ミカエル・中村 五作師

 

故真浦ミツシスターの略歴
 
 
真浦ミツ シスター

 大正元年11月24日、北魚目村仲知で井手淵雅吉・タシの6女として生まれる。
 大正元年11月25日、江袋教会で受洗
 昭和4年9月28日 仲知修道院入会
 昭和32年7月15日初誓願宣立
 昭和38年3月15日 終生誓願宣立
 平成10年9月12日仲知修道院にて帰天
 
 

浦上の公教神学校移転時代の会員たち

 故真浦ミツは昭和4年(長崎教区が早坂司教を迎え、法人教区として独立した翌年)当時は未だ女部屋時代であった仲知修道院に満16歳で入会。
その頃の仲知女部屋の生活は自給自足の貧しく厳しい時代でしたので一日のほとんどは大自然相手の農作業、江袋の民家に雇われてハナミ収穫作業などの日雇い労働、燃料にする薪拾いなどの荒い山仕事に明け暮れる毎日であった。

 しかし、頑丈な体力に恵まれて働き者であった彼女は、どんなに体を酷使する仕事であってもひるむ事無く天性の明るさで生涯接する人に喜びと希望とを与え続けた。
 
 昭和11年、24歳で大浦の神学校に派遣され、8年間務めて昭和19年に仲知に帰った。
その後、昭和28年4月、41歳で再度派遣されて以来、昭和51年3月まで浦上公教神学校で23年間勤続し、賄いの仕事に奉仕した。
 
 
 


 

 神学校奉仕の務めを終えたシスターは仲知修道院で調理を担当し、保育事業と教会奉仕に取り組む姉妹たちの良き支えとなっていたが、平成6年頃から高齢のため身体の不自由さと足の痛みを捧げながらお祈りの務めに明け暮れる日々を過ごしていた。

 平成10年8月4日、食欲の減退に伴なうからだの衰弱が目立ってきたので町立立串診療所に入院。
 9月7日には良き最期の準備をさせるために退院させ、9月12日姉妹たちのお祈りと聖歌に包まれる中で安らかに帰天する。
 
 
昭和37年、神学校で賄いとして奉仕する会員

追悼
 真浦ミツ様
仲知教会 下口 勳
 
 

 私がミツシスターの葬儀ミサの時に彼女を追悼する説教をしたが、残念ながらその原稿はもはやありません。
 しかし、まだいくらか彼女の思い出が心にありますのでそのいくつかを紹介したいと思います。

 ミツシスターは、私が公教神学校在学中の6年間神学校で賄いの奉仕をしていましたが、その時の彼女の印象は実際の年齢よりもかなりお年に見え、顔つきに特徴のある人でした。悪戯好きの私達神学生は、彼女に勝手にあだ名をつけて「鬼ばば」と呼んでいましたのでそれを知った彼女はさぞかし立腹していたことでしょう。

 彼女は苦労人でしたが、人にはそんな態度はいっさい見せずユーモアと頓知にあふれたシスターで、いつも人を喜ばせることを考えていました。毎年12月8日の無 原罪の御宿りの聖母の祝日は神学校のお祝い日であるということで、その日の夕食はいつも食堂でご馳走がありました。するとたいてい食堂に一番近い窓の側に来て自作自演の踊りを披露するシスターの姿がありました。そのシスターこそミツシスターで私達はシスターの舞を窓越に鑑賞し拍手喝采で感謝を表していました。

 平成6年仲知に赴任してから平日の早朝ミサの聖体拝領の行列の時にいつも鈴虫みたいな美しい声をだして歌っている方がいました。大勢の人が並んで歌っているときのことでしたので、声の持ち主はしばらく分かりませんでした。
ある日曜日のこと、私は聖体拝領させながら今日こそ歌の主を突き止めてやろうと思ってしばらく聖体拝領を中断して良く見ると、その方はミツシスターでした。
 そのとき私はシスターが歌が得意であることをはじめて知りました。

 彼女の青春時代の仲知女部屋はすべての姉妹たちの希望を入れてあげて進学させるほどの経済的な余裕なんてありませんでした。

 彼女は当時の仲知修道院のこのような経済事情で好きなことを勉強する機会はなかったが、それでも音楽は得意で実家にあった大正琴や修道院にあったオルガンで独習し聖歌を弾きながら歌うということが好きであったということです。

