう健康で、料理にはいくらか経験のある者、働き盛りの姉妹を送った。 

―中略―

 長崎公教神学校は、いろいろな事情で、特に戦中、戦後、あちこちに移転し苦労、困難をしのいでいるが、賄をつとめた会員たちも神学生と運命を共にしている。中でも戦中、戦後の食糧難の時代、食べ盛りの神学生たちに炊くものがない苦しさ、十分な食べ物を与えることのできない 心理的な痛みを体験した。

 神学校は東稜時代に次いで、昭和13年、大浦神学校、昭和19年、十六番の幼きイエズス会の一隅に移った。この頃、戦況は日に日に悪化し、時局柄食料は極度な危機に陥った。朝食は乾パン10個とお茶、昼食も夕食も一杯のお粥、神学生も会員たちも毎日空腹をしのいだ。
 十六番での一年を経てまた大浦に移る。
この年終戦を迎え、食糧事情は戦後の困難の中で解決するはずがなく、みんなで苦労を分かち合った思い出が今も残されている。」
 

「仲知修道院100年の歩み」より
 
五十余年の間、多くの姉妹たちが交代で賄いを務めたが、その中でここでは真浦ミツシスターと真浦キヌエシスターを紹介してみることにする。

真浦ミツシスター
   
 

 生前のミツシスターが江袋の教会信徒尾上勇氏に宛てた手紙の紹介。

 「私は主のはしためです。仰せの如くわれになれかし。
 フサちゃん、あら、勇ちゃん、私は冗談ばかり言って明けましておめでとうも言わなかった気がしましたので今日は五月ですが、明けましておめでとうございます。

 本当に行ったことのない身じゃいろ、空じゃいろ他人じゃいろわからない所へ行って大変なお世話になりましたね。おまけに5000円もらっていかなミツおばでも今思い出すと気の毒でなりません。ご免なさい。この仕業をお許し下さいませね。
もしも勇ちゃん、フサちゃん許さなければ私は牢に入れますよ。

 あよーまた、こんど元気になって どがんなるか。こがんなるかよ。かんべんしろよ。さあ今度から書かんばよ。
勇兄さん、フサ姉さん、本当にお世話になりまして心から嬉しくお礼申し上げます。また、今年もよろしくお願いしますね。

 勇、フサのところに行くとは夢にも思っていなかったのに海辺シミ叔母の都合によりましてどうしてもゆかなければなりませんでしたのでね、とうとう行ってしまいました。
 家は見つけきらず、呼んでも返事はなく、どういう所に来たのかと思いましたが、後ではとても嬉しい気持ちになりましたので嬉しく楽しく天国に行ったようにありましたよ。

 本当にお世話になりまして、天の神様からお礼はもらってください。
私はたった祈りしか持ちません。たったの小さい祈りと大きい祈りをもってこれ 感謝と思って心からお捧げしていますので今度もどうぞ忘れないように声をおかけ下さい。

 あの昔のここに(仲知修道院)いたカラス山(烏山シスターのこと)山のカラスから暦が預って来てやりたい人にやりなさいと言って来ています。
私はひとつ、久志の小さいスミ叔母にひとつ、二人のあなたがたにやりますので使ってください。
 

平成7年5月、仲知修道院 ミツより
主の平和
 
 

 とても蒸し暑い天気よ
 勇ちゃん、フサちゃん、カラばあちゃん、生死にしていませんか。
私は朝の8時からすぐ悲しみの聖母のロザリオを手にして二本繰り上げました。ロザリオを二本、三本しなければ気がすまないのです。これがミツちゃんの仕事。今度は11時から正午まで1時間またロザリオ信心。これが、ミツちゃんのシワくれの半日の仕事でございまする。

 午後は院長からの何か仕事がない限り少し休みたいと思って横になっておりますけれども、どうしても死んだ者や生きた者うんどんがことば思えば横しなも立ちなもなっていられず、また、信心ぶってロザリオをつま繰りだします。目をつぶったり開けたりしぼったりして、どうしてもロザリオはマリア様の所まで届かないままに見えない所しな消えてしまいまする。

 ああ、勇ちゃん、フサちゃんよ、何とこの世ははかないことよ。神様から呼ばれなければ天国も見ることが出来ませんね。ああ お二人ちゃん シワくれミツちゃんはいつもいつもお世話になりましたね。思わぬお世話になっております。
 あのお正月には5、000円もらってだれが5 000円もあげる者がいるでしょう。

勇ちゃん、フサちゃんだけ。本当に夢にも思わぬ所に行って忘れることは出来ないミツちゃんぞ。
でも、死ぬ時は場も口もなかごとなって忘れるかもよ。そのときはごめんなさいね。つまらぬミツちゃんは何のご恩返しも出来ません。たったこのような物をご恩返しと思ってどがんしたろうばと思っておもしろかばって割って食べてみれ。いっちょう焼酎ども飲んでそのおかずにしてみんかな。ものも言えないほどに美味しいに違いありません。

 勇ちゃんから「何の、これはカスばかりたい」と言われるかもしれませんが、これでも目つんばり(自分のこと)は賢明ぞ。賢明の思いで粗末にしないように食べて欲しいぞね。
5千円になるまでこのようなつまらないものを続けたいと思いますので楽しみにしていてね。
はっは・・・・・。
 あよ〜”ハゲ頭の歌どもひとつ歌おうかな

 1、うちの親ぢはハゲ頭 こら
   ハゲとハゲとがけんかして こら
   どちらも怪我せんでよかったな こら
 
 2、うちの親ぢはハゲ頭 こら
   ハゲ頭にハエがとまる こら
   すべって 転んで また とまる こら
   この山 素足じゃ 登れない
   ツルン ツルン ツルン

 これで最後にしましょうよ
 一劇すみました。
    ミツ ばあちゃんより

  お二人様へ

追伸
 何回も何回も繰り返して読みなさい
とても味が出てきます。
あよ〜目のしむうなったよ ちょっとたちなろうかな
サンバヨ、サンバヨ
書いたから見よればいかにも独りでおもしろうして笑いながら涙の出るごとおもしろうしてね。我が書いとっていくらおもしかかってさ。


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