ガブリエル 西田 忠師

 

食事といわしの刺身の大食い競争

 昭和24年頃の船乗りの食事は極めて質素であった。カンコロ飯が主食。このカンコロは下五島の三井楽から仕入れていたので、船乗りが本船で三井楽まで買いに行っていた。野菜は地元の桐の百姓が作った野菜をイワシと交換していた。おかずはもちろん捕りたてのいわしを煮付けたり、おびいて刺身にして食していた。

 イワシの刺身は酢ヌタで食するのが美味しく、また、多く食べられた。力自慢で食欲旺盛の船乗りの集団のことであるから、よくイワシの大食い競争が盛んに行われていた。

 適当な板切れに自分たちで作ったイワシの刺身を並べておいて「よーいどん」の掛け声の合図で食べ始め、誰が一番になるかを競うのである。普通で30匹位食べればよい方であったが、一番の大食いは100匹を超える人がいた、という。

 昭和27 、8年頃になると、カンコロ飯の中に少しだけ米を入れるようになった。それからさらに、三食の内一食は米ご飯になったが、そのときの米は食い残しても決してそれを捨てなかった。大事に保存していて次ぎの食事の時に食べていた。

 その頃、実家ではまだ米のご飯など食べていなかった。
この頃、彼が乗っていた大洋丸は斉州島で魚が捕れるものだからなかなか帰港できなかった。燃料の油や飲み水が不足してきたため、やっと15日ぶりに奈良尾に帰港して20世紀梨の非常に美味しかったことをなんだか今でも忘れないという。

 あの頃、船員にとって水は樽製のタンクであったので、十分でなく直ぐ不足していた。お風呂は勿論のこと朝起床しても顔を洗うことが出来ないばかりか、歯を磨く時にも塩水で磨いていた。野菜、果物も不足していたので、それが原因で脚気や肋膜炎など成人病に罹患する船乗りが多かった。

 昭和30年代になると、半麦飯となり、それから麦より米の量が多くなっていくようになるが、調理担当のコックは時として麦は軽くて浮き上がるので外に流して捨ててしまい米だけを炊いたりすることがあった。
 

コールタールでの網染め 昭和27年ごろ
 

昭和22年ごろの桐の港風景 この頃まではコールタール染め作業をしていた。
現在では海岸線に沿って県道ができ車も通うようになっているが、この時代にはまだ道は整備されておらず、村民は山道を通って奈良尾に出かけていた。写真中央にかつての山道が見える。
 巻き網船が西沖に出漁しアジ、サバ類を捕るようになった昭和27年頃の網の材料である網糸は、まだ綿糸で弾力性がなくて手入れしないと、おもれて腐食しやすかった。その網の手入れも昭和20年前後に沿岸漁業していた頃には毎日のように網棚に上げて干すことが出来たが、漁場が沖合いになり何十日も網の手入れが出来なくなって来た昭和27年頃から昭和30年の3年間ばかりは、網の腐食を防止するため船乗りが最も嫌っていたコールタールでの網染め作業をしなければならない辛い時期があった。
 
網棚 昭和27年ごろ 
当時は網が腐蝕しないように帰港すると、必ず網を網棚に干していたが、それはすべて手作業で行なわれた。この写真の風景は浜串に漁港。
最近の網揚げ作業は機械化されている。

 

 コールタールは強烈な匂いがするだけでなく、油であるため一度身体に付着すると洗い落とそうとしてもなかなか落ちない。

 特に蒸し暑い真夏の時のコールタール染めはみんなが嫌がっていた。作業の時には、出来うるだけからだをコールタールで汚さないようにしてもなかなか出来るものではない。油負けしないように顔にも腕にもおしろいをつけて作業するけれども、どうしても作業後にはからだに嫌な匂いが染み付き、こびりつく。夜寝るにしてもからだがひりひり痛んでなかなか寝付かれない。月夜間の休暇に家に帰ってもコールタールの匂いがからだに染み込んでいるものだから、女房から「臭くて、もてんから船をおりて他の仕事に就いてくれ」とせがまれる主人たちもいたくらいである。

 そうかといっていつまでも染めないで放っておくと網は使い物にならない。ある奈良尾町岩瀬浦の巻き網船団はいつまでもコールタール染めをしなかったばかりに網を腐らせてしまい、それが原因でなぐれた(倒産した)。このようなことがあったので、止む無くコールタール染めをしていた。あるときは作業の効率化をはかるため、コールタールに防腐剤を混ぜ合わせたものを網の上から直接注ぎ込みコールタール染めをしていた。

 しかし、昭和30年頃になると網の腐食に強いクレモナ状の上質の網が開発されたが、色が真っ白であったので魚がおじない色に染める必要があった。それもほんのしばらくのことですぐに魚がおじない黄褐色の網が開発された。

