ガブリエル 西田 忠師

1947(昭22)年〜1953(昭28)年


思い出(1)、祈りに生きたひとのひと駒

   宮崎カリタス会シスター尾上クニ子
 
 

 細身の曲がった腰きもの姿に
極薄手ベールを、そっと着けた
ひとりの おばあさん

旧仲知教会マリアさまの祭だん側の柱の根本
そこはあの おばあさんの指定席のようだった
日曜日ごと早朝から祈っていた
ひざまずいて祈っておられた。

 わたしはミサに行くと何となく
その おばさんのそばに席を占めるようになっていた

おばあさんのもの静かな後姿が
祈りの雰囲気を醸し出していたから

ある日家で父に尋ねてみた
上品な態度で祈っている側の、おばあさんのことを

「江袋からよりも遠い米山から
仲知まで歩いてミサに来ている

若いころは、修院に入っていた
しかし天国へ行く道を真剣に考えて
その生き方を変えられた。

あの おばあさんはそういうひとだ。」

 ずっしりと重みのある 答えが得られた
 
 
2000年5月、奈良尾町福見教会へ巡礼した時の仲知の信徒
福見教会

「信仰を生きる おとなの人」
といった感じでこどもながらに
「別のひと」をそのおばあさんに
みるようになった

おばあさんの名を知らない
おばあさんの声を知らない
おばあさんに ありがとう
おばあさん天国では どんなおいのりを!

 素朴な美しいひとに観た
 思い出の一齣を折りおりに
語りつぐ よろこび 
そして 感謝

 ミニ解説

 平成10年、99歳で天寿を全うされた作者の母尾上ミキさんの晩年は丁度この詩に詠われているいるように祈る人であった。隠居から江袋教会までの道を朝な夕な通い続け聖体訪問することを日課とし趣味としていた。この母への思慕の情がこの詩の背景になっている。(解説は編者)

 アヴェ・マリア

 「神父様 ステンドグラス、すばらしいですね」「それから早く言わなければ・・・」
仲知で最後にお会いしたときの会話となりました。
 神父様は、仲知小教区のためにベストを尽くして下さいました。
わたしごとにになりますが、家族特に亡き母ミキ存命中はご多用中を最後の日まで病床を訪ねて慰めご聖体を授け永遠の命への道を明るくし良いご指導を頂きましたことを感謝の内に思い出しております。ありがとうございました。

 神父様のことを家族との関りからお察し申し上げますと、小教区全体がこのようにきめ細かいご配慮で司牧され、慈父的愛に潤されていたにちがいありません。
「神父様が家を訪れて下さる。しかも積極的に自然の成り行きでもあるかのように・・・・」と伺っていました。
神父様をお迎えできることは信者にとって大きな行事です。神父様をお迎えする家・家族、少しの緊張感と大きな喜び、恵み。事実多くの場合ご聖体と一緒に訪れて下さるのですから、信じる者にとってこれ以上のことがこの世界のどこにもあるはずがありません。
 深く感謝を込めてお礼申し上げます。
深堀教会 聖堂へは数十年前になりますが一度お寄りしたことがございます。
きっと御地で実り多いご聖務となるでしょう。神様のみ手が下口神父様を導かれるますように心からお祈り申し上げております。
 ご健康にもお配りなさいまして、今後ともお祈りご指導をいただけますようよろしくお願いいたします。

思い出(2)

 仲知の思い出   濱口如安

 仲知を出てから45年、我がふるさと仲知には職業柄、たまにしか帰ることが出来なかった。しかし、転勤族は行く先々がふるさとであり、そこではいろんな出会いと別れがあり、その地区独特の良さがある。交流する中でいろんなことを学び教わってきた。仲知も、よう変わってしもうた。オリが小さいころ教会が造り直され、餅まきがあり拾いに行ったばって一つも拾えんで、うろちょろしていたら久志清おんじが「ジョンさあ」と言って米ん餅をいただいた思い出がある。

 今の餅まき用の餅はビニールで包んであるが、その頃は餅そのものであり泥がついたのをアヤシて食ったり、友達と分け合ったり家に持ち帰ったりして自慢したものである。今はその教会の姿はなく立派な修道院の姿がある。

