ガブリエル 西田 忠師

1947(昭22)年〜1953(昭28)年


(2)、土地勘抜群の司祭

 病人訪問はどの司祭にとっても大切な聖務の一つであるので、編者の私は信徒の方々にいつも歴代司祭の病人司牧についてお聞きすることにしている。仲知に赴任された邦人司祭はいつも司祭になりたての若い司祭であったことからいつもねんごろに病人を見舞っておられるが、それはいつも交通不便なこの地区においては苦労と喜びとが交錯していた。

 西田師の場合も同じであるが、特徴的なのは「病人訪問で土地鑑が非常に発揮されていた」ということが伝説みたいに伝承されていることである。ここではその幾つかを紹介してみる。

 ―尾上利作氏宅への訪問

 尾上利作氏は西田師が仲知におられた昭和20年代には江袋教会の熱心な信徒として西田師と深い親交があった。しかし、昭和52年頃から昭和58年に死亡するまでの約6年間は、病に倒れ身体が不自由の身となり隠居の生活をしていた。
 

尾上勇の家族。写真中央が尾上利作氏だと思われる。

 その頃のことである。ある日、西田師がひょっこり彼の隠居に見舞いに来られて「利作おんじ、元気しとっとか」と言われた。家族は師がかつての信徒を忘れないで、しかも名前もちゃんと覚えておられているばかりか、自宅までわざわざ訪問して下さったことに深く感動した。
師はその日、同じ集落内にある江袋経営団の大敷網納屋を訪問され時、利作氏の事を聞いて訪問されたのである。
訪問後、家族で話題になったのは、師の突然の訪問よりも師が近道をして訪問されたことであった。

 師は普通の道からでなく、近道をして来られたが、その道は海岸を通っている道で、途中から険しく細い急傾斜の山道となっている。土地鑑のある地元の人でも知らない人は多い。それをどうして分かったのだろうか。

 意見は二つに分かれた。その一つは「神父様は仲知滞在の折、毎年麦の収穫時期になると、脱穀機を「スワノ丸」で仲知の真浦の浜より江袋の海岸まで運搬していたから土地鑑があった。だから、江袋のどんな山道も良く知っておられた。」と言う意見である。

 もう一つは「いや、いや、神父様は大敷網の納屋で職員に近道を聞いてから来られたのであろう」と言う意見である。真実は果たして、そのどちらであったのだろうか。まだ解決していない。不思議であったからこそ家族の者はこの訪問を良く覚えておられる。
 

尾上利作氏の自宅はこの写真からすると右側に位置しているが、写真には写っていない。他方江袋経営団事務所は防波堤の近くにある。ここから海岸に沿っての道は険しい山道となっている。
江袋経営団事務所 昭和57年
今も現役として使用されている。

 ―川端辰衛門(72歳)宅への訪問

 昭和26年の盛夏、当日は海上もべた凪であった。西田師は1ヶ月に一度定期的に病人訪問をなさっていたが、その日は米山教会の信徒川端辰衛門にご聖体を届けて慰めることを思いついた。病人の川端氏は末期の食道ガンのため余命幾ばくもない状態の中、家族の介護を受けながら自宅で療養していた。

 そこで師は歩くのが良いのか、それとも動力船を利用する方が良いのか考えたが、結論は動力船の「スワノ丸」を利用することにされた。
 というのは陽射しの強い日中に汗かきながら1時間も歩くよりも動力船を利用するなら時間も短縮できるし、動力船なら走行する時に風が当たり涼しい。

 そこで師は米山の教え方白浜増雄(18)と竹谷マチ(21を仲知に呼んで同行させた。師は司祭の制服であるスータン(男性用の長い着衣)を着たままエンジンをかけてしばらくの間暖機運転すると、猛スピードで船を走らせ何分もしないうちに米山の西側の岩場に着いた。ここからなら山越えした所にすぐ病人の家がある。しかし、山越えするには難所がいくつかある。ごつごつした岩場に細心の注意を払ってよじ登っても、さらにその先は急斜面の磯道をよじ登らなければならない。