 ある日曜日の午後、当日仲知修道院の姉妹たちは用件あって外出し、私は司祭館の前庭にいて司祭館から見える仲知の美しい海を漠然と眺めて楽しんでいました。勉強に疲れたときにはその疲れを癒すためにいつもそうしていたのです 。

ところが、何かを伝えようとしている誰かの声が下の修道院方角から聞こえてくる。最初は気にもとめない でいると何分たっても聞こえてくる。ただ事ではないことを知った私は、声がしている方角にサンダルを履いたまま、急ぎ足でどんどん近づいていった。するとどうでしょう。ミツシスターが大声を上げて急を知らせているではないか。

 びっくりした私は間もなく修道院の北側の部屋から煙がもうもうとたちこめているのを発見しました。
 煙の原因は古いストーブの不完全燃焼によるもので大事には至らずに済みました。
 それにしてもあのときミツシスターの異常を知らせる叫びにはこちらも面食らい、驚かされました。

 平成10年8月のある日のこと、私は修院の真浦アヤノ院長様より、立串診療所に入院していたミツシスターのため病人の秘跡と聖体の秘跡の依頼を受けました。
 そのときシスターの身体全体は腫れ上がりいかにも苦しそうであったが、意識の方はまだしっかりしていました。そこで私はベッドに寝たままで苦しみに耐え、希望と信仰をもち続けているシスターに病人の秘跡と聖体拝領 をさせ帰ろうとすると、彼女がはっきりといかにも元気のない寂しい小さな声で「神父さま、さいなら」と言われました。

 この言葉を聞いた私は彼女が私の訪問に感謝を表そうとしていると知りながらも、これで彼女とはお別れかと思うと寂しい気持ちになりました。また、生前の意志の強い明るい性格の彼女にはふさわしくないわびしい言葉のようでもありました。
 
 追伸 

 私が浦上にある公教神学校を卒業後、神学校の賄いの皆さんは年に一度神学生と一緒にバス旅行をするようになったそうですが、その時のことをかつての同僚であった真浦キヌエシスターは平成13年3月4日、私に次のように語ってくれました。

 「ミツシスターは神学生に人気のあるシスターで、バス旅行のときシスター方が神学生より歌を所望されたときには、何時も姉妹たちを代表して歌って神学生を喜ばせていた。ところが、ある年、捻挫か、通風でバス旅行できなくなったとき姉妹たちから何とか行けないかと念を押された。すると、彼女は「うんどんは人の苦しみが分からんとか、痛みがひどくてバス旅行どころではないのに」と苦言を受けたそうです。

 その年以来、バス旅行が近づくと、神学生からミツシスターは来てくれるとよね」としばしば催促を受けるようになった。また、その頃、いっしょに働いていた仲知の真浦ヨシシスターはバスに酔うので何時も留守番をしていたそうです。(その真浦ヨシシスターはまだ元気で仲知修道院で祈りによって姉妹達を助けておられます。)
 

お別れの言葉
 仲知修道院姉妹代表 山添睦美シスター
 
 

 「人は生きてきたように死ぬ」といいますが、正に、シスターミツの死の瞬間を目のあたりにして、そう思いました。
 私が仲知に赴任して来たのは3年半前。シスターミツは既に年をとられて、足が思うように動かず、ひたすら祈りに専念する毎日でした。

 毎朝のごミサに始まり、朝・昼・晩の祈りでは、持ち前の鈴虫のような声を張り上げて歌い「また、「祈りしか出来んとよ!」と口ぐせのように言って、祈りを必要としている人々のために懸命に祈り、支えてくれました。
 部屋にいないときには必ず聖堂にいる、というくらいに、何時も祈っていたシスターミツの姿に神の美しさを見、力づけられていたように思います。

 また、今年1月に開所したデイサービスセンターにも喜んで出かけ、人を笑わせたり、「うんがためにいのりよっとぞ!」と言って、挨拶を交わしていました。
また、どんな小さなものでも喜んでいただき、いただいた物は人に分け与えていました。特に、毎朝ごミサに参加している子供たちに与えて喜ばせていました。

 このように、通称「ミツおばさん」と呼ばれ、小さい子供からお年寄りに至るまで親しまれていたミツさん。ユーモアのある性格と溢れる信仰心によって人をひきつけ、さらには神様をも惹きつけていたのでしょう。

