ガブリエル 西田 忠師

  
 III 信徒の生活
 序

 昭和20年代は仲知小教区の各集落、特に仲知集落から就職口を求めて相当数の青年男女が、若松村桐古里郷の沿岸巻き網船「勢漁丸」の乗組員となっている。この巻き網船は白浜仁吉代議士の兄である白浜由蔵が経営者であった。また、女子青年もかなりの人が桐古里の製造業に雇われて就職している。
 
二列目左より二人目が白濱由蔵氏
3列中央が私の父・下口勢四郎。

 これらの信徒は現在70歳を越える信徒となっているので、かなりの人が既に他界している。例えば、青年時代に「勢漁丸」に乗っていた真浦の真浦榊さんは平成12年3月5日に死亡し、真浦岩男さんも平成13年2月9日に死亡している。

 編者の私は実は若松村桐古郷231番地に昭和20年に生まれ育った者で桐が故郷である。私の実家の近くに勢漁丸の事務所と網棚とがあったし、私が幼い頃には父は地元からだけでなく、北魚目村大瀬良や下五島の三井楽などからも人を雇って製造業をしていた。他方、2人の兄たちが勢漁丸の乗組員として働き、下口家は結構な現金収入を得ていた。しかし、それも一時期に過ぎず、父勢四郎が全くの報酬のない桐古里漁業共同組合長や教会の宿老をしていて自分の家族を顧みない状態が続いたので、下口家の生活は常に貧しい生活であった。
 
桐古里

 このような事情で真浦榊氏も真浦岩男氏も桐の経済状態だけでなく、私の幼い頃のことや家族のことまでよく知っておられたので、平成5年4月15日に仲知に赴任したことから2人には親近感を持ち、いつの日か昭和20年代の桐と仲知の経済状況、信仰生活の状況などをつぶさにお聞きしたいと思っていた。しかし、2人とも帰らぬ人となってしまった。とても残念である。

 幸いにも桐の勢漁丸に乗っていた仲知地区の信徒はまだかなり元気で社会人として活躍している。米山の山田常喜氏、仲知の山添照雄氏、女子青年では竹谷キセ氏らである。
3人のほかにもまだ青年時代に桐で働いた信徒は何人もいるけれども、一応3人に昭和20年代の仕事についてお聞きしたことをここにまとめてみた。

 ここで断っておくが、昭和20年代の上五島の漁業の変遷については正確には「奈良尾郷土史」、「若松郷土史」、「上五島郷土史」を参考にすることは常識であろう。
しかし、私はあえてこれらの郷土史を参照しない。参照していないので多分年代的な記述においては多くの間違いがあるかもしれない。
それでも、仲知の信徒が桐や奈良尾の船乗りの時代に体験したことの苦しみや喜びの価値が下がるのでないと思っている。

 私が一番関心があるのは昭和20年代の仲知出身の信徒たちが就職先でどのような困難に遭遇し、どのようにそれを乗り越え、かつての、そして現在の仲知集落とその家族の経済と信仰とを支えて来たのかということである。

事例 I

山田常喜氏

昭和3年11月6日 南高来郡小浜村生まれ
昭和4年2月2日 米山教会で洗礼
昭和14年8月18日 仲知教会で堅信
昭和26年8月9日 米山教会で結婚

昭和20年8月15日終戦、 同年9月1日宮城県松島航空隊より帰郷して父の仕事を手伝う。
昭和21年1月 西彼杵郡大島村崎戸炭鉱で3ヵ月のアルバイト、
同年5月 佐世保の引きボートの会社へ就職、
昭和22年8月 父の命令で再度帰郷し兄と組んで半農半漁。
 
山田常喜氏

漁業の信徒集落・桐

 昭和24年7月、奈良尾の沿岸巻き網船「福邦丸」に就職する。その頃の「福邦丸」の母港は若松村桐にあったので、その頃の桐集落の経済状況をよく知っている。

 その頃の桐は勢漁丸、新興丸、福邦丸の網棚があるだけでなく、イワシの製造業でとても活気を呈していた。福邦丸の網棚のある前島に通じる小道はよけて(避けて)通らなければならないほど、どこでも所狭しとばかりに製造したいわしを野外に干している風景が見られた。
 
桐漁港 勢漁丸の網棚は右側の中央部に、振興丸の網棚は
手前に、福邦丸の網棚は向こう側にあった。

しかし、この風景も昭和26年頃になると、漁場が北松浦郡小値賀の沖合いなど遠くなり、それまで桐に入港していたいわし船が帰港しないようになり製造業の方は途絶えてしまった。

