ガブリエル 西田 忠師

1947(昭22)年〜1953(昭28)年


(3)、青年会活動

 仲知小教区で一番青年が多かったのは西田師が仲知小教区に着任された昭和22年から昭和23年頃である。この頃の仲知地区ではまだ戦後の就職難が続いていたので、地元で農業をする傍ら漁業をして家族の生活を助けていた青年たちが数多くいたし、戦地から引き揚げて来た青年達もいた。しかし、昭和24年からはほとんどの青年たちが奈良尾、浜串、桐、青方の巻き網船に就職するようになったので、青年はいても青年活動は殆ど出来ない状況となっていく。

 昭和23年の5月頃のことである。
西田主任司祭は仲知小教区内の総ての信徒集落仲知、江袋、米山、赤波江、大水、小瀬良から男子青年を仲知教会に集めて総会を開催し仲知小教区青年会を発足させた。選挙で三役を決めたが、その時の選挙で会長に選ばれたのが江袋の山口高志氏である。その頃は丁度仲知で療養しながら西田師の司牧の手伝いをしていた山口正師もおられた頃で、選挙の用紙に山口正と書き込んだ青年もいて、指導司祭の西田師より「何で山口神父様の名前を書いたのか」と注意を受けた青年もいた。
 
山口高志氏。現在もお元気で老人会会長として頑張っておられる。

 その頃の青年会はまだ男子青年と女子青年とが別々に分かれて活動をしていたが、巡回教会にもそれぞれ男女の青年会があった。
米山教会にも男女の青年会があり、それぞれに活動していたが、男子の青年会では19歳の山田常喜氏が会長に抜擢された。その頃は戦後のどさくさした社会的状況で、やっと民主主義の時代になっていたものの国民の生活はまだ潤いがなく淋しい生活環境であった。そこで、青年たちが先頭に立って住み良くて明るい地域つくりに一役買おうと考えて、米山教会男女の青年会会員が合同で津和崎の小中学校を借りて演芸会を催すことになった。

 米山集落を3班に分けて演劇をすることにし、それぞれの班に責任者を任命し練習に励んだ。当日は米山の信徒だけでなく、津和崎の信徒も大勢駆けつけて盛況であったと言う。
どのように盛況であったのか当時の青年会長であった山田常喜・エス子夫婦に聞いてみた。

―演題 侍  出演山田エス子他
 

米山教会献堂式典で里脇大司教さまより表彰を授与されている
山田エス子さん

 男女合同であったが、練習はすべて男子とは別にした。自作自演の作り芝居であったが、2人の家来がいた侍が主人公。主人公の侍は2人の家来に1キチ、2キチと言うあだ名をつけ1キチにも2キチにも「きれいな女を俺の所に連れて来い。」と命じるところから演技が始まる。
1キチ役の山田エス子は侍の所にからだの不自由な人を連れて行くとざまに怒られた。2キチ役の竹谷百合子が別嬪を連れて行くと「よしよし」と喜ばれた。ここらから芝居は展開していくがそれは忘れてしまったと言う。
しかし、芝居は好評でその後しばらく見事な演技をした1キチ役の山田エス子は1キチと呼ばれるようになったとか。
(配役。侍 竹谷幸子、家来1、山田エス子、家来2、竹谷百合子)

―演題 診療風景 出演 山田常喜氏他

 男子で山田氏のグループの芝居は診療風景である。津和崎の村に病院と診療所とがあったので、そこでの診療の状況を真似したのかもしれない。

 先ず、会長であったので、演劇をする前に始めの挨拶をした。「初めてのことではあるが、米山の青年たちがこの地域の活性化のために演劇を準備した。いずれも金をかけない素人の寸劇に過ぎないけれども私たちなりに準備してきたので米山と津和崎のじいちゃん、ばあちゃん、それに子供たち、ゆっくりと楽しい一日をお過ごし下さい。」

 50年以上も前のことで寸劇の内容は殆ど忘れているが、ただ診察室で看護婦が廊下で診療を待っている患者の名前を呼ぶのがおもしろかったというが、今でも覚えている名前はすべて差別語となっているので割愛することにする。

―資金

処女会の場合 

 個人の家に雇われて麦搗きをし、その報酬で得た金を処女会資金にする。自分の家の麦搗きはきついばかりで全然面白くはなかったが、処女会活動資金を作るために友だちと雇われてしていた麦搗きの方はいつも楽しかったそうである。芋の収穫期にこちらの家に3 4人、あちらの家に3 4人と分かれて芋堀のアルバイトをして、それで得た収益金を処女会活動資金にしていた。そうして得た活動資金はお正月の頃に行っていた「肌併せ」と呼んでいた新年会のご馳走つくりなどに充てていた。
 
 
 
 
 

(4)、仲知伝道学校
昭和23年と昭和24年
 

創立当初の「女部屋」跡は仲知伝道学校となり、その後、青空保育所の敷地となる。

 尾上フサさんの思い出

 江袋教会の尾上フサさん(69歳は昭和23年3月仲知小中学校高等科2年を卒業後、同年5月赤波江教会信徒から推薦されて仲知伝道学校の生徒となり二年間西田師より指導を受けた一人であることから師についての思い出は深い。平成13年3月10日、彼女の家庭にお邪魔してその思い出を聞いてみた。
 