 病床についてからも腫れ上がった重い身体を抱えながらもお見舞いに来てくださる方々、看病してくださる方々に絶えず気配りを忘れなかった姿は、十字架を担って歩まれたイエズス様の姿をそのまま映し出していたように思います。

 そして、最後は、自分の家で親戚や姉妹たちに見守られ、大好きな聖歌が静かに歌われている中ゆっくり息を引き取られました。

 大きなことをするのではなく、与えられたところで与えられた使命を心から一生懸命に生き抜くことこそ、神様のみこころであり天国への道であることを、私達はしっかりと教えていただきました。
そして、祈りの偉大さ、神を敬い信頼することの素晴らしさをも心に納めることが出来ました。

 シスターミツ、たくさんの遺徳を私たちのために遺してくださってありがとうございました。
今度は私たちが先輩の生き方に習って天国への道を歩みつづけたいと思います。

 でも私達は弱い者です。
くじけそうになったら「あょー、うんがなんばしよっとかよ」と言って励ましてください。
そして、いつの日か天国でお会いしましょう。」

平成10年9月14日
2、真浦キヌエ

 真浦キヌエシスターの略歴

 昭和4年5月11日、山添初五郎・エツの次女として北魚目村一本松(仲知)に生まれる。
 昭和4年5月14日、古川師より仲知教会で受洗、洗礼名はルシア。
 昭和21年5月1日、マグラレナ真浦八千代(13歳)、アガタ真浦ジツ(23歳)と一緒に仲知女部屋に入会。
 昭和33年7月19日、初誓願宣立
 昭和42年7月5日、終生誓願宣立
 昭和56年より仲知教会、生月教会、仲知教会で佐藤師、烏山師、原塚師、下口師の賄をして教会奉仕。年齢は71歳であるが、現在もなお元気で仲知教会主任司祭下口師の賄いとして教会奉仕に専念している。

 昭和25年1月7日、21歳で真浦ミキと交代して大浦神学校の賄いとして派遣される。
 昭和27年9月23日、浦上の公教神学校に移転、移転してから約5年後の昭和33年頃、仲知修道院に戻る。

仲知で1年ばかり農業をしながら修道生活していたが、浦上の修道院に欠員が生じたため昭和34年頃再度派遣。以後、昭和56年3月までの約22年間賄いとして奉仕する。

 彼女には平成13年3月8日、仲知の司祭館で大浦賄い時代の思い出を語ってもらった。以下はその時の話の要約である。
 
 

―燃料

 彼女が大浦神学校へ派遣されたとき21歳であったので仲知の院長の真浦ノブはそのことを心配していたが、神学校の院長の真浦シオは逆に彼女が若くて元気であったことをとても喜び、彼女には炊事のほかに真浦キオと組ませて燃料にするオカクズ、食料の米とパンを運ぶ仕事、それにし尿処分の仕事を命じた。

 オカクズを運ぶ仕事は大八車で仕事の合間を見て真浦キヤと組み、1週に2 3回浪の平と銭座町にあった製材所に通っていた。 6つの大袋(この袋のことを異人袋と呼んでいた)に満杯にして大八車に積み上げた上、道中落下しないように紐で堅く結び併せてから2人で運んでいた。
 坂道は力がいるのでジグザグ運転しながら運ぶように工夫していた。運転は年長であった真浦キヤがし、彼女は後から押し上げる仕事をした。

 無料であったが、浪の平のオカクズは野外に放置されてあった関係で大抵雨で濡れていることが多かった。この場合、燃料として用いる前に乾燥させるための手作業が必要であったから嫌だった。それにまた、帰り道の急勾配の坂道を女2人だけで押し上げるには相当の腕力が必要で難儀していた。神学生が空いているときには加勢してもらうことがあったが、神学生はこのお手伝いをすることを喜んでいた。

 他方、銭座町の製材所は遠いところにあったが、そのオカクズは乾燥していて直ぐに燃料として使うことが出来たので大抵浪の平のオカクズより、銭座町のオカクズを譲り受けていた。

 燃料にするマキは教区会計をしていた岩永六郎師が大山の業者から購入していた。そのマキは主にお湯やお米を炊く釜で用い、煮物や味噌汁などを作るときにはオカクズを燃料として用いていた。