 師は白浜増雄に船番を命じると、竹谷マチをご自分に同行させてスータン着用のまま足場の非常に悪い岩場を登り始めた。

 船番を命じられた白浜氏は陽射しよけのテントがない狭苦しい船室で身の置き場のない暑さにへなへなになっていると、間もなく、二人が汗びっしょりのまま帰って来た。
 後で先輩の竹谷マチにその時の事を聞くと彼女は即座に「山の中では蜂にまで刺されておうじょうした」と答えた。

 彼は彼で神父様はどうして磯道を覚えたのだろうか、不思議に思った。
 米山の人でもこの磯道を知っている人は少ない。釣り好きの人が何人か知っているくらいである。しかも、この磯道は外からは隠れてぜんぜん見えない。

 西側から米山集落へ至るこの磯道は「クロバエ」、「ハンノメンズ」、「アブラミズ」の三通りの道があるが、神父様はそれらの道を全部知っておられたとしても、いつそのような道があることを覚えたのだろうかと、50年後の今でも不思議に思っているそうである。
 

西竹谷。写真中央は土地の人から「西竹谷」と呼ばれていた集落が昭和52年ごろまであった。今は廃村になっているが、この集落から北の海岸は人を寄せ付けない急傾斜となっていて米山へいたっている。
西田師は仲知からご自分のモーター船でこの急勾配の山道を登って病人訪問をされている。
この写真の近辺はイッサキ、ミズイカがよく釣れるポイントであり、編者も仲知滞在のときには毎日のように自分の機会船で漁を楽しんだ懐かしい場所である。
5年前に釣りに趣味のある島本大司教様をこのポイントに案内した時もイッサキがいれぐいみたいによく釣れた。
そのときのイッサキはすべて帰り際に仲知修道院のシスター方に土産としてさし上げられたことをよく記憶している。

―山口師の病人訪問

 昭和23年は西田師にとって教会建設で多忙で建設資金を調達するために留守にすることが多かったが、そのような時には江袋におられて西田師の司牧の手伝いをしていた山口正師が活躍された。
 

 ある日、胃潰瘍で自宅で療養していた米山教会の青年・浦越初五郎(22)は吐血したので、その親は心配し病人の秘跡を授けていただくために兄の浦越徳一を仲知の西田師を迎えに走らせた。ところが、あいにく西田師は留守をしていたので、使いの徳一は山口師のおられる江袋司祭館までさらに急行しなければならなくなった。
 

手前が江袋司祭館 昭和60年

 病院の家族は使いの徳一の帰りが遅いので、親戚の山田常喜(21)にお願いして今度は徒歩ではなく、伝馬船で神父様を迎えに行ってもらうことにした。

 依頼された山田青年は救急病人の発生ということで家族の2丁櫓の持ち船で急いだ。幸いに海上は北東の風であったので、帆をかけて航行し、予定よりも早く赤波江の海岸に到着した。その足で太宰治の「走れ メロス」のように友情にかられ赤波江峠を一気に走り抜けて島ノ首に下りると、江袋峠を山口師、その賄いの久志サヤ、使いの浦越徳一の3人の姿が見え隠れしている。
 

赤波江海岸。中央に見える建物は赤波江教会である。当時、山田青年はこの急勾配の坂を攀じ登って江袋へと急行した。

 そこで、山田氏は息を切らしながら大声で「神父様、迎えに来ました。赤波江海岸に舟を準備しています」と知らせた。
 赤波江海岸からは山田常喜と浦越徳一の2人の青年は力任せに魯を漕ぐけれども、逆風で舟はなかなか進まない。息をきらしながら魯を押していると賄いのサヤさんが加勢してくれたので何とか米山の海岸までたどり着くことが出来た。
 当時の山田青年は今でも魯をこいで大変きつかったのでこの病人奉仕のことを忘れないという。
 
 
 
 

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