 1、山羊の飼育

 西田師は司祭館の近所にあった伝道学校の生徒を励まし、気慰めになると思って山羊の飼育をさせることを思い立った。

 幸いにも山羊はその頃仲知のどの家でもその糞尿を畑の肥料にするために飼っていたので、師は知り合いの信徒からみじょか(可愛い)山羊を二匹無料でいただくことが出来た。また、山羊小屋も新たに造らなくても伝道学校の物置小屋をちょっと手入れするだけですんだ。
 

 山羊の飼育はもちろん伝道学生7人に世話をさせた。
山羊の飼育を任された伝導生はみんなこのプレゼントに大喜びで、えさは伝道生7人が交代で雨の日も風の日も毎日のように近くの山や畑に行って山羊の大好きなクロンジュウの木の葉っぱなどを切って来て食べさせ可愛がっていた。

 ところが、そうしているうちに近所の信者から「この伝道生の小娘たちが畑をふんだくって(荒らして)困っている」との苦情が伝道生に伝わった。そこで、7人の伝道生は反省することはしないで寄ってたかって日頃可愛がっていた山羊をそれぞれ足げりして「うんどんがせいでみんなから怒られるとぞ」と苛め始めた。

 丁度其の時である。精米所からの仕事から帰って来た西田師が山羊小屋に集まっている伝道生を見つけると何をしているのか疑った。ひょっとしたら自分の悪口でも言って面白がっているかもしれない、ということで探りを入れようとして伝道学校の炊事場に作業着のまま上がりこみ様子をうかがっていた。

 このことを当時伝道学校の炊事場の仕事をしていた真浦イトが伝道生に伝えた。「あんたたちは山羊小屋でなんばしとったとか。炊事場のこの板張りの大きな足跡を良く見れ。これは神父様の足跡ぞ。ここからあんたたちの様子を見とったとぞ。」伝道生は恐ろしくなりながらも嘘をつき「何もしよらんよ」と嘯いた。
みんなは後で西田師から怒られるに違いないと覚悟していたが、何のこともなかったから一安心した。

2、罰

 ある日のこと。西田師は誰からもらったのか袋いっぱいのクルーン(果物)を伝道学校の生徒に配り喜ばせようと配慮され伝道学校へ来られた。「今からクルーンを配るからここに並びなさい。」伝道生は言われるままにそれぞれ並んだ。
 しかし、西田師が袋の中からクルーンを3 4個づつ一人一人に配り始めると、まだ中学校を卒業したばかりの15歳の娘たちは照れくさくて尻込みしだした。恥ずかしくて素直に師の善意を受け取ることが出来なかったのである。

 怒った西田師は「部屋(司祭館)に来い」と命令された。そして、「この廊下に両手を突いて臥せろ」と命じると、近くから木刀を探して来て一人一人のお尻をかなり強く叩き始めた。
 後で伝道生はお互いにいい合った。「格好の悪い変な罰を受けたが、どうしてなのだろう。西田神父様は戦争中軍事教練を受けたり、兵隊に入隊の経験もあるからきっと上司からこんな同じような罰を受けたことがあったので同じことをしてみたくなったのだろう。」

 西田師の指導は厳格で、特に時間に1分でも遅れるとやかましくがみがみとせがみ指導していた。

3、短気であった西田師

 西田師の頃はまだラテン語のミサの時代であったが、師も先輩司祭がそうであったように典礼を大切にされた。特にミサを荘厳にするための聖歌の稽古は厳しかった。クリスマス、復活祭、そして、ご昇天祭、聖母被昇天祭が近づくと何週間も前から教会に修道院の姉妹、伝道生、そして各集落から青年男女を集めてラテン語の聖歌の稽古があった。

 クリスマス深夜ミサの本番のことである。教会は内も外も信徒で埋まっていて一度立ったらもう一度座るために場所を確保するのに時間がかかるほどであった。
 
 

平成8年12月24日クリスマス深夜ミサ風景 
練習には中学生も参加して二部合唱に彩りを添えた。

しかし、指定席を与えられていた聖歌隊は習ったとおりの3部合唱でラテン語のグロリアを一生懸命に歌っていた。

 ところが、途中で音程が狂って心に響くはずの合唱が雑音みたいになって来た。すると、ミサの最中なのに西田師が祭壇(聖台)からいきなり大声で「歌はもう止めろ」と叫ばれた。聖歌隊は歌うのに一生懸命で自分たちの合唱がおかしくなっていることには気づいていなかったので、どうして大声で叫んでいるのだろうと考えながら最後まで歌い上げた。

 西田師の弟も大神学生で夏休みや冬休みになると良く仲知に来て師に代わって聖歌の指導をしてくれたが、この人の指導もなかなか厳しかった。

 聖歌の稽古のことで思い出したが、西田師に請われて師の事務の仕事を手伝っていた山添シオノ(当時21)さんがいた。この人は教え方上がりの人で西田師の転任後、秋田の修道院へ入会されたが、このシオノさんは習字も得意、絵も得意、刺繍させても彼女の右に出る人はいなかったほどの器用さであった。何をさせても上手であったが、特に聖歌を歌わせると見事であった。西田師の賄いの仕事にも奉仕していたから伝道生にとって彼女は憧れの女性であると同時に頼りになる姉さんで、時にはクリスマスのポスターを描いてもらったり、刺繍を頼むこともあった。
 

 

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