 この頃の神父様は西田神父様で自慢の「すわの丸」に乗せてもらったことが懐かしい。当時は伝馬舟が主流であり、モーター(動力船)は、島ノ首の「徳富丸」、真浦の「真浦丸?」、久志の「栄丸」の三隻しかいなかったから、それはそれは嬉しかばっかりだった。(後になって「三宅丸」が進水し、中3の時小値賀へ遠足に行き、その帰りに仲知小島前で機関故障を起こし心配のあまり集まった住民で真浦の浜は埋め尽くされた感じだった)
 
昭和27年、桐小教区の主任司祭・竹山涼師のモーター船
師はこの機械船を巡回用として使っていたが、西田師のモーター船もこんな感じの機会船であったであろう。

 やっとミサ使い(侍者・当時はラテン語)を覚えたころ、今の島本要大司教様が神学生で帰省しておられた時、早かミサに行き侍者をしたのは良かったものの、聖変化の時鐘を鳴らせなく戸惑っていたら、西田神父様が祭壇の床をドンドンと打ちならし、びっくりうったまげたことが忘れられない。要神学生もびっくりし、私にゴメンネ・・と。大水でミサがある時は伝馬舟に乗り合わせ、二丁櫓で交代ごうたい漕いでいった思い出もある。
 
 

 
98年10月23日、帰郷して早朝ミサを
司式する島本司教様。上・下
 ある日曜日、要理の稽古前に仲間達と教会ガケの草切りをしていたら「日曜日に仕事をするもんがあるか!」と一喝され、たたかれもした。ひでー良か神父様じゃった。今思うと身をもって教えてくれていたのだ。

吉浦神父様時代にもミサん使いは続けた。毎日欠かさずミサに行くと、ひと月毎に賞品がもらえたので、みんな競い合って行ったものだ。自分で出席表を作り、今もその表を大事に持っている。

 「堅信」を受ける前の三年間は、特に要理を鍛えられた。日曜日のミサ後には信徒みんなの前に立たされ、一人ひとり順番に「人に最も必要なものは何でありますか?」等問われ、「人に最も必要なものはOOであります」等々大きな声で答えたものでした。3部からなる要理を覚えたお陰で今の生き方があるように思える。早朝から江袋教会まで歩いてミサにあずかった事もある。
 
堅信の準備をする女子中学生

 「堅信式」は、瀬戸脇、野首、米山、大瀬良、小瀬良、大水方面からの者と一緒に3年に一度ぐらいに行われていた。当時は道も整備されておらず、船を利用するか歩く以外に方法がなく、山口司教様が来られる時は住民こぞって道端の草払いをし真浦の浜から教会までの細道を歩かれる時は、みんな道にひざまづき十字をきり歓迎したものだった。
田中神父様の時は、よく司祭館に行って笛を吹いたり歌ったりして遊んだ。「よう来たな」と言ってお菓子等を頂いたので、それを目当てに行ったのかもしれない。侍者は今の万葉神父さんが熱心に頑張っていた。

 仲知で過ごした中3までは、どこの家庭も祈り、働く姿があった。起きたら父と子とを唱え、5時にはミサに行き農作業や一本釣り、大敷の網もめ、牛飼い豚飼い、夜遅くまで働き、眠たかとをこらえて夕の祈り・・・と。
仲知の良さは、仲良く知るという名のごとく、英語で発音するチャーチ(教会)の教えを守り、他を思いやる心がどこの家庭にもあり、実践している姿は、「ふるさと仲知を愛する一人」として誇りに思っている。
仲知ありがとう!

思い出(3)

幼い日の思い出

宮崎カリタス会修道女シスター 濱口ルシア

 キリスト降誕2000年の大聖年を迎えるすばらしいお恵みの時期に、なんと! 信仰の歩み200年を迎える私たちの教会仲地!おめでとう!そして、ありがとう!
 