 しかし、休暇(月夜間)になると勢漁丸は桐に入港していた。勢漁丸には桐古里の信徒だけでなく、仲知の信者も大勢乗っていたので、仲知までの約35キロの山道を一日かけてわざわざ歩かなくてもよいようにと本船で送り迎えしていた。しかし、送迎する船に乗れない場合には山道を歩いて帰郷しなければならなかった。勢漁丸に昭和23年から昭和30年まで7年間乗っていた故真浦岩男氏は生前にこう話していた。「最初の内は休暇になると仲知まで山道を一日かけて歩いていた。勢漁丸の漁船で送迎してもらうようになっても用事があったり、また桐の浜口酒店で飲みすぎてみんなと帰れなくなった時には1人歩いて仲知に帰ることもあった。」

漁労の方法

 山田氏が桐に網棚があった福邦丸に就職した昭和24年頃までは、まだどこの巻き網船団も奈良尾の沿岸や青方の沿岸など母港の直ぐ近くの海を漁場としていたし、捕れる魚もイワシであった。いわゆる、イワシを捕るいわし網沿岸漁業であったので、夜に出漁して朝は母港に捕れたイワシをつんで帰っていた。
 
出漁風景 
漁労風景 本船
漁獲風景
水揚げ風景 鮮魚船

船団 

 いわし網を積んでいる本船、電気を起こして灯をたきイワシを集魚する火船、捕れたイワシを漁場でバラのまま積んで母港まで運んでいた母船の3船が1船団であった。昭和24年頃はまだ油が高騰していたので、出入港する時には本船が火船と母船を曳航していた。このため、火船と母船の乗組員はしばしば船頭の指揮のもと魯をこがなければならなかった。

 昭和26年頃になると、漁場が沿岸から野母崎沖、小値賀沖、斉州島沖などの沖合いになり、捕れる魚もイワシだけでなく、アジ、サバなどの青物になると、漁獲物をバラのまま母船で母港に運んでから、さらに運搬船に積み替えて、長崎や下関の魚市場に出荷していた。

船乗りの娯楽

力試し(腕相撲)

 船乗りは生活空間の極端に狭い船の中での生活であるので、こと脚力に関しては少しずつ衰えてくる。それを無視して運動会などの時に無理して全力で走り、アキレス腱を切るという怪我をすることがよくあった。しかし、船乗りの仕事は網を手繰るとか、魯をこぐことなどの両手、両肩を使う重労働であったので、特に腕力とか相撲に自信のある人が多かった。そこで、力試しと称しての「腕相撲大会」が船乗りの何よりの気晴らしであった。

焼酎を飲んで親睦

 船乗りは台風シーズンの時など海上が時化て出漁出来ない日が多い。仲知の船乗りは昭和20年代の陸路の交通は非常に悪かったので、時化て何日も出漁出来ない時は何をしていたのであろうか。

 そのような時は勤務時間内であるから主に網仕事をしていたが、同僚と酒を飲んで愉快に過ごすことがまた船乗りの楽しみの一つであった。漁があったときには給料以外に会社には内緒の闇の小使い銭(シャー)があったので、そのお金を交際費として酒代に充てていたのである。

 勢漁丸の船着場のすぐ近くの浜口酒店はそういう時の酒好きな船乗りの寄り場であった。仲知の船乗りもこのようなところに出かけてよく同僚と飲み交わし、どうかした時には1週間くらい酒びたりになることがあった。
 

真面目な仲知の船乗り

 桐には古里に煉瓦つくりの美しい教会があったし、主任司祭も常住していて毎日、ごミサがあったので、仲知の信徒は時として酒を飲みすぎることはあっても日曜日のミサの勤めを大切にしていた。

 昭和33年の桐の勢漁丸は漁がなく倒産しかかっていたが、そのような経済的に苦しい時期に桐の信徒たちはがんばって鉄筋コンクリート建ての立派な教会を見晴らしの良い池の口に造っている。
 
桐天主堂

 昭和32年のクリスマスのことである。毎年勢漁丸はクリスマスの前夜の漁は休業していたが、昭和32年のクリスマスの夜に限り、桐教会新築工事に寄付するために出漁することにした。すると、地元の桐の信者が漁労長の川添金八に不平を言った。「せっかくのお祝い日もさせずに働かせるなんてなにごとぞ。」これを聞いた漁労長は「仲知の信者を見習え。自分の教会のためではないのに不平一つこぼすことなく、真面目に働いてくれているではないか。」


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