ガブリエル 西田 忠師
1947(昭22)年〜1953(昭28)年 仲知天主堂落成に当たりて
昭和23年 婦人会代表8月10日の今日、この良き日に落成式を挙げるにあたり、婦人会一同に代わりまして一言ご挨拶申しあげます。
この暑い日、又、御繁忙中にもかかわらず、わざわざ各有志方多数御来席を得ましたことを、私ども婦人会一同喜びに絶えません。ここにご参列の皆様方、今日、皆様方のあでやかなご臨席を見るにつけ、私どもの胸は鼓動がいやがうえにも高鳴るのを感ずるのでございます。
顧みますれば、昨年の11月、泉様組がこの仲知教会に参られましてよりこの方、大工様をはじめここにご参列の各有志のご援助と犠牲とはいかばかりであったか、ここに言葉を要しない所でございます。あぁ大工様方、私どもは何と御礼を申し上げていいものでしょうか。
あの肌をつんざく冬の日、何となく眠気を催すこの夏の日も、足取り勇ましく、 朝早くより現場に集い、うまずたゆまずカンナ、ノコギリ、槌音高く、汗だくだくお働き下さり、せめてものご疲労を少しでもいやす薬にでもと、心尽くしの粗末なお茶も意の如く行き届かなかった事を、遺憾至極に存ずる次第でございます。次に、この難工事に対しましては西田神父様、中元村長様方のご熱意とご忍耐、ご努力、ご援助と、献身的態度には、感涙あるのみで私どもの終生忘れえない所でございます。
さらにこの不景気にもかかわらず、労力、お茶、特に生活難をおかしてまでも大金をお恵み下さいましてつつがなく落成の港までこぎ着けましたことは、これ寄付者ご一同さまの賜物で心より深くふかく御礼申し上げる次第でございます。
私どもは毎朝、毎日曜日を通して安らかなこの慰安所に参るたびに案ずるのは、泉様組と寄付者ご一同様方に感謝かんしゃの、この言葉のみでございます。本当に難工事と言われていたこの仲知教会も、ここにご参列の各有志様方の献身的ご努力によりましてついに落成いたしました。
そのご援助とお骨折りの万分の1なり報いたいものと、せめてもの酒と肴を準備致しました。今日は、ごゆっくり心ゆくまでお召上がりくださいまして、辛酸を流して下さいますようお願い致します。これをもって婦人会一同に代わりまして、皆様へのお喜びと感謝の辞と致します。
江袋教会出身で、五島で一番最初の邦人司祭 島田喜蔵師帰天
昭和23年3月27日
前列中央山口大司教様、その左が島田喜蔵師でこのとき師は鯛の浦に隠居されていた。
井持浦教会主任司祭をして折られたときの記念写真前列中央 トマス島田喜蔵師(94歳)は昭和23年3月27日聖土曜日の朝3時40分五島鯛ノ浦教会で逝去された。
師は五島北魚目村江袋に生まれ、日本教会復活後まもなく大浦神学校に入学したが、浦上四番崩れから起こった迫害中、明治2年ドイツ汽船で密かに香港に避難、ショウザンの関東教区神学校で勉強を続けた後、横浜神学校でラテン語と修辞学を勉学、東京神学校の開設と共にここに入ったが、明治8年長崎神学校仮校舎が建てられたので、大浦に帰り、明治20年2月13日司祭の聖位に上げられた。長崎神学校第一回の卒業生で現存の日本人司祭の最高齢者であった。聖徳の誉れ高く死の病床に倒れるまでよく聖職を完うしておられた。葬式は3月30日梅木、西田、川口師が執行され遠近の信者多数参列、信徒、青年、少年少女代表の弔辞が捧げられたが、特に少年少女代表の真心こもった弔辞は参列者の涙をしぼった。昭和23年4月号 「長崎教報」より
青空保育所開設(昭和24年)
青空保育所建設(昭和25年)
青空保育所 西田師は仲知教会建設が一段楽すると、子供の教育に力を入れることにし仲知に「保育所」の設立を計画した。
昭和24年5月15日、「仲知青空保育所」として旧修道院(伝道学校)で保育が始まった。初代園長西田師、保母は洋裁の仕事をしていた真浦アヤノと、前年度入会した真浦スイの2人であった。収容児童52人、遠くは江袋から竹谷まで広がる地域の児童であった。
昭和25年4月、認可保育所として申請するため、園舎の新築に着手した。これまでの保育所(旧修道院、仲知伝道学校)を解体することになり、子供たちの保育は修道院に移った。修道院の1階全部が提供され修道院は賑やかになった。園舎の建築に関しては西田師が設計し、備品、遊具などの設備、官公庁、業者との交渉、申請の書類など一切を引き受け、責任を持って工事を進め完成させたのである。
青空保育所 昭和53年
青空保育所 こうして着工以来7ヵ月目、昭和25年11月、大村の「岩本組」によって工事は無事完了した。木造瓦葺、一部2階建て、建築面積283平方メートル。敷地は712平方メートルであった。
保育室、遊戯室、事務室、医務室は2階に、調理室、倉庫、便所、それに別棟に浴室が設けられ、当時としては完備された立派な保育園舎であった。
昭和26年1月1日、児童福祉法による保育所の認可を得た。定員70人の保育が4人の保母(真浦スイ、真浦アヤノ、それに竹谷ヤエ、純心女子高で学んだ真浦八千代が加わる。)、調理員(真浦イト)1人、用務員(水元恵子)1人の6人によって行われた。嘱託医は生摩、松本病院の松本先生であった。
青空保育所の先生と園児と
後列左より 真浦スイシスター
西田師、竹谷ヤエ先生、真浦八千代先生青空仲知保育所は、最初から完全給食を行った。父兄と話し合い、給食の材料を持ち寄ってもらった。地元でとれない米、麦は毎月1升5合、野菜と魚は割に豊富であった。特に魚は大敷き網の魚をもらうことが多く、燃料の薪は父兄が交代で集めるなど、子供たちの保育には村中の人々が関心を持ち、必要なものはみんなで持ち寄って協力したのである。
お告げのマリア修道院
「仲知修道院100年の歩み」より西田師(その3)へ
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