 先祖代々継承してきたこの長い長い歩みの中で、平らな道や、でこぼこ道、曲がりくねった道(美空ひばりさんの歌のようですが・・・・・・)など、いろいろなことがあったことでしょう。本当にご苦労さまです。

 私がものごころついた頃の仲知の一日の始まりは、毎朝の御ミサに家族みんなで参加し、そこで神様の祝福の新たなエネルギーをいただいて始まるのが日課で、冬期は、太陽もまだのぼっていない暗い中を歩いて通う。両親が通うので、子供も雨の日も風の日も、メダカのように着いて行く。三宅商店のところまで歩いて行くとはるか遠く江袋、赤波江、島ノ首方面から、また、竹谷、一本松方面から、ホタルのように懐中電灯の光が、チラチラと、道を照らしながら、真浦へ、教会へと、向かって歩いているのがわかる。

 腰が曲がり、杖をつきながら、腰痛、足痛のお年よりの方々も教会に入り、手を合わせ、熱心に祈る。特に聖変化の時の深々と頭を下げ、敬虔な態度、風景は何をそんなに祈っているのかな?私も、そんなに祈りたいな、と、何回も思ったことが、今でもはっきりと脳裏に焼きついている。そして何か、いい思い出として、残っている。

 日曜日は、御ミサに2回参加し、労働を休んで神様を賛美するために、ぬいものさえしないで一日ゆったりと過ごし、主の日を大切にし、墓参りして先祖を大切にし、どの家庭でも、幼児期から、両親や、まわりの大人たちの後ろ姿で、祈る心を学ばせられていたのでしょう。
 

私の集団生活の第一歩は、仲地の保育園で、(故)スイ先生、(故)ヤチヨ先生、アヤノ先生(現院長様)から学び、先生が大好きで、尊敬していたこと、初告解、初聖体の練習も楽しく、大人たちも一緒に祝ってくれたこと、また、何よりも友達と遊ぶ日常生活が、とても楽しかったことなど、思い出されます。
 
 ある日、友だちが、ブランコから落ち、先生方が大急ぎで湿布し看護しているところへ行って、大丈夫かな?と心配したこと。お遊戯会の「舌切り雀」の劇で、欲張り婆さん役が、子ども心にあまり好きでなかったが、口に出さないで練習していたのに、降園したある日、「好きでない役もみんな大切な役だから頑張ってやるほうがいいんだよ」と父からいわれて、「どうしてわかるのかな?大人って、やはり見破るのかな?」と不思議に思ったこと、しかしその劇を楽しみに待っていた母が、前日に祖母の危篤で実家に帰り、父がおゆうぎ会祝いのごちそうに、きな粉のボタモチをつくってくれて、少し淋しかったけど、とてもおいしかったこと、その時、思い通りにならない人生の悲しみ、寂しさのようなものを黙って受け入れている父母の気持ちのようなものを感じ、私も頑張らなければと、心秘かに思いました。

 やがて小中学生時代は、まわりの方々に大変お世話になっている我が家の父母、まわりの方々の親切、お互いの必要を感じとって、さりげなく助け合い、協力し合い、とても心温まる平和な雰囲気を感じ、当時学校で学んだ、人間の「人」の文字が示す意味(両方から支え合っている。支え合わなかったら人はくずれる。)を、大人達の言動で学ばせていただいたように思う。

 仲知での人との出会い、関わりの中で、何より大切な信仰の土台、人生の喜びや悲しみ、考え方、感じ方などを共に学び、そして神様のいつくしみと愛に導かれ、15歳で召命を受け、シスターとして、長年幼稚園に勤務させていただいている今も、幼児期に保育園で学んだいろんなこと、特に優しい先生方の一生懸命の姿がとても大好きだし、帰省しても、主任神父様をはじめ、信徒の懐かしい皆々様、お告げのマリア会のシスター方の祈りや愛の模範、人間のほのぼのとした温かさなどが、私を励まし、心の支えとなり、ここまで歩き続けてくることができたと思います。
 
大聖年ミサ風景 仲知教会

 そして、今更のように、仲知での一つ一つの出会い、体験が、私の幼い日の宝物であり、懐かしい思い出となり、また、感謝と共に心の飛躍となっている今日です。

 ありがとう!私たちの教会仲知!いつまでも、神様の御保護の中で、これから300年に向かって、信仰の喜びを多くの人々に分かち合いながら、高く高く、羽ばたいていくことでしょう。

  

「仲知小教区史」よりの引用
 

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