転職続きの山田氏

 山田氏は昭和24年から乗っていた福邦丸の待遇が他の船団のそれに比べて悪かったので、昭和26年、待遇が良かった同じ奈良尾の巻き網船「大洋丸」に転職する。5年ばかり大洋丸に乗っていたが、この船でも体力が人よりも劣るということで、なかなか待遇面が改善されなかった。そこでまた、転職することにし今度はその頃奈良尾の巻き網船団の中ではよく豊漁していた「大宝丸」に転職した。転職した大宝丸も一時期は良かったが、間もなく不漁が続いたために給料が出なくなったばかりか、やがて会社そのものも昭和34年に倒産してしまった。
 
1991年9月、北松浦郡鹿町町褥崎漁港

 すると同じ大宝丸の火船の船長をしていた桐の高見忠義から「桐の勢漁丸に乗らないか」との誘いがあったので、勢漁丸にのることにした。昭和34年の夏のことである。

 ところが、この頃の勢漁丸も傾きかけていて給料さえ支給されない月があった。そこでこれでは生活できないと考えて暇をもらうことにし、当時、勢漁丸の船頭をしていた戸川金次郎氏に転職を申込むと、戸川氏は「もう止めるのか、もう少し辛抱したら」と保留された。しかし、昭和34年の年末のことでもあり、やめる時期としたらきりがよいので辞めることにした。

 昭和35年の正月を郷里で過ごしていると、大洋丸に乗っていた米山の白浜明氏から「大洋丸」に就職しないかと勧められたので、もと働いたことのある大洋丸の火船の船長補佐として乗ることにしたが、待遇面はいまいちであった。

 ところで、船の世界では力があり、背の高い体力がある人が優遇された。号尺(ごうしゃく)のない平の船乗りでも体力のある人は一人前の給料より高い給料をもらっていた。山田氏は背が低いうえに、人よりも腕力がやや劣っていたので体力面においてはどうすることも出来ず、給料は一人前に色がつく程度のものでしかなかった。

 これまで転職して待遇の良い会社を転々としたが、思ったように待遇の改善はなかかったし、これからは年をとっていくばかりであるからますます待遇改善は期待できない。

 大洋丸に乗って半年が経過した昭和35年夏のことである。北松浦郡小値賀町の漁協主催で船長の免許の講習会があることを知ると、大洋丸をおりて講習会に申し込み船長の免許を取得することにした。
なぜ船長の免許を取得することを決意したのかというと、理由は以下の通りである。

 昭和22年に一応船舶職員法が制定されてはいたが、昭和35年頃まではやかましくなく、たいてい無免許で船長をする者が多くいたが、昭和35年からはいよいよ無免許で動力船を操縦することはたとえ技能があったとしても難しくなっていた。会社側も船長の免許を取得している船乗りを優先し待遇も良くするようになっていた。

 山田さんは幸いにも試験に合格し乙種船長(5級海技師免許)を取得できたので安堵していると、一緒に船長の免許をとった白浜明からの誘いがあったのでまた大洋丸にお世話になることにした。そうしたのは、また、大洋丸をおりる前に「もし船長の免許を取得したらまた来てくれ」と大洋丸の幹部の人から言われていたからでもある。

 こうして大洋丸に船長として再就職したら船長の免許を取得しているということと、船長としての技能が高く評価されて号尺は一気に1.8になった。つまり、給料は二人前近くもらえるようになったのでとても嬉しかった。
 
 その頃、米山の信者が大洋丸に10人くらい乗っていたので、彼が船長をしている火船から郷里の米山に帰ることが出来るなら同士も喜ぶだろうと思って社長に許可を願ったら「よか、よか、また、これからも許可なくいつでも使っていいから」との返事であった。その後、米山の大洋丸従業員はみな月夜間の休暇になると、塩つけのアジやサバを手土産にして帰ることが出来るようになった。また、鮮魚が月夜間直前に捕れたときには鮮魚もトロ箱いっぱい持参できるようになった。

 また、昭和43年1月15日のことである。その日は大瀬良肝一・ジツ夫妻の結婚式が小値賀教会で予定されていたが、あいにくの悪天候で前もって予約していた渡海船が欠航した。困ったのが結婚式ミサと披露宴に出席予定の本土のお客であった。しかし、幸いにもそのときは月夜間で米山の港には時化にも強い大洋丸の鉄船が係留していた。そこで、その船長である山田氏はその鉄船である火船でお客を小値賀港まで渡してあげたら大変喜ばれて感謝された。
 
浜串を基地にしている昭徳丸 本船

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