ガブリエル 西田 忠師

1947(昭22)年〜1953(昭28)年


竹谷茂氏(昭和8年4月12日生まれ)の半生
 
平成9年、仲知小教区主催の聖母行列に参加さた時の竹谷繁氏右端が本人

 竹谷茂氏の父(喜代太郎)の兄弟3人は出征しているが、その内2人は戦死。一人は生き残り平成8年4月に引退するまで長崎教区司祭として活躍された竹谷音吉師である。現在は福江市聖マリアの園で健やかな老後を過ごしておられる。

 竹谷茂氏の父竹谷喜代太郎は昭和13、年シナ事変に召集されお国のために勇猛果敢に戦っていたが、攻撃中に敵兵の銃弾に倒れる。仲間が攻撃終了後、本人の所に戻ってみると、臨終の状況でいつもお守りみたいに身につけていたロザリオと祈祷文とを渡しながら「家族に4人の子供を頼むと伝えてくれ」と言い残して息を引きとった。

 夫の戦死の公報があった時には、母はショックで一人座敷で寝込んで悲しみに暮れていた。家の外では幼い子供たちが遊んでいた。家の直ぐ側は現在コンクリートの側溝となっているが、当時は谷川となり流れ水が溜まっていた。事故はそこで発生した。末っ子の俊彦が水の中に浮かんだ状態で発見されたのである。姉ウメノからの通報で直ぐに長男茂が(当時3歳)母に知らせると、母は助けなかったということで茂のびんたをはったそうである。直ちに人口呼吸が施されたが間に合わず死亡した。

 母キヨにとってはまさに夫の死の知らせと幼い子供の事故死とが重なるという2重の不幸を体験してしまった。

 父のことを長男の茂氏はその死がまだ4歳の時であったので覚えていない。お国のために戦死したので残された家族は彼が学校を卒業するまで、政府が家族の生活の面倒を見るという約束になっていた。 
 

竹谷繁氏宅は写真中央に位置している。旧教会は彼の家の隣にあった。

しかし、3年もたたない内に政府からの生活援助金は打ちきられてしまい、その後、彼の言葉を借りるなら彼の家族は「ざまな苦労」をすることになる。幸いにも母の兄弟高尾忠次郎は米山でも生活力のある人であったので、芋やカンコロなどの食糧を援助してくれた。

 しかし、女一人身で育ち盛りの4人の子供を育てるには十分な食糧はなかったので、母の竹谷キヨは芋畑の仕事に朝から晩まで打ち込んだ。しかし、それでも十分でなかったので、木が生い茂っている山を切り開いて芋畑にする荒仕事を試みたが、木の根がいっぱいあるため悪戦苦闘し、子供たちにも手伝わせたがなかなか思うようにはいかなかった。

 貧しさの最たる象徴となるものは終戦直後に米ぬかを食わせられたことと裸足で登校したことである。
米山では当時一般庶民の履物であった草履つくりはたいてい父親の仕事であったが、その材料である麦藁が不足する家庭が多かったので、小値賀まで買いに出かけなければならなかった。幼い子供が4人いる竹谷キヨの母子家庭ではその藁を買うお金に困ることがよくあったので、隣近所の家から中古の草履を譲って貰っていた。それでも不足していたので4人の子供たちは夏場はたいてい裸足で学校にも教会にも通っていた。教会では玄関から少し離れた所の溝に溜まっている水で足を簡単に洗って教会内に入っていた。

 長男の彼が小学4年生になると、叔父の高尾忠次郎はご自分の伝馬船で夜のイカ釣り漁に連れて行きイカを釣らせ家のおかずにさせていたが、本人は夜10時過ぎると船の中で寝て朝になると学校へ登校していた。
小学6年生になると、母は少しあった雑木林の山を高尾忠次郎に売ってその代金で伝馬船を買い本格的にイカ釣り漁をさせるようになったが、それでも学校をサボることは許されなかった。どんなに貧しくても人並みの勉強だけはさせてあげたいという母の考えがあったからである。