―昭和25年ごろの神学校の食糧事情はどうだったか。

 彼女は戦中戦後大浦神学校の賄いをしていた真浦イト姉や真浦ミツ姉からその頃の神学校の食糧事情の話を聞いて知っている。イト姉たちが賄いをしていた昭和20年頃は神学生に食べさせる食料が尽き果ててしまうことがよくあった。やむなく姉妹たちは東琴平町の山本さんの畑まで出かけ、野菜はもちろん芋畑の芋の葉や茎も大切な食料としていただいて神学生に食べさせ自分たちも神学生と共に空腹を耐えていた。

 しかし、彼女が賄いに派遣された昭和25年頃は食料は十分でなかったにせよ、戦中戦後の食糧難時代に比較すると随分改善されていた。
 
 国連からか、あるいは外国の恩師からかはっきりとしないが、その頃神学校に愛の救援物資として乾燥したキャベツ、卵、小麦粉、缶詰などの食料品が送られていた。
 
 真っ白い小麦粉をパンにしてもらう仕事も院長の真浦シオから命じられた日課であった。
 彼女と真浦キオの2人は昼食を済ませると間もなく、一斗缶に入っている小麦粉を一缶づつ丸ごと両手で胸に抱いて長崎市の弁天橋近くにあった尾崎というパン屋に届けていた。そして、毎日の早朝ミサ後、今度はパン屋が作ってくれたコッペパンを異人袋に一杯詰め込み、背中に背負って運搬することが彼女たちの大切な仕事であった。この仕事は当日の神学生の朝食になっていたので肉体的には大変な作業であったがやりがいがあった。

 救援物資の他に芋とかジャガイモ等の食料が大山教会、出津教会、伊王島教会など長崎地区の教会から届けられていたので、神学生には大釜で茹であげたジャガイモと缶詰の肉を大皿に盛り付け主食として食べさせていた。

 当然5人の姉妹たちも朝昼晩の食べ物は神学生と全く同じ献立であったが、時々山口司教様の霊名のお祝い日とかクリスマスや復活祭のお祝い日には、朝永忠次(現在は助祭)さんが司教館のご馳走の余りとかコーヒーの余りを気を聞かせて持って来てくれることがあった。すると真浦シオの後に院長をしていた真浦ミツ姉が例の金きり声で「朝ちゃん、朝ちゃん、ありがとう、ありがとう」と感謝をオーバーに表していた。

―し尿処理

 神学生のし尿の世話をする奉仕も若い彼女たちの仕事の一つであった。
 司教館のトイレの汲み取りは大山の姉妹が牛で運搬して運んでいたが、神学校のトイレの汲み取りは彼女たちの仕事で、 ときどき様子をみながら満杯近くになる前に真浦キミと一緒に汲み取り作業をしていた。し尿を捨てる場所は神学校上の畑の隅にあったが、時間が工面できるときは野菜畑の肥料として使用していた。肥桶を畑まで担ぎ上げる作業はなかなかの重労働で何時も悪戦苦闘して作業をしていた。どうせ同じきつい仕事なら楽しく作業をしたほうが良いと思って歌を歌おうとしたが、相手も自分も歌は得意ではなかったのであまりうまくいかなかった。

―夏みかん

 大浦天主堂の上に夏みかんの木があった。
神学生は中島政利校長神父様より「夏みかんの木に実っているミカンは勝手に取って食べてはならない。しかし、木から自然に落ちたミカンであれば自由に取って食べても良い」と言われていた。

 ある神学生は人に気づかれないようにこっそり外出し、ミカンが地面に落ちるまで思いっきりその枝をゆすり続け落下させてまんまと口にしていたという。

 本人は校長の注意事項を破ったのではなく、それを拡大解釈したまでのことだと、自分自身に言い聞かせての犯行でしょうけど、人に隠れてのミカン狩そのものが何よりの約束違反行為になっているのではないかしら。
 
 

 この話はいつ頃のことなのかよくわからないが、故浜口健一師が大浦神学生時代の懐かしい思い出として、後日、彼女らにこっそり話してくれたそうです。

 なお、姉妹達は早朝から朝食の準備で忙しいので、姉妹達のことを配慮された山口大司教様が毎日大浦天主堂の脇祭壇で午前5時にミサを立てて下さっていたが、その時のミサ使いは友永助祭であったそうです。

 
 
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