 昭和19年、津和崎尋常小学校を卒業し5年ばかり母の農業を手伝っていたが、昭和24年になると、仲知地区から多くの若者が桐、奈良尾、岩瀬浦、浜串の巻き網船に就職するようになったので彼も現金収入を求めて奈良尾の巻き網船「大宝丸」に就職した。その後は少しづつであるが、家族の生活も改善されていくようになった。
 

津和崎小中学校

西田師の言葉

仲知教会赴任の頃
 

仲知教会
 昭和21年12月初旬、有川港から折からの北風の潮をかぶりながら、一本松の浜に着いた。2回目の契約で、新聖堂の工事が始まっているとのことで大先輩のやりかけられた工事を新米ホヤホヤの私ではとお断りしたところ、山口大司教様から叱られての赴任であった。その年の2月、黙想会を頼まれて寒さに震えた旧聖堂はまだそのままで大工さんが何とか仕事にかかっているだけのところであった。

 先任者はおられず、ただ宿老さんたちによると1回目の工事契約は、当時としては大金の25万円の手付金を渡したところそのままドロン、工事は挫折のほかなかった。あきらめていたところ、町の好意で払い下げてもらった坑木の値段が5万円から一挙に25万円に跳ね上がり、この伐採積出しにも励みが出て、それを元手に佐世保の某と2回目の契約となり、工事開始となったとのことだった。最初の信徒会議では、鯛ノ浦教会からの餞別の5千円も吐き出してしまったし、寄付金募集と簡単に決めてしまって、五島中を駆け廻ったが、恵んでもらったあの頃の大型の百円札束を枕にしながらの渡海船での旅であった。主任神父様方の了解は頂いたとはいえ、若気のいたりで、信者さんたちにはご迷惑をかけてしまって今は恥ずかしい気持ちである。

 最初の志をもらったのは桐の教会で田川神父様の話を聞いて大平教会の宿老さんがそんなことならと受け取ってきたばかりの木炭の代金ですがと千円そっくり恵んでくださったのは、ただ感謝感激であった。奈留島、桐、浜串、船隠、鯛ノ浦、青砂ヶ浦、野首、瀬戸脇など御厄介になった。その間工事は旧聖堂の解体、新聖堂の建て替えと進んだが、佐世保の請負師は姿も見せないし、資材もいくら請求しても送ってこない。仕方がないので棟梁との話合いでこっちの金で購入することとし佐世保に出かけたものの、毎日の材木の値段の跳ね上がりに、インフレのすさまじさに驚きもした。

 釘・ガラスなどの資材も配給制で、ままならず、長崎に出かけ、朝がけで白浜県議(当時)の自宅までおしかけ、朝飯まで御厄介になりお供して県庁へ行き、釘・ガラスなど思いがけなく必要を満たすことができて、工事もなんとか進めることができた。天井のいわゆる船底張りのため仲知、江袋、大水あたりの大きな松という松は1本も残らないくらい供出してもらった。

 その間に手付金を持ち逃げした1回目の長崎の請負師も、中本文平氏のお手伝いもあって住まいを突き止め、同町長、前田建設委員長などをともなって訪ねてみた。普通の住まいに少し疲れぎみのおかみさんと、子供は何人かいるようで、本人は留守であった。告訴するかということになり、山口大司教様にお伺いを立てたところ、「借金の穴埋めのため債権者に唆されてやったのだろう。告訴しても取り戻しはできまい。むしろ快く堪忍してやりなさい」。それが神様のお心というものだと諭されて、信者の皆様にも納得してもらった。

 あとのことになるが献堂式の時、10万円の補助金をくださった。竣工は遅れたがやがてその時がきた。すると姿を見せなかった請負師も、引渡しと清算のためやってきた。工事期間中は資材の手配はしないし、工期は遅れるし、今更何を言うかとの気分であった。その前の晩、献堂式の聖歌を練習しているところへ「私は佐世保の長田というもんだが」と右手を懐に突っ込んで凄みを効かせたつもりか、明日は唯ではおかんぞとの形相だった。ごろに凄まれたのは一生に一度の経験であったろう。

 中本町長さん方の立会いのもと全信徒と請負師との会議では結局工期の遅れの損害賠償金を取るどころかインフレによる損失もこちらで負担することになり、信者たちはさらなる負担を負わされる羽目になってしまった。こうしてできた聖堂も、白蟻などのため30年の命であった。今は真浦の丘に荘厳な聖堂が聳えたち、草ぼうぼうであった共同墓地も整備されきちんとした墓碑石が並び建っている。

 信者たちの家も私の在任当時の家は一軒もない。車あり、生活の豊かさが溢れている。小さな集落ながら、大司教様をはじめ教区司祭4名、お告げのマリア会、カリタス会などのシスターたち多数。神様と人に対する寛大な心の表現が今日の仲知の姿ではなかろうか。

("仲知小教区史"から引用)
 
 
 

神学校の賄さんに感謝
  
 昭和4年4月、私は大浦の小神学校に入学した。それと同時に神学校の賄として働き出したのが、仲知と鯛ノ浦の女部屋の人達であった。その後、仲知の人達だけになって50年、神学校の賄部屋から仲知の人達は姿を消すこととなった。仲知の修道院は創立100周年を迎えたが、実にその半分、半世紀の間神学校のために働きつづけて来たのである。
 
昭和18年ごろ大浦神学校で奉仕した仲知の姉妹達

浦上に移転した当時に公教神学校で奉仕した仲知の姉妹達

 昭和22年12月、若いばかりの私は仲知に赴任した。神学校でお世話になった賄さん達の故郷で務めることになって、私には大きな喜びであった。仲知に住んで見て、仲知の女部屋に残って一生懸命働いておられるのを知ることができた。そのころの仲知は、離島のなかの離島と言われた

 ところで、畑中街道と言われた道はあったが、それも江袋までで本村の立串までは山路を3時間も歩かねばならなかった。土地は山が海岸まで迫り平地はほとんどなく、わずかに地勢を利用した段々畑も、肥桶をやっと担ぎ上げて下に置いたら畑が見つからなかったと言われるところであった。働き手を神学校に出した後に残った人達は又、自分達の生活のため悪戦苦闘しているのを見て、仲知の女部屋の人達全体が、私達神学生のため働いてくれているのだと、今更「賄さん」の有難さを感じさせられたものである。

 今の仲知教会の主任佐藤神父様の話によると、仲知の教会は学校の休暇時期になると、神学生や志願者達で一杯になるというところで、その子供達とは、仲知の女部屋の人達が、又人手を分けて保育園を経営して三ツ児の魂のときから、小中学校の宗教教育まで頑張って導いて来た親達の子供達である。大人達の中には司教様あり、神父様あり、シスター達も多い。仲知の部屋の人達は、主任神父様方のご指導と相まって、実に召命の苗床の育ての親なのである。
 

浦上公教神学校で働く仲知の姉妹達 昭和37年

 仲知の女部屋は、お告げのマリア修道会仲知修道院となり、その創立100周年を迎えた今日、仲知全体が変ぼうした。畑中街道は山道を通して車道が立串まで通り、畑には雑草がしげって、住まいにも生活にも都会の匂いが漂っている。修道院も又、保育園と共に美しい姿を真浦の浜に輝かせるようになり、シスターと呼ばれ、黒い制服もみんなの前にほこれるようになった。

 然し、仲知の修道院のシスター達の輝きは、いつになっても、ミサを献げる神父様の姿であり、修道服に身をつつんだ仲知出身のシスター達のつつましい姿であるべきであると思う。創立100周年を迎えた今、先輩達の築きあげた精神はいつになっても守り続けてほしいと思う。

("仲知修道院100年の歩み"から引用)

